『子育て』という『己育て』
私は子供を四人産んで、四人育てました。育児と家事と家業、母業と妻業と嫁業、それぞれを全力で。
一人目は男の子で、私は未だ二十代、母親一年生で右も左もわからない、育児書通りになんて行かない、とにかく無我夢中で寝不足の毎日。
二人目は男の子みたいな女の子で三歳違い。二児の母一年生で、失敗の連続の泣き虫でした。
その二年後、三人目は男の子で三児の母一年生。逞しいのは、体形だけの見掛け倒し。目の前の課題を精一杯頑張る日々。
更に二年後、四人目は女の子で四児の母一年生。サーカスの曲芸のように一人をおんぶ、前後に子供一人ずつ、四人乗り自転車で颯爽と街を走る(当時は未だ、子供乗せに規制がなくこれもOK)、一日が二四時間では足りないと思う毎日を過ごしていました。
四人目の子が赤ちゃんだった頃、街中で四人連れて歩くと「ベテランママ」とよく言われましたが、違うんです。何人産んでも初めて。ひとり産むたびに一年生からスタートします。おっぱいの飲み方も、おむつの変え時も、食の好みも、泣き方も、寝かせ方も、同じ親が産んだって、全てみんな違う。だから私は、初めてを四回繰り返しました。
特に、一人目と三人目はアトピーがひどく、食べるものも着るものも石鹸も、肌に触れるもの、口にするもの、全てに気を付けました。
二人目は、男の子みたいな女の子だったので、私の想像の斜め上を行く娘の思考に、小さな衝突がたくさんありましたし、四人目は、上三人に振り回されていつも何かを我慢しているのに、なかなか本心を教えてくれない子。
私の子育ては『連帯責任』。例えば、長男が習い事へ行っている間に、真ん中二人が喧嘩をして何かを壊したとすると、一番下も帰宅したばかりの長男も、もちろん私も、五人揃って円になり正座をして、膝を突き合わせて会議をします。どちらかと言えば、叱るというより、みんなで考えるという方が正解です。この方法が正しいかどうかは別として、喧嘩だけでなく何か問題が起こると、五人でよく話し合いをしました。
家業が旅館なので、昼夜問わず、夫はほぼ家にはいませんし、私も育児と家事と仕事の三足の草鞋を履き、母業・妻業・嫁業の生活。
一番下が小学校に上がるころには、七つ違いの長男は中学生。そのころには、義父母は、長男の嫁として家業を最優先するようにと迫りましたが、私は「仕事の代わりはいても母の代わりはいない」と、その要求を突っぱねる気が強い嫁。
しかし、私の気持ちと裏腹に旅館はとても忙しく、私は朝五時から夜十一時過ぎまで(合間に家に戻りましたが)旅館の仕事を手伝いました。もちろん、子供の行事や病気の時は、従業員さんが助けてくれましたが。
それでも子供たちは、文句ひとつ言わず、私に心配をさせないように、仕事に支障がないように、何かあれば四人で話し合い難題も壁も、何度も四人で乗り越えてくれたのだと思っています。
こういう表現をすれば、聞こえが良いのかもしれません。が、私は心の中で「こんな母でごめんね」といつも思っていました。特に末っ子は、小学校へ上がると、私はほぼ仕事で家を留守にしていましたから。
その末っ子の成人式前撮り、家族揃って正装して写真館へ行きました。私は自宅で振袖を着せながら「子供らしい時間を過ごさせてあげられなかったこと、甘える時間を作らなかったこと」を謝りました。
末っ子からその時私がもらった言葉は、
「お母さんはいつも忙しくしてたけど、私が傍にいて欲しいと思ってる時は必ず傍にいてくれたから、愛されてるって知ってるよ。きょうだいみんなにも愛されてるって知ってる。」
「同級生の誰に聞いたって、振袖を自分のお母さんに着せてもらってる人はいない。私は最高に幸せだと思ってる。」
と。私の方こそ最高に幸せなお母さんだよ。という気持ちです。
今では、皆成人して、それぞれの道を歩み、男の子二人は家を出て一人暮らしをしていますが、ことあるごとに集合しています。誰かの呼びかけがあれば、皆集まります。
私が過労で倒れた時も、祖父が危篤になった時も、愛犬が末期癌の余命宣告を受けたときも。
初産から三十年弱、私は四人の子供を育てながら、私と関わる全ての人・物・事に自分も育てて貰ってきました。いや、過去形ではなく、今もまだ育てて貰えています。
末っ子は…、今私と一緒に着物を着て、お客様のお迎えを楽しんでくれています。