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母から子へ受け継がれるカルマ②

まず母の生い立ちを簡単に話していこうと思う。

母は愛媛県のある田舎に生まれた。

戦時中、
中国にいた祖母が妊娠し、
戦況が激しくなってきたことで、
身の危険を感じた祖母と祖父は、
海軍だった祖父と別れ、単身帰国し、
祖母の実家で母は生まれたらしい。

実家に隣接する小さな建物の中にある3畳ほどの一間に、
祖母と母は寝起きすることになったようだ。
祖母の両親もその時は健在で、
母の面倒をよく見てくれたそうだ。

祖母は生計を立てるために、
今で言う美容院へ修行に出ることになり、
朝早くから母を実家に置いて、
働きに出るようになった。

小さな母が目を覚ますと、
枕元にはいつも飴玉が2個置いてあり、
祖母の姿はなかったという。

母は、
祖母の両親の後に付いて回ったり、
近所の子ども達と遊ぶ時、
祖母が置いて行った飴玉をいつも紙に包んで手に持っていたそうで、
ベタベタに溶けてしまった飴玉を見て、
周りの人達には、
「せっかくの飴玉、食べりゃあいいのに、あんたは・・・」
と言われていたそうだ。

そして母が小学校へ上がる前、
つまり6歳くらいの時に、
祖母は妻に先立たれた男性と再婚した。

中国で別れた祖父は、
そこから音信が途絶え、
ついには戦死ということになったらしく、
母は結局実の父には一度も会わずじまいだった。

話を戻すと、
祖母の再婚相手には連れ子が4人おり全て女の子。
母より年上が3人、年下が1人。
その何年か後には、
二人の間には男の子が2人生まれた。

母はそんな状況が息苦しかったようで、
長期の休みに入るとすぐに、
祖母の両親の家へ行き、
休みの間中をそこで過ごしたらしい。

母はもともと体があまり丈夫ではなかったようで、
祖母の両親の家にいてもよく熱を出した。
そうすると、
家から祖母がいつも来てくれて、
重湯を作ってくれて、
時間の許す限り看病してくれたらしい。

その重湯がとても美味しかったんだと、
「ばあちゃんの重湯より、
かあちゃんの重湯がなんとしても美味しかったんだ」と
母はしみじみ言っていた。

そんな日々は母が中学生になっても続いたらしい。

そんなふうだったからか、
母の姉が食事時に
「かあちゃんは、この子(母)ばっかり可愛がって!」
と憎まれ口を言い、
祖母は「そんな・・・」と絞り出すように言った後、
泣き出してしまったことがあったと。

そんなことがあってからというもの、
母はさらに祖母に近づいてはいけないと、
今まで以上に気を使い我慢したらしい。

一刻も早くこの家を出たいと思うようになった母は、
通学可能な高校ではなく、
松山の高校に行きたいと言ったそうだ。
松山に出るとなるとお金もかかるし、
大学への進学はさせてあげられないし、
そうなると商業高校じゃないとダメだと言われたが、
それでもいい、と母は家を出たそうだ。

「本当は商業高校なんて行きたくなかったんだけどさ」
と切なげに言った。


今日はここまでにしておく。

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