丸投げ
Youtube動画のおすすめに、とある呪術師の方の動画があがってきてみていたら、呪術の修行でなにが大切かといったら心と身体を整えることで、その上に呪術で扱う魂や霊などどいういわゆるスピリチュアルな修行が生かされるというようなことを言われていた。
で、この心と体を整えるって何かっていったら、寝ること、適量を食べること、そして出すこと。これができてるかどうかだそう。
私は修行したこともないし、その世界におけるアカデミックな場で学んだこともないので、自分が経験してきたことからの実感でしかないのだけれど、この方の話をそうだよなぁと思った。
自分自身の状態が心身ともに悪かったら、どれだけ学んでもどれだけ知っても、どれだけアファメーションして神社に参拝し、ありがとうを連発したとしても、それはいかされないのだろうなと思う。
あれと一緒だ! すごく効果のある治療でも、本人に基本の体力が備わってなかったら十分な効果がでないというのと同じ。ようは、それを求める本人の心身の土台によるのだ。
よく医療関係の人がSNSなどで「個別の相談にはコメントしません」というもの、つまりはこういうことなんだと理解している。その人の心身の土台の状況に対する理解があって治療方針も決まるわけで、それをSNS上でやるのはいろんな意味で無謀なことだ
そういうことがわかっている人は、別にスピリチュアルや心理学、医療、ボディワーカー系の世界だけでなく、普通の社会の中にもいて、それがわかっているからこそ、相談をしても「本人次第じゃない?」とか「あなたがどうしたいの?」とか「やるかどうかはあなた次第」とか、言い方は都度違うけど、そんな感じの答え方が返ってくる。
この理屈がわかっていない人にとっては、この対応はめちゃくちゃ冷たく感じられる。
「こんなに苦しいのにわかってくれない」「ちょっとくらい解決策を教えてくれてもいいじゃないか、ケチ!」「相談したのに答えてくれない」と受け止められてしまいがちだ
その呪術師の人もそんなふうなことがあったらしくSNSをやめたと言っていた。
何年も前から二極化とか言われているけれども
誰かに自分の人生を丸投げしてもどうにもならないことに気がついて能動的に生きようとする人と、他人や権威や世間に自分の人生を丸投げし続けどうにかならないままに苦しむ人に分かれていくのだろうなと感じている
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二極化といえば、最近、改めて思ったことがもうひとつ
分離(二極化)とはまた別な話なのだけど
私は20代の半ばごろ「うっかりへんな宗教にはまってしまいそうで、危なっかしい」と友人たちに心配されていた。当時はそう心配されることがまったく解せなかったのだけど、友人たちが心配した理由がわかった気がしている。
私は、ずっと自分が物事を把握したり、理解しようと思う時に、ごった煮のようにいろんなものがボーダーレスに混じりがちであることに自覚がなかった。
私は見えるわけではないので、この「ごった煮」は実在するものとそうでないもののが同じように見えるという意味ではない。
わかりにくい表現しかできなくて歯痒いのだけど、科学や文明の発達の中に芸術性を感じたり、人体のしくみに哲学を感じてしまったり、よい音楽を聴くと風景となって音が聞こえるという感じなのだ、私のいう「ごった煮」って。
狂気の中の尊さや、ファンタジーの中の残酷さ、みたいなものを発見するのが好きだし、そういう、一見、別々であるものが同時に存在するのが当たり前という感覚がある。
ただ、それが心理学で言う統合か?と言われたら違う。
統合とは許しという心の動きの中で起きることだけれど、私のそれは認識力というか情報処理の仕方のようなものである。
そんなふうにごった煮的情報処理をしながら生きているということが、息を吸うかのように当たり前だったので「そうではない感覚で生きている人もいる」ということに思いが及ばなかったのだ。
こうやって書いてみると「そりゃそうだよ。すべての人がそうなわけないじゃん」と思うし、ごった煮していない人からみたら「こいつ大丈夫か?」と心配になることもわかる(笑)。
のだけど、物事はなんでもそうで、それは意識化したからわかることで、無意識のうちは、自分のことも周りのことも客観視などできないものだ。
今後、心配されないように何かをするってわけではないのだけれど(しないというよりも気質なのでたぶんできない)、疑問がとけてすっきりしたことと、感覚を共有できなくても、ずっとこの私につきあってくれる友達には改めて感謝だなと思う