見えない思いやりで、できた世界~実家の掃除をして気づいたこと~
ここ数ヶ月。
いろいろな事情が重なり、
実家へ帰り、実家の周りを掃除してきた。
生えたい放題の草を抜いたり、刈ったり、
落ちたい放題の落ち葉をかき集めたり、捨てたり。
『これ、誰がここに置いたの?』というくらい、
身元不明の種々雑多な物の整理や処分。
耕さなくて、硬くなった土の開墾から、
生い茂る草たちをひたすら手で刈り取る日々。
十数年間、
誰もが目をつむってきた家の掃除。
それがここまで大変だとは思わなかった。
終わりはあるのか? と
弱音が見え隠れしたことはあったけれど、
何とか目処がついて一安心したのが今。
この数ヶ月でしみじみと感じたのは、
祖父は家族が見えないところで
家を綺麗に保ってくれていたんだな、
ということだった。
祖父は厳しい人で、
たまにうっとうしく感じたこともあった。
けれど、
祖父が生きていた頃は、
家の周りの草は2,3センチくらいの小草が生えている程度。
たまに、
孫のわたしたちに祖父が草むしりを頼むことはあった
けれど、
それ以外、
祖父が家の掃除をどのようにしているかなんて、
気にしたことはなかった。
その祖父が亡くなって十数年。
その間に、
実家の周りは随分と小汚くなっていた。
目を覆うほど汚くはないが、
綺麗とは言い難い。
でも、
『まぁ、まだ大丈夫だろう』
と。
そんな言い訳がましく見ない振りをしていたツケが、
どれほど大変かなんて。
わたしには想像すらできていなかった。
そのツケを払い続けていたこの数ヶ月。
祖父がいたころの家を思い出すにつけ、
祖父がわたしの見えないところで、
家を綺麗に保ってくれていたのだと思い知らされた。
家族に確認すると、
祖父は日々家の周りの草むしりや掃除をし、
自分でできないところは
業者の人に頼んで修理・修繕をしてくれていたという。
家が綺麗に保たれている状態が当たり前だ
と思っていたわたしは
いかに祖父の思いやりが見えていないかを思い知った。
そして、
それを思うと同時に、
祖父以外の家族にもきっと言えるかもしれない
と思った。
めんどくさがりのわたしのために、
フルーツの皮をむいておいてくれる思いやり。
何も言わなくても食事を作ってくれる思いやり。
体調が悪くないか、とそっと見守る思いやり。
そう考えると、
家族以外の人の見えない思いやりにも
生かされているのではと思うようになった。
例えば、
自分の家の前以外も掃いてくれているおばあさん。
この人がいなければ、土埃や落ち葉が道を覆ってしまうかもしれない。
誰かが落としたゴミをそっと拾っているおじさん。
この人がいなければ、道がゴミだらけになってしまうかもしれない。
道に迷っている人に声をかける人。
この人がいなければ、その人はずっと迷い続けたままかもしれない。
日々、いろんな物(食べ物や生活用品とか)を作りだしてくれる人。
この人がいなければ、わたしたちは物を買うことすらできないだろう。
交通機関で電車やバスを運行してくれている人。
この人がいなければ、行きたいところに徒歩でいかなくてはならないだろう。
たぶん、
挙げていけば切りがない。
そして、
こういった人たちの思いやりは
普段のわたしには見えていない。
そこまで考えたとき、
人以外のものの思いやりにも生かされていると
思い至った。
植物が酸素を光合成してくれるから、
わたしたちはその酸素を吸って息することができる。
雨が降るから、
わたしたちは水を充分に身体に補給することができる。
土があるから、
わたしたちは食料を確保することができる。
特に、
人以外のものは人間の言葉を話さないから、
どうしても見落としがちになってしまう。
毎日、
当たり前のように生きてはいるけれど、
その当たり前は
『見えない思いやり』の上に成り立っている。
だからこそ、
何一つ取ったって、
全然当たり前じゃない。
そう思ったら、
自分を生かしてくれている一つ一つに感謝したいし、
『見えない思いやり』であふれている世界は
すごくあったかくて優しいところだな、と。
そう感じた今日この頃。
だから何だ、という話になるかもしれないけれど、
そう強く思ったのだから、
記録としてnoteに綴っておくことにした。