新しい世界を創る
ここのところ
なんとなく自分の中で
根本からひっくり返るような
何かが変わる時だなぁって感じてた。
それが何なのかわからなかった。
はっきりとしない仕事の方向性なのか。
病気や怪我など、身体上の変化なのか。
周りの人を含めた環境の変化なのか。
その片鱗が見えてきた気がするので
ここに残しておこうと思います。
「だってー、そういう感じだから!」
先日、Facebookを見ていたら
お子さんが3歳の時に、なんで?と聞いたら
返ってきた言葉だそう。
この投稿を見て
私はつい、無理に理由を作ってるなって思った。
感じたことに理由なんて必要ないのに
あたかも正当そうに聞こえる理由をつけて
誰かを納得させようとしていたのかもしれない。
どこかで、理由がないといけないって
思い込んでいた。
もちろん、理由や根拠が必要な時も多々あるけど
何を言うにも、何をするにも
無理に作る必要はなかったんだって気づいた。
「因果関係もなにもない」
こちらは別の方の投稿。
何かしたから、何かが起きたわけじゃない。
何かしなかったから、何かが起きなかったわけじゃない。
そんなことが書かれていた。
これを見た時に
実は因果関係って後付けじゃない?って思った。
結果を見て、その原因を勝手に後から探したんじゃない?って。
本当に、それが原因だったのかはわからないんじゃない?
ただ、感じたままに動けばよくない?
二つの投稿を同じ日に見て思った。
言うこと、やることに理由なんてなくてもよくて
人を納得させなくてもいいし
理由は見た人が考えてくれるんじゃない?って。
一つ一つ
こうなるために、これをしなきゃって
頑張る必要あるのかなって。
余命があと1か月だとしたら?
ふと、余命があと1か月だとしたら
何をしたいだろうか?
私は何も浮かばなかった。
日ごろはやりたいこともあるし
欲しいものもある。
でも、それって生き続けることが前提だよね?って思った。
今よりもっと快適に暮らしたいからこそ
「やりたい」「欲しい」と望むのであって
もし、あと1か月しか生きられないのなら
ただ、今を快適に過ごすことが一番の望みだな。
お金を稼ぐのも、未来がある前提。
本当に来るかわからない、不確かな未来のために
無理をする必要なんかないんじゃない?
価値を提供し続けないといけない強迫観念
価値を提供し続けなきゃいけないっていう
強迫観念に憑りつかれてるのかもしれない。
ものを作る。
知識を伝える。
楽しませる。
他にもいろいろな価値の提供がある。
どれも尊い。
価値を提供することでお金を受け取れる。
提供することができなくなったら受け取れない。
お金がないと生きていけない。
価値の提供ができなくなったら
存在する価値はないのか?
価値の提供ができなくなるまでに
頑張って、あるいは無理をして
本当に来るのかどうかわからない
不確かな未来に備えるのって
しあわせなことなんだろうか?
不確かな未来のために生きるより
「今」は確実に存在する。
「未来」は不確かなもの。
そのために、今を犠牲にしていいのだろうか?
「今」はこの瞬間にしか存在しない。
確実に存在する「今」を心地よく過ごせる世界を創りたい。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
ただ、ふと思ったことを書き留めておきたくて。
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