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酒場は不要不急の場所か?

首都圏で外出の自粛要請が出された。食料品や水が買い占められ空前絶後の事態となっている。数日前までは対岸の火事のように感じていた「コロナウィルス騒動」でしたが、客足は目減りし大変な状況となっています。

「不要不急の外出は控えてください」とテレビでは再三言われています。

では酒場に来ることは不要不急でしょうか。
そもそも不要不急の定義とはなんだろう。言葉の意味と定義を考えるには、対義語を明確にするとわかりやすい。不要の対義語は必要、不急の対義語は火急(かきゅう)だ。敢えて対義語を作るならば「必要火急」となるが、そのような熟語は現時点では存在しないそうです。

都知事、県知事の会見の言葉を借りれば、日程をずらせるスケジュールは「不要不急」に当たる。逆に生活必需品を買いに行くことは不要不急には当たらないそうです。

では生活必需品とは果たして「物品」のみなのだろうか。
我々が対価、すなわちお金を払って得られる物は「財」と呼ばれ、その範疇は物品のみならずサービス全てが該当しうる。
 
ミクロ経済において財は「上級財」と「下級財」に分類されます。当店が提供するサービスは「外食産業」である事からスーパーで買うお惣菜や缶ビールと比較すれば「上級財」に当たる。しかし当店は高級店では無いと考えているので近隣の同業店、競合店と比較すれば「下級財」として消費される局面も多い。外食産業があまりに多様化した現在、上級財としても下級財としても勝負が出来る点は当店の特色の一つだと考えて商売をしてきました。
 ミクロ経済の話でさらに踏み込むと、上級財は「奢侈品」と「必需品」に分類されます。奢侈品とはいわば贅沢品、嗜好品の事であり一般的にお酒や外食は奢侈品とされる。
 
前述した不要不急の定義をミクロ経済的に考えると「奢侈品の財を求めた外出」ということになります。
酒なんてものは、飲まなくても生きていける財であり、家で飲むことも出来る酒を求めてわざわざ外出する行為は、不要不急だと糾弾されてしかるべきなのです

では酒場は必需品になれるのか?

今回の政府の要請に違和感を覚えるのは「消費活動とはモノのみ」という価値観に停滞していると言わざるを得ない発言や要請があまりにも多いからです。「モノより思い出」というキャッチコピーがあるように、人生において体験の消費、居場所の拡充は物を買うこと以上の財産のはずなのに、その発想と想像力があまりに乏しいと感じてしまう。

私が提供している財、すなわちお金との交換している商品は酒であって酒ではないと自信を持って言えます。
酒と食べ物を媒介して与えている対価は、お店という場所で得られる体験と経験です。
何故ならば酒自体はどこで飲んでも同じだからです。
スーパーで買って家で飲んだ方が圧倒的に安上がりなはずのお酒を人はわざわざ飲みに酒場にやってくる。その意味は実は物凄く重い事ではないでしょうか。

酒場とは、ある人にとってはライフラインであり、奢侈品、嗜好品なんかではなく、必需品にも大いになりうるのです。「酒」という物質単位で見れば奢侈品ですが、酒はあくまでツールであり「場所」という観点で見れば立派な必需品なのです。

功利主義で考える酒場の位置付け
 
では、三密空間になる可能性を孕んでいる酒場の営業を継続する事の是非は如何なものなのでしょう。
自粛か決行か。「不謹慎」という便利な凶器の言葉のせいで行動が難しい中、私は二人の哲学者からヒントを得ました。

ベンサムと、ジョン・スチュアート・ミル。「功利主義」という考えを説いた人たちです。
功利主義とは人間の行動原理は最大の効用(幸福)を目指す。という思想ですが二人の効用に対する見解は少し違います。
ベンサムは幸福の「量」を重視しました。量とはすなわち人数、最大多数の最大幸福の実現を重視しました。

ベンサムの功利主義に拠ればイベントを全て自粛し、日用品を買い占め家に籠る行為は結果としてウィルスによる被害を抑え込むことが出来るでしょう。最大人数の効用の為には、多少の犠牲はやむなしという事です。
一方でジョン・スチュアート・ミルは幸福の「質」を重視しました。同じ快楽の中にも高級なものと下劣なものがあるとしたのです。

彼は「満足した豚よりも不満足な人間の方が良い。満足した愚者であるよりも不満足なソクラテスの方が良い」という言葉を記しています。満たされれば何でも良い。という考え方を批判し快楽や幸福の質的充足を求めたのです。全ての人が良質な幸福を求めれば理想的な社会になると説きましたが、「自分さえ良ければ良い」ということでは決してありません。
彼は利他主義を幸福の前提とし、本当に良質な快楽とは「献身」であると主張しました。

 では、マスクを買い占め高価に転売したり、必要以上の米やトイレットペーパーを買い漁る事は質的な幸福の追求と言えるでしょうか。これらは利己主義な愚行であり、満足した豚に成り下がってはいないでしょうか。
 
個人の自由と質的な幸福追求を重要視したミルの考えに基づけば、曖昧な定義付けのままで政治家が「不要不急の外出は控えろ」と通達をするのは大変な違和感を覚えてしまいます。「みんなとりあえず我慢しよう。」は量的な幸福追求に過ぎず、日本人にありがちな同調圧力。さらには戦時中に言われた「欲しがりません、勝つまでは」と同義語のようにも捉える事が出来てしまい恐怖すら感じます。

酒場は最大多数幸福を目指せる場所ではないです。しかし、良質な幸福の担保のために、不満足なソクラテスになるために酒と酒場を求める人も少なからずいるのです。

ここで言う「酒場」を生きるために必要としないはずの「芸術」を提供する場所。ライブハウスや美術館、またはキャバクラや性風俗産業に置き換えても良いです。

ハイブランドのアパレルショップでも、スニーカー専門店でもカラオケでも。「うるせー!俺はここが好きなんだよ」と言いたい場所は誰しもあると思います。そしてそれの選択肢が多ければ多い人間ほど、私は価値のある人間だと考えています。


新約聖書、マタイによる福音書に記された言葉に「人はパンのみにて生くるにあらず」という言葉があります。有名な一節ですがこの続きを知る人は意外と少ないのではないでしょうか。イエスがサタンに対して言われた言葉ですがこの説はこう続きます。「神の口から出る一つ一つの言葉による」と。


キリスト教において「言葉」という概念は非常に重要です。聖書という書物の書き出しは「はじめに言葉ありき」です。まだ光も宇宙も無かった”無”の状態においても「言葉」のみは存在したのです。キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の教典である旧約聖書における神は「言葉」のみで全てを創造したのです。
 だから言葉は「パン=食べ物」よりも重要とされるのです。

生きるために必要な「言葉」すなわちコミュニケーションの場所を奪う権利は誰にも無いはずです。
個々の質的幸福追求と「言葉の補充」は決して贅沢品の購入ではありません。
だからこそ、酒場に来る事は不要不急なんかではないのです。




※批判が多数あったので。

最優先事項はあくまでウィルスを拡散しない事である事は重々承知をしています。自宅待機、自粛を否定する意図も、自分は保菌者では無いという過信も危険だと考えています。

しかし、こんな視点もあっていいのではないでしょうか。

20/3/29

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