銭湯近代史〜大正から昭和の銭湯〜
弥生時代から見てきた銭湯の歴史も、いよいよ昭和まで来ました。江戸で発展した銭湯がどのようにして今の形になってきたのかというお話です。
タイルとカラン登場!
明治時代は、木で作られていた銭湯でしたが、現代のタイル張りのものが初めて登場したのは、大正10年(1921年)のことでした。
タイル張りになったことで、掃除が楽になり、衛生的にも改善しました。
また、大正時代までは、お湯が出てくる蛇口が付いておらず、上がり湯を風呂から出る前にかけていました。
昭和2年に、押すとお湯がでるカランが登場し、普及しました。
ちなみに、カランはオランダ語で「鶴」という意味で、蛇口が鶴に似ていることから名付けられました。
戦争や災害で大変動した東京の銭湯軒数
明治から大正にかけては、人口が増え、交通も発達したので、地方や温泉地にも銭湯が増えてきました。
西洋風のローマ風呂のような浴室を作るところもあったそうです。
それに伴い、銭湯の数も増えてきました。
江戸時代以降の銭湯の数の変遷について、見ていきましょう。
東京における銭湯の数
明治から平成の銭湯数の遷移(参照:http://www.1010.or.jp/)
幕末:570軒
明治3年(1870年):1300軒
明治41年(1908年):1217軒
※明治27年の警視庁による改装命令のため廃業が相次ぎ、微減
大正12年(1923年):540軒
※関東大震災により630軒余の銭湯が消失
1924~1939年頃:2800軒
昭和20年(1945年):400軒
※戦争により減少
昭和23年(1948年):831軒
昭和40年代(1965年):2600軒
平成20年:914軒
こうしてみると、東京の銭湯の数は、災害や戦争によりかなり激しく増減していたようです。
戦争中は、燃料も不足し営業日も限られており、営業日には混雑を極めました。
終戦後も、人手不足、燃料入手困難だったため、夜間電力による電化浴場も実施されました。電化浴場は、電力事情によりまもなく停止となりました。
昭和23年以降は、戦争からの落ち着きを取り戻し、東京の人口も増え、銭湯も年間100軒ペースで増えました。
昭和30年代には、郊外に銭湯を建てて、銭湯を中心に街ができていくという光景もあったようです。
昭和40年にピークを迎え、その時は全国で2万6000軒の銭湯がありました。
しかし、その後は内風呂文化とともに、銭湯の数は減少していきます。
昭和30年(1955年)に日本住宅公団が発足し、団地に内風呂を備え付けたこたから、各家庭に内風呂を付ける動きが広がりました。
昭和30年代に、ホーロー、ステンレスの浴槽の登場、昭和40年代中頃にユニットバスが考案されるなど、内風呂文化の浸透ともに、銭湯は衰退していきました。
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