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ちぢれ日記230315

さっき、この記事のタイトルを散り散り日記と書こうとして、実際はちぢれ日記と書いてしまい、なんかちぢれてしまった

けどなんかもうこれでいいや
実質同じ

最近は、社会的あるいは科学的な事実に興味がない
己の納得感、手触りに執着している

ちぢれと散り散りは違うけどわたしの脳内ではなんとなくアドレスの近いとこに格納されている
ちぢれと散り散りの距離は、ちぢれとカンパーニュのより近い、ちぢれとぼんぼりはかなり遠い
ぼんぼりは雪洞と書くらしい、嘘をつけ
この世の事実としてぼんぼりが雪洞だったとして、わたしのぼんぼりは雪洞ではない
なんで雪?洞はいいとして……ほらだし、空洞っぽいから、雪はどこから……

「どうせ人生一回きりなんだし、自分にとって正しいことしか正しくなくない?」は、私にとってはまだ、新鮮な人生のとらまえ方だ
当たり前と思う人もいるだろうけど、美術作品を観ても、本を読んでも、私にとってはその受け取り方にどこかに当たりや正解があって、それはひとつではないとはいえ、それ以外ははずれで不正解だった
知識からなる解釈あるいは独自の発想や着眼点を意識することで子供の頃から褒められたから、そうやって国語の点数を稼いできたから、友達を作ってきたから、なんだろうか
わたしはいつも、わたしがどう感じてるのか分からなくて、眼前の作品やひいては生きることといった対象の、その手触りを楽しむことより、対象をルービックキューブみたいにこねまわして、手垢まみれにして、いつも解釈がこんがらがっていた気がする
映画を観ても☆をいくつつけるべきか考えているから、いい映画を観た喜びよりレビューに悩まない傑作であることにホッとしているような
理由が、解釈が見つからないものは好きとは言えないような
ほんとにそんな風に生きていた気がする
だから仕事でも、何にも決められなかった
仕事において社会的に科学的に正しいか、という尺度からは逃げられないけど、ただし仕事においても絶対に正しいことはない
いつだってただ、私がどう万物に納得していくかで生きていくしかなかった
二十代の半ばまで本気で、他人の評価が真実だった
皆が賢いというから私は賢くて、とりわけ賢い人が賢いと言った人は、私の中でとびきり賢い人になった
でも実際はそんなことはない
他人の評価はただの情報で、賢い確率が高いだけだ
フィルマークスで一位の映画のブルーレイを、私の棺桶に入れるのか?
クラスで人気だった男の顔が、私の脳裏に焼き付いたか?
人生は一回きりで、私はせいぜい最大限納得できそうなものをかき集めて、私なりの理不尽や不快感を遠ざけて、生きていく、をする

残酷なことに意思決定のすべてに、絶対も、正解もない
ただ正しさを手触りも又聞きもなんでもありの情報から処理していくしかない

ただ、最初に書こうと思っていたのは、散り散り日記ではなく徒然日記だった気がしてきている
手応えはない日記を残して、このまま寝ることにする

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