自意識が文章のじゃまをする
歌と文章ってちょっと似ているな、と「幽霊と作家」を聴きながら思う。
YouTube musicで、お気に入りの音楽をかける。
最近、水曜日のカンパネラの「幽霊と作家」ばっかり聞いている。
詩羽ちゃんの声がかわいい、とんでもなくかわいい。それで、歌詞もかわいいし、音の運びが癖になる。
冒頭の「幸せになりたーい」ってところが一番好き。音階が上がるにつれて、声が広がっていく伸びやかさが好き。あと、「いくつーものでーあいを重ね」ってところも解放感があって好き。
ここで「特徴的な歌い方が癖になるんだけど、それ以上にロングトーンが上手というか、そもそもの発声がすごいんよな」と思う。
当たり前かもしれないけど、ちゃんと声が出ている。その上で、声の入り方とか残り方が一定で、「詩羽節」みたいなのが確立している。
そういえば、カラオケで「聞いていられない…」と思うのは、発声に無理があって、癖が強い歌い方だよな~と思う。その「癖」は、流行りの歌手の真似をしているだけで、なんの哲学もオリジナリティも感じられない。
別にぼくも歌が上手いとかいうわけではないし、カラオケに哲学は持ち合わせていないので、歌に関してはまあなんでも良いんだけど、「あ、文章と似ているぞ」と思ったのだ。
数カ月前からコツコツ文章を書くようになって、それを公開するようになって「自意識がじゃまをする…書きにくい…」と思うことがよくあった。なんだろうな、使い慣れていない難しい言葉を使ったり、語尾をわざと硬くしたり、ちょっと自慢が入ったり、本音を完全に隠してしまったり、シロクロ付ける書き方をしたり。そういう「自分の言葉で書いていない、本音が出ていない」感じ。
それで、自意識の高い文章というのは、書き手の思惑を大きく外れて、本当に伝わらない。加えて(悲しいことに)不快感だけを与える。
自分の文章は、だんだんとマシになってきていると思う(少なくとも書きにくさは薄れてきている)けど、トピックによっては、また、多くの知り合いが読むだろうなという文章においては、やっぱりまだ硬さというか、「壁」みたいなものが出る。
千葉雅也さんが、Twitter(X)でこんなことを書いていた。
すごく分かるなーと思った。
ほんとに、添加物が少なめな「ナチュラル」な書き方が、湧き上がってきたような言葉が、一番伝わるんよ。ブログでも、手紙でも、講演でも、会話でも。
だんだんと「自分節」が確立されていくんだろうけど、それはきっと結果論であって、最初は、できるだけナチュラルに、新鮮に、出てきたものをそのまま文章に落とし込むのが良いんだと思う。
「村上春樹風の文章」みたいなものを試しに書いてみるのはとても面白いけど、伝えたいことも熟していないまま、プロの文章のディテールや比喩をただ真似していたら、かっこつけていたら、「聞いていられないカラオケ」になっちゃうよなー、と、そう思いました。
発展途上で方法論を語りすぎると自分を縛るかな、とも思ったけど、ただ感じたことなので、これはこれでヨシとします。
ちなみに、詩羽ちゃんは、ちょっとバブみがあるのがたまらなく可愛い。