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法隆寺は二つあった? 円範事件とは? 『法隆寺史 中』の秘話

 8月に刊行された『法隆寺史 中 ――近世――』(法隆寺編、思文閣出版、税込7480円、以下寺史)を入手した。これが実におもしろい。478ページを一気に読んでしまった。

『法隆寺史 中 ーー近世ーー』

 同書からまずは、ふたつのエピソードをご紹介したい。


 

信長が決めた東西の法隆寺

 法隆寺はかつて、東寺と西寺に分かれていた。

 東寺は夢殿を中心とする東院伽藍(上宮王院)で、法要の進行や作法などを取り仕切る「堂方(どうほう)」が支配。西寺は金堂や五重塔がある西院伽藍のことで、学侶(学問僧)が取り仕切っていた。

「西寺」の中心、金堂と五重塔
「東寺」は夢殿を核とする

 安土桃山の時代、二つの「寺」は同じ法隆寺とは思えないほど争い、しのぎを削った。元になったのは領地や用水、収税などだ。互いに相手の非を権力者に訴え、有利な立場の保証を引き出そうとした。

 天正2年(1574)正月、織田信長から「掟」が「西寺」に出された。重要なのは

一、諸給人入地被入官等如先規不可有異議、付堂衆之儀是又不可為如先規事

 の一文で、領地・領民のことは「先規」の通りにしなさい、とある。これを『寺史』は「事実上は法隆寺西寺(学侶)に宛てられたもので、西寺の利害を保証するものであった」と結論づけている。

 これでは堂方たちが収まらない。用水をめぐる争いが起き、この年の11月に信長から一通の朱印状を得ることに成功した。

当寺事、従先々西東諸色雖為混合、於自今以後者可為各別、次東之寺領所々散在等、永代不可有相違、然而為西寺段銭以下恣令取沙汰之儀、堅可停止、猶以令違乱者、可加成敗候也(筆者意訳=法隆寺は東西がいろいろごちゃごちゃしているが、東寺があちこちに持つ所領は今後も変わらないし、西寺が金銭を徴収してはいけない)

 「西寺の東寺に対する優位性を否定するかたちで、法隆寺内を西寺・東寺に二分するものであった」と、「寺史」は述べる。

 とは言っても、すべてが決着したわけではなく、東西のにらみ合いはその後も続いたのだった。

 江戸時代になると、さまざまな訴訟などの機会に、学侶と堂方の身分ルールが決められていく。1000石の寺領は学侶3分の2、堂方3分の1に分けられた。学侶は公家か5代続いた武家の出で、堂方は身分を限らない。法要の席は学侶が内陣で、堂方は外陣といったことに始まり、服装や持ち物にも細々とした規定ができていった。

 しかし、この区別、差別はある時期を境に消えるのだったが、それは次回以降に紹介したい。

真夜中の境内で「御用! 御用!」

 寛政12年(1800)閏4月4日夜九つ(午前0時ごろ)、法隆寺に南都奉行所の捕り方70~80人が踏み込んだ。子院で博奕をしていた80人余りを捕まえるためだ。門が閉められて寝静まっている時間帯だから、僧侶たちも近隣の住民らもさぞ驚いたことだろう。

 この時法隆寺では、境内の修理費用を捻出する「居開帳」が催されていた。博奕をしていたのは火事に備える人足、いわばガードマンを名目に集められた男たち。その頭取はどさくさに逃げ出したという。

 『寺史』によれば、防火担当だった僧円範(えんぱん)が南都奉行所に呼び出された。調べに対して「博奕のことは何も知らない」と否認したという。

しかしその後、上部機関の京都西町奉行所に呼び出されると「頭取の男から、博奕の上がりを含む冥加金25両を受け取る約束で、空き寺になっていた子院を人足の宿舎として貸した。自分一人がしたことで、博奕のことは寺に伝えていない。金も自分のために使ってはいない」などと、容疑を認めた。

 一緒に出頭した寺の重役は「寺は全く知らないことだ」と供述している。

 事件の4年前、円範は自身が住まう子院・阿弥陀院の修理のために勧進をおこなっていた。集まった金の一部を運用に回したが失敗。損害を寺に弁償すると約束し、役職から下りて、寺からの追放を免れていた。

 結局、享和元年(1801)年12月、京都の獄中で病死した。37歳だった。

 4ヶ月後、京都西町奉行所がようやく判決を言い渡した。僧籍を剥奪して追放を申しつけるが「先達而致死去候故、其段申聞置ク」(先日死去したのでその旨を申し聞かせる)という内容だった。

円範の肖像。『法隆寺史 中 ーー近世ーー』から

 円範は、居開帳の客の出足が鈍いことを気にしていたという。ところが、寛政12年の開帳は最終的に、651両の純益を生んで成功に終わった。策を弄さずに待っていれば……。

 空き寺に大勢の人足が出入りしていれば、「どうしたのか」といぶかる人が出てくるに決まっている。ひと儲けした男たちが門前の茶店あたりで自慢話をするかもしれない。どう考えても危なすぎる橋だ。そんなことにも思い至らないくらい、切羽詰まっていたのだろうか。なんとも悲しい事件だ。


 『法隆寺史』は、古代・中世の上巻(同7480円)が2018年4月に出てから、中巻刊行まで5年を要した。ということは、近代を描く下巻はさらに5年後になるのだろうか。廃仏毀釈、壬申検査(明治5=1872年)、皇室への宝物献納(明治11=1878年)など、激動の時代を、法隆寺の公式記録がどう描くのか、興味津々だ。

 今回出た中巻にはまだまだ、興味深い話がたくさんある。それらは次回のお楽しみ、ということで(終)

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