鈴木家の日常⑧「その靴下、いつからですか?」
「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。
一人息子のショウが5年生になって、私は週2回リフレクソロジーの教室へ通い始めた。足つぼのサロンを開業したいとか、そういう店で働きたいとか、そんな大それたことではないが、近所にスクールができたことでママ友に誘われたからという単純な理由だった。
リフレクソロジーの実習はなかなか難しい。まず、足裏のツボを頭に叩き込み、刺激する順番を覚える。力加減は人によって感じ方が様々だし、体の弱っているところがあれば足裏に出るから、人によって刺激のある場所が違う。上から下、下から上、右から左、左から右。ツボの場所によって刺激を入れる向きが変わる。一応触れる順番が決まっているから、手順を覚えなくてはならない。
「いろんな人の足をどんどん触りましょう」と先生は言うが、私の周りで足を触っても嫌じゃないのはショウしかいない。身内という目線で考えたら、鈴木家の面々がいるが彼らの足を触るなんて、想像しただけでも背中がゾクゾクしてしまう。
ある夜、泥酔で帰宅した夫が吐き捨てるように「足つぼのあれ、金かかってんだ、俺の足もやってみろ」と絡んできたが、私はその足を触りたくない。たとえ、泥酔ではなくとも、風呂上がりでも、触りたくない気持ちでいっぱいだった。何故なら夫はひどい水虫を持っている。鈴木家の面々は皆水虫だ。その水虫の足を何とも思っていないのか、平気で人へめがけて足を向ける。
昔「意地悪な人は自分のやっていることが意地悪ってことに気付かないから意地悪を意識してやってるわけではない」というような意味合いのことを母から聞いたことがある。鈴木家の面々はまさしくこの類の人だろう。
リフレクソロジーの資格を取得して3ヶ月を過ぎた頃、義父が注文したという2リットルの烏龍茶が5ケース、会社へ届いた。ひと箱に6本、30本60リットルもの烏龍茶を事務所で使う予定はないから、確実にプライベート用だろう。台車が通れるほど広くはない社内、私はひとつずつ抱えて会長室へと運ぷことにした。
ひとつ目の箱を両手に抱えて、会長室のドアをノックした。数回ノックしたが、返事はないからドアを開けた。開けた瞬間、ブァーンと悪臭が鼻をついた。これまでに嗅いだことのないほど強烈な臭いに、私は慌てて箱を置いて、息を止めたまま窓へダッシュ。窓から顔を出し、外の空気を吸って振り返り唖然とした。
こういうのを「唖然」というのだろうとつくづく思った。腑抜けた寝顔の義父がいる。3人掛けのソファをいっぱいに使い横たわる義父の足は、茶色い液体の入った桶の中だ。
何故?どうして?何をしている?私の頭にはてなマークがたくさん浮かび、暫くその様子を眺めていた。程なくして、義父が目を覚まして、私と目と目が合った。
「窓開けちゃダメ、寒くなっちゃうでしょう」
少し不機嫌そうな義父が窓を指さして私に言った。
「それ、何ですか?」
義父の苦情をスルーして、窓を開けたまま自分の中にたくさんある疑問をぶつけてみた。
「これがいいって、烏龍茶ね。今日たくさん届くはずなんだけどね」
「それなら届いていて、今ひとつ持ってきました」
義父は、更に不機嫌そうに「一つじゃないだろ」と低い声を出したが、何か言い返しても結局私が運ぶことになるんだろうとスルーした。
義父の足を入れていた烏龍茶はやけにカビ臭い。
「それ、本当に烏龍茶ですか?」
「そうだよ」
「あの、いつのですか?」
「あのね、無くなっちゃったの!だから今日届いたんでしょ、頭が悪いね。一昨日無くなっちゃったから昨日頼んだんでしょ」
義父はカリカリしながら自分の足を拭き取り、靴下を履いた。義父の靴下が宙に浮くと、驚くほど酸っぱい臭気が私を襲った。私はむせ返り、手で口を覆いながら義父に尋ねてみた。私の中の「知りたい」という好奇心が、臭気を勝った瞬間だった。
「あの、何やってるんですか?」
「見たらわかるだろ、靴下履いてるんだよ」
「いや、あの」
義父の手にした片方の靴下は二重だった。それを裏返し、一枚ずつにする。もう片方も同じように裏返し、一枚ずつにする。裏返る前まで外側だった靴下を履き、その上にもう一枚を重ね履きした。
え?何で?私の中で更に疑問が湧いた。私の疑問を悟ったのか、義父がこちらを見ながら得意気に解説を始めた。
「いいかい?こうして2枚重ねた靴下を左右交互に裏表で履くと8日間も履けるんだよ。おまけに穴あきが隠せるから、捨てる靴下がなくなる。商売人はこうやってね、小銭を貯めるんだ」
義父が解説をしながら、誇らしげに靴下を振るから、どれだけ窓を開けていても臭気が私にまとわりついた。
「もういいです…わかりました」
私はドアを開けて部屋を出た。残りの烏龍茶4ケースは、夫に頼んで会長室へと運んでもらった。あの鼻をつく程の殺人的臭気は、2日間義父の水虫をつけた烏龍茶と8日間左右裏表でローテーションされた靴下によるものだったのだ。
烏龍茶に効果があるかどうかは知らないが、小銭が貯まるという靴下のローテーションは、水虫を悪化させる要因でしかないと思うのは、鈴木家の中で私だけだった。
義父は今日も水虫の足を数回つけた烏龍茶の効果を信じて続けているが、私には全てが菌に見えて仕方ない。