わかりやすくをやめる
つい、わかりやすくしようとする。
つい、伝えようとする。
つい、寄り添おうとする。
つい、一気に渡してしまいたくなる。
うっとおしいオカン?
これはわたしの癖だ。そして使い方や場によっては、わたしを限りなく薄めてしまうこと。
わかりやすさについて。
そもそもは人に伝えることが仕事なんだからいいんだよ。
でも、誰に対してどんな場で何を伝えるかがわかってなければ、わたし自身を薄め、誰でもよい、わたしでなくてもよい、ということになる。それって、いのちの表現に対してズレていると気づいたんだ。
だから、わたしは「わかりやすく」をやめることにした。よろしく!
あなたは??
以下は「わかりやすく」に至った経緯の自分のための記録。
小学校や、早ければ幼稚園や保育園に始まる社会と呼ばれる場所では、こうしないと生きていけない、生かされない、と勝手に学んできた。
生きづらかった小学生のあの時は、休み時間の立ち位置すらどうして良いか、命がけの実験みたいに通学していた。保健室が大好きだった笑
ひとの話は聞く方が良い
友達には合わせる方が良い
休み時間はみんなでトイレに行く
空気を読まなければならない
ひとの権利を奪ってはいけない
ひとの悩みは聞かないといけない
やろうと思えばできたけれど
それでもやっぱり無理はあった。
でもやめられない。何かがこわかった。
やっと仲良くなれたのに、壊れるとどうなるの?そのあとどうして良いかわからなかった。
そんな風にギリギリで、仲良くても別に楽しくはなかった。
ひとりっ子の時間が長くて、大人の中で一人過ごすことが多いとこうなるのか??
ほんとうにリラックスして楽しかったのは、近所の田舎友達や、どちらかと言うといじめられっ子たちといる時だった。いわゆる、変な子たち。
あと、家族は一番楽だった。いわゆる内弁慶。年の少し離れた弟と妹と。結婚して8年で乗り越えてきた父という存在と、いつでも味方のちょっとうるさい母と。
社会では、思えばいつも人体実験だった。目に見えない感覚を、感情にすら乗せられないこの感覚を、どうやったらまず感情に乗せて、そこから人とのコミュニケーションに繋がっていくのか、全くわからなかった。
人が死んでも悲しくないことを、幼心に隠していた。でもなぜ悲しくないのか、なぜ悲しくないことを隠すのか、よくわかってなかった。
わからないなりにずっと探していて、音楽や、言葉や、その湧いてくる不思議な感覚をたぐり寄せて、いつもそこに問いかけた。
そういえば、親の言うことを全く聞かず(今思えば全部なんてこったの大感謝!なんだけれど)、一般収入家庭から大阪で一番学費の高い芸大に行ったころ、開こうとしたあの感覚を一旦閉じたんだった。
あの頃起きたこと。
周りの才能に目がくらみ、自分の感覚が、自分の存在意義が、見えなくなっていた。あんなに問いかけてきた、そこにこそ答えがあると信じていた「あの感覚」を端っこへ追いやった。
だからきっと、大学生活はそれなりに楽しかったけれど、薄い記憶になってしまった。
バイト先での事や、そこで出会った彼との思い出の方が、めちゃくちゃでわたしらしくて、それでも愛されて楽で楽しかった。
(家や変な子や高校では楽しくて、小・中学校や大学では楽しくなかった。この辺り答えだな)
そのあと数年して、ぷらぷらと大阪の福島区で働いていた頃、あの頃のデザイン業は本当にわんぱくな仕事だった。左手にはタバコ、右手はマウス、終わりのないパソコン作業で5時をすぎたらビール飲みながら。
終わったらよく社長に着いて飲み歩き、福島のホテルに何度も泊まった記憶。
どうせならば会社を辞めて、いつもの帰宅路だった北新地(飲み屋街)で高給取りに働こうかと思った事もあった。
その不健康な暮らしに嫌気がさして、ふとはじめたアロマや鍼灸の学び、そこからまたわたしの感覚への問いかけが再開したんだ。
そのころ、仕事をやめた。理由は、母からの誘いでお店の設計のところから飲食店を始めたから。
店を持つのはひとつの夢でもあった。
あの時のわたしたちの憧れ、大阪中之島にギャラリーがあったデザイナー集団にお店を依頼して、母とふたり、約束の6年後まで飲食店を続けた。
楽しかった!
わたしはほぼ厨房やら好き勝手な裏メニューやら店内のデザイン全般を担当して、接客は好きだけど嫌いだった。人と話すのって体力使うから。
でも、昼と夜のアイドルタイムを挟んだ飲食業は、これまたわたしにとって不健康な日日。接客でもエネルギーをそがれた。
そのころ、接客上手でパワフルな母でさえだいぶ疲れていて、その母が体調不良からたまたま出逢った「自力整体」から「自力整体というライフスタイル」を実践する中で、わたしはそれまでの多くの答えを見つけ、救われていった。
一言で言えば図太くなった。
何かある度に、頑張る度に起きていた、唾も飲み込めないほどのひどい扁桃腺の腫れ。時には点滴も打って手術で取り除こうとさえ思っていた。
アイルランドを旅したときも、友だちとのそこでの暮らしのストレスで扁桃腺がひどく腫れ、こっそりベッドで針を打った、切ない思い出。(針を打つ事自体は好きだったけれどね。)
自力整体を始めて依頼17年、扁桃腺の腫れはやってきていない。
もしもの保険としての大量の抗生剤なんて、すぐに全部手放せた。
からだが強くない者にとって、健康不安はとても大きな範囲を占めていて、それが大幅に減るってことは、すごいこと。無敵感半端ない!
これを世の中に伝える仕事をしよう❣️
そう思ってすぐに師匠につき、一年後には教室を開き、そうなれた。
そこから、わたしの「わかりやすく伝える」という方向性を探る道が始まる。
つづく