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老いと死について

私が娘を産んで強烈な生を目の当たりにした反動なのか、その直前に祖母が倒れたからかわからないけど、死 との距離が少し近くになった気がする。今まで全く眼中になかった死について、さらに父の同僚や私の元上司が相次いで自殺したのをきっかけに、時々考えるようになってしまった。

もともと、死 は遠い存在だと思っていたからか全然怖く無かった。人はいずれ死ぬ。わかっているつもりだった。

私自身が死ぬのは、最悪仕方ないなとも思う。もし不治の病で壮絶な最期を迎えるくらいなら...認知症になって大切な人や記憶さえなくしてしまうなら...自分が自分であるうちに、死ぬのも選択肢だ。スイスに行けば安楽死ができるらしい。それに、死ぬ前に、結婚式みたいに大好きな人たちを集めて盛大なお葬式をしたい!小さい頃からの写真を集めて展示して、それを見ながら語り合う...。それに、お墓はいらない、死んだ後のことは良く解らないけど同じ場所にじっとしているのなんて性にあわないから。浮いたお金で子供に大層なジュエリーを私の形見として渡したり💎するんだ。

私は常識はずれでもなんでも、そんな死を選びたい。

一方で、身近な人の死は、なかなかこたえる。それは、祖父母の老いだ。それはただ老いるのではなく、死が透けて見える老い。めちゃくちゃだったけど威厳があったおじいちゃん、働き者で適当なおばあちゃん、優しくて大好きなおばあちゃん。祖父母の代が確実に、会うたびに、老いていく。仕方がないことなのだけど、つらく、切ない気持ちになる。ひとの栄枯盛衰を見ている気分。

それに何が怖いって、その次、老いるであろう両親のこと。今まで、そして今でも精神的にも肉体的にも頼っている両親がいなくなった時、私は誰を支えに生きればいいんだろう?きっとそれを祖父母に対して両親は考えているだろうし、娘も私のことをそう思うのかもしれない。

その時、生きていて欲しいからの一心で 大切な人のことの意志を尊重しないことは避けたい。生きることは自由だ。

死に方は、生き方そのもの。


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