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独身部屋おじさん
さて、52年にわたる母との思い出話を書いていきますか。と、はりきってnoteを開いたものの…。まぁ、びっくりするぐらい覚えていない。オレの記憶力は人類の平均を相当下回っている自覚がある。
母の件とは関係ないが、友だちとどこかに旅行に行ったりしても、そのことをすぐに忘れてしまう。何年かぶりに、当時一緒に遊びに行った友だちから、あのときどこそこでこんなことあったよなぁ、と言われても全然記憶に残ってないのだ。これがほんとに日常茶飯事で珍しくない。
そんな残念な脳みそだから、実は母に関する話もいくつかの強烈なできごと以外、わりと気前よく記憶から抜け落ちている。前にも一度書いたとおり、裕福な家庭ではなかったため、オレが小学生の頃には母はもう働きに出ていた。しかも実家には高校卒業までしか住んでいなかったので、それ以降は母と接する機会もグンと減った。と言っても、30過ぎた頃からひとり暮らしの部屋に週1で母が来て、身の回りの世話をしてくれていたから、頻繁に会ってたと言えば会っていたのだが。
いま、「子ども部屋おじさん」なる言葉が巷を賑わしているが、31歳から45歳までのオレは実家の子ども部屋にこそ住んでいないものの、いい歳していつまでも母に洗濯や掃除をしてもらっているイタいおっさんだった。
ここでカッコつけても仕方がないので、今回はそのダメ人間ぶりを題材に書いていこうと思う。それでもあえて弁解するならば、理由はつけられなくもない。やはり大きいのは目の病気のことだ。
オレは進行性の難病を患っている。しかし幸い進行度合いがゆるやかで、しかも7~8年前から症状は一定の状態で留まっているので、現在でも家事は問題なくこなせるレベルだ。決して30代の頃に母にあれこれ手伝ってもらう必要はなかった。
ただ、遺伝性の病気と言われており、母は自分のせいだという負い目を感じていた節がある。実際、遺伝とは関係なく発症するケースも50%ぐらいあり、オレの親族一同に同じ病気の人は誰もいないので、別に母から遺伝したわけではない。それでも母からすれば、バカ息子のために何かしてやりたいという気持ちになったのだろう。
ちなみにオレが病気を発症したのは20代前半だったが、30歳まではふつうに自分のことは自分でやっていた。エラそうに言うことではないだろ、という批判は勘弁願いたい…。
まぁいずれにしても、両親には長い間病気のことを隠していたので、母がとりわけ心配するようなことはなかった。それに当時住んでいたのは実家のある関西ではなく東京だったからおいそれと母が来ることもできない。加えて、母自身がまだ仕事をしていて忙しかった、というのもある。
それが、31になる年に、転勤で実家と同じ県内に引っ越すことになった。たしかその1~2年前に病気のことを両親にはじめて伝えたように記憶している。そして定年により母が仕事を辞めたのもその頃だったはずだ。
一気に母の関心はオレの方へと向いた。実家から車で40分ほどのところに部屋を借りたオレは、その直後から完全に独身部屋おじさんとなったのだ。変なアパートを借りてしまったのも原因のひとつで、今どきベランダにしか洗濯機置き場がなかった。しかもそのベランダ、屋根がない!思いっきり日差しと雨風を受けた洗濯機はすぐに使い物にならなくなった。
こうして、いろんな条件が重なった上に、しっかりと心配材料をばら撒いたオレは、母を思いっきり過保護に変えてしまった。母だけの問題ではない。オレもそれに乗っかって甘えまくっていた。毎週末、独身部屋おじさんの部屋を訪れる母。汚れた衣類を持って帰り、実家で洗った洗濯物を持ってくる。そして部屋にくると、掃除までして帰ってくれる。晴れてバカ息子の出来上がりである。
不思議なものだ。小学生の頃の母はわりと厳しかった。特に教育にはそこそこ熱心で、成績が悪いと強く叱責された覚えがある。もちろんふだんは優しいし、寵愛を受けて育ったという実感もあるにはあるのだが、それほど過保護だった印象はない。
ましてや、20代の頃などはオレも東京生活を楽しんでたから、年に1回帰省するかしないかで、正月でもスキーに行ったりすると実家に帰らないことも多かった。なので、その間の母との思い出はほとんどない。冒頭でも書いたとおり記憶力がポンコツというのも大きいかもしれないが、それを差し引いても20代のオレは母との接点が極めて少なかったように思う。
そう考えると、発症して以来苦しめられてきた目の病気も、悪いことばかりじゃなかったのかもしれない。目の病気になってなければ、母と接する時間は増えていないだろう。迷惑かけっぱなしのろくでもない独身部屋おじさんだったが、少しは前向きに捉えよう。