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名もなき遊びから広がる世界
森のようちえんの活動で、子どもたちの様子を観察していると、名もなき遊びが生まれては消え、消えたと思ったらまた復活したり、進化したりしている様子を目にすることがあります。
ある日、市内の渓谷にあるキャンプ場に出かけた時のこと。6歳と3歳の女の子たちが、「探検に行こう!」と言って手をつなぎ、ぐるぐると林の中をお散歩していました。興味の引かれた場所で少し立ち止まっては、また「探検に行こう!」と言って手をつないで歩きだす、その繰り返し。
3歳の女の子が探検という言葉を理解して使っているのかはわからないけど(もしかしたら絵本で知っているかもしれない)、いつもの「お散歩」を「探検」と名付けて声に出すことで、いつもと違った風に感じられるのかなあ、それとも「探検」という言葉の響きを楽しんでいるのかなあと思いながら観察していました。
別の2歳の男の子は、「先がいい感じに曲がった杉の枝」を持ってやってきました。この枝で釣りをしよう!と誘われたので、私も似たような枝を拾ってキャンプ用デッキの端っこに立ち、釣りの気分を一緒に味わいました。これはたぶん、釣りごっこ。
他にも、
川でひたすら水面に石を投げる。
水たまりでバシャバシャする。
枝を集める、振り回す。
斜面を転がり落ちる。
こうした名もなき遊びが生まれては消えたり、発展して別物に変化したりとおもしろい。すごいなー、おもしろいなー、全部覚えていたいなーと思うけど、メモする前に忘れてしまう遊びも多いです。
今ちょうど、永井玲衣さん(哲学者)の本「世界の適切な保存」を読んでいるのですが、自分が観察している目の前に広がる世界を適切に保存することは難しいなあと日々感じています。
だからこそ、その瞬間に価値があるとも言えるし、忘れたくないと思う。
カメラを回しても、メモに書き留めても、どんなに記憶しようとしても、わたしたちのよくわからない何かは、適切に保存することはできない。
だからわたしは、思い出せないということを書く。何かが失われたということを書く。適切に保存ができないということを、くり返し、くり返し書く。
あなたの瞳の動き、腕をさする右手、ぴかぴかの蛍光灯、足首に感じるわずかな痛み、ごとんと落ちた誰かの靴の重い音。もう思い出せない。
私たちは、名前のあるものや意味のあるものに囲まれて暮らしています。もしかしたら、そうしたものに囲まれすぎていて、目の前の世界をちゃんと見れていないかもしれない。名前のついてない、取るに足らないとされがちなものを受け取れなかったり、自由な創造力を発揮できなくなっているかもしれません。
だからこそ、子どもたちがまだ定義や意味づけをされていない遊びを始めるとき、とても嬉しくて、自分の世界もぐぐっと広がっていくような気がするのです。
そうした瞬間に立ち会いながら、子育てや森のようちえんでの活動を楽しんでいきたいなあと考えています。
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