刺繍がなぜか続いている
1月の末に編み物を完結させて次は刺繍に挑戦だと思い、刺繍に手を出している。
編み物を一段落した時には
次は編み物と同時にふと頭に浮かんだ刺繍に挑戦してみる予定
どんな意味を見出せるか
まったく意味などないのか?
今、言えるのはやってみたらわかるということだ
などど書いていたが、その後のことなど書き残しておこうと思う
現時点で刺繍は相変わらず続いている
へなちょこ刺繍だけれども、何かしら「今、刺してるやつ」がある。
関係ないけど、刺繍の世界では刺繍することを「刺す」っていうんですね。
最初ちょっとその響きの強さに驚いた。でも、カウンセリングでも「切る」と言ったりして、それでクライアントさんをビビらせたりすることがあるのだけど、「刺す」と聞いた時の気持ちで、ビビるクライアントさんの気持ちがわかったような気がする。そんなに怖くはないのですけれどもね、言葉の響きってあるものね
話を戻そう
私にとって何よりも意外だったのは、ひとつ刺し終わると「次は何を刺そうかな」と思うことだった。
今でもそうなのだけど、「刺繍たのしー」「刺繍大好き♡♡♡」という激しいパッションはないのだ、けれども、刺し終えるたびに次を考えているのだから、好きだし楽しいんだな。
そもそも、予測として、刺繍は私にとって編み物とはまったく違う意味合いを持つのだろうなとは思っていたのだけれども、その予測は大筋あたっていた
編み物は編むことに意味があり、それは自分自身をマイナスからゼロへとフラットにする行為に近い。
刺繍はそれとは違って、ゼロからプラスへの行為なのだろうなと思う
その証拠に刺繍をして終わりという感じではなく、その先がある
例えば、チャームにしようとか、タグにしようとか、アップリケにしようとか
何かしら刺繍の先にゴールがあって、刺し始める
そして、やっかいなことに、そのゴールが刺繍同様にやったことがないことだったり、向いてない、苦手だと思うことだったりする
なぜ、それを思いつく?私よ
なんとなく、だけれども単純に「苦手を克服」とかそういうことじゃなくて
もっと違う意味でこの経験から気づくことがあるのだろう
なんかね、仕組まれた感じがしている
いったい私は人生における何を回収しようとしているのだろうか?
刺繍との対話は続く