ソローが与えた衝撃(メモ 卒論で使うかも)
設備や機械の増加が成長の主要因であるという考え方をエコノミストは「資本原理主義」と呼称しており、この思想は多くの経済学者が信じてきた。
ノーベル賞受賞者のロバートソローは「設備投資は長期的には成長の原動力に成り得ない」とお結論づけている。この衝撃は当時はもちろん多くの経済学者に影響を与えている。
資本原理主義を懐疑するものは国際金融機関の人間にはほとんど見られない。昨今のレポートには「生産資本の蓄積が経済成長の基礎である」「投資を増やせば、経済・社会面のほとんどの政策問題は(部分的にでも)解決可能」という叙述まで存在する。
先ほどのソローの「投資は成長の原動力に成り得ない」というショッキングな結論に彼はどのような過程を経て到達したのだろうか。彼は1957年の論文において、労働や機械が増えれば増えるほど生産はぞうかし、機械への投資を増やし労働力を増やせば。生産は次第に増加するという見解を示している。ここでいう「成長」というのは、一人当たりの生活水準が”持続的に”増加するという見方である。
従って、一人当たりの生産性に関心が集まる。一人当たりの生産を増やすためにはインプットは「機械」と「労働」の二つの変数のみを考えてみる。そうすると、機械の増加率が労働の増加率を上回ればいいと考える者も存在するだろう。しかしこの考え方には問題が生じる。収穫低減の法則である。すでに7台の機械を有している労働者にもう一台与えて良い結果が与えられるとは考えにくい。かくいう筆者も、Macbook pro、iPad、iPad pro、iPad mini、iPhone13、と機械を増やし続けてきたが、それらを所有、または増加させることによって労働生産力(学業や資格試験取得の勉強量、質)が向上した感覚は全くない。むしろ紙媒体で勉強していた、高校時代の受験勉強とさほど変わらないか、低下しているようにも思える。これは一途に機械のせいということもなく、機械が提供する娯楽が余暇をことごとく奪ってるとう要因も存在するだろう。話が脱線したので本線に戻す。
ソローが主張した投資の収穫低減性が衝撃的だったのは、設備投資や機械投資がGDPにとって驚くほどに重要ではない生産要素と捉えたからである。1957年の論文によるソローの推定ではアメリカのGDPのうち資本への配分は約1/3であると予想された。この配分率の予想は今日のアメリカのそれと大差ない。残りの2/3は労働者への所得分配である賃金所得である。つまり、資本は総生産の1/3を占めるに過ぎず、投資の収穫低減は大きくなる。機会が希少である場合、一台機械を追加したときの収穫は大きいが、機械が豊富である場合には機械を追加した際の追加的な収益は小さい。
先ほどの私の話を例にすれば最初のMacbookの購入による労働生産性に寄与する収穫は大きいが、iPadのシリーズを追加購入するたびにその収穫は減少している。ここにおいて、賢い設備投資は次々に新しい機械を導入することではなく、現在所有している機械を高性能なものに買い換えることである。