人はついうっかり「自分の望み」をはき違えてしまう いともあっさりと。いとも簡単に。
私は、人との距離感が遠いのがデフォルトなので「おはよー」だけのLINEのやりとりとか、トイレまで一緒に行く女子的つきあいとか、得意ではないのだけど、それでも、誰かを悪意を持って遠ざけようとしたことはないし、そんなことは望んではいない。
「伝えていることがまったく通じない」という絶望感で死にたくなることはあるし、怒りを溜め込んでいる人や被害妄想をもとに絡んでくる人などに出会えば「うわ〜、どうしようかなぁ」とも思う。けれどもそんな時でさえ、「嫌ってやれ」とは思ってはいない。人を嫌うことはあってもいい。苦手だな、嫌いだながあることが悪いことだとは思わない。
けれども「覚えてろよ」と恨みに思い続けることを、私は望んでいないのだ。たとえ、日常の中に「覚えてろよ!」と言いたくなる出来事が起きたとしても、そして実際に空に大声で叫んだとしても、自分の心の奥の奥にそれを望んではいない自分がいることを、忘れないようにしている。
この「自分が本質的な部分で望んでいることは何か?」ということを把握していること、そしてそれを忘れないことは個人的に大切なことだと思っている。
どんな大雨の日でも雲の上には太陽や月や星が輝いているように。
どんなに寒い冬でも春きて暖かくなれば桜が咲くように。
そこに「私が私であること」の意味があるからだ。
人はついうっかり「自分の望み」をはき違えてしまう
いともあっさりと。いとも簡単に。
例えば、たばこが吸いたいという欲求は、おいしいからなのか?それともイライラをとめるためなのか?私の場合は後者で、本質的なところで私が望んでいたのは「タバコをやめたい」であったにもかかわらず、ずっと「吸いたい」「吸うことを望んでいる」と思っていた。
その禁煙体験の話はこちら↓
https://note.com/chika_ikeda/n/ndd6fca5380e6
ほかにも、健康を害するほど仕事からの負担がかかっているのに、仕事が好きだと思い込んでいたり。仕事が好きなのはけっこうだけれども、体がしんどくなっていることが、自分にとっての本質的な心地よさなのだろうか?
こんなふうに、自分が本当に望んでいることと、意識で思っていることの乖離というのは、珍しくない。
「あの時、自分が自分のことをよくわかってなかったなぁ」と思う体験は誰にであるはずだ
ただ、困ったことは、本当に望んでいることと、意識で思っていることの乖離が続くと、何度でも同じような出来事が繰り返されるということだ。
「自分の望みはそれではない」ことや「本来の望みを見失ってしまったのはなぜか?」に気がつくまで、親切にも「違うよ〜」「気が付け〜」とお知らせしてくれる。そしてそのお知らせをスルーすると、わかりやすい形にアレンジされてサインは派遣されてくる。それが「失う」という形だ。そしてその失うものが大きく慣ればなるほど追い詰められていく。
私は人生をかけてそのサインを無視し続け、最後に命以外のすべてを失った人をそばで見続けてきた。すべてを失って人生かけた壮絶な勘違いから解放されたわけで、生きていられたのだから上出来だとは思うけれども、物質的なものだけでく、見えないものもそれはそれはたくさん失った。周りの人の信頼や誠実さや愛情のほとんどを拒絶し、その人は与えられていることを信じられずに苦しんだ。その様子をずっとそばで見てきて、つくづくと思うのは、与えられていることに気がつかない苦しみとその苦しみが生み出した恨みほど、人の心を蝕むものはないということだ。人は苦しみと恨みの中で鬼になるのだと思う。
本質的に自分が望んでいることを知るにはどうしたらいいのか?については
こちらで考察しています
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