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地球のインナーチャイルドを目覚ませる


【地球のウニヒピリを目覚ませる】


カウアイ島のワイアレアレ山のエネルギーにアクセスして解放してみようと思いついたのは、ハワイがアメリカから独立しようとしているという話を聞いたからだった。

事情通の人の話では、ハワイが独立しようとする動きは、昔からあったのだそうだ。もともとハワイ王朝の伝統があり、ハワイはアメリカに占領されたという意識が強かった。それが、ハワイの最大の聖地であるマウナケア山の山頂に巨大アンテナを建設するという話が出てきて、独立への思いが再燃しているらしい。ハワイはアメリカの重要な軍事拠点なので、アメリカは手放そうとはしないだろうけれど、しかしハワイが独立して米軍基地が消えたら、太平洋はずいぶん平和になるのじゃないかと思う。

ハワイはもともとパワフルなシャーマニズムが伝統的にあった場所で、今でも台風が島を襲いそうになると、シャーマンたちが浜に集まって、台風が逸れていくように祈ったりしている。それで実際に、台風は逸れていく。シャーマニズムの伝統が生きていたら、ハワイが支配されるようなことはなかったはずなのだ。

ところで、ハワイ王朝の時代から、シャーマンたちの力を抑圧して支配しようとする動きがあった。カヌーの造船術や航海術を伝承しているシャーマニズムの流派が当時、社会的にもっとも力を持っていたので、造船を禁じることによって、これに関わるシャーマンたちを弾圧してしまったということが、カウアイ島のシャーマンであるサージ・カヒリ・キングの「都市のシャーマン」という本には書いてある。かつては、太平洋全体をカヌーのような小舟で渡っていた人々がいたそうだから、おそらくはこうした呪術の技を使っていたのだろう。それがいつの時代かに弾圧されることによって、太平洋全域の交通が途絶えてしまったのだ。

そうやって徐々にハワイのシャーマニズムが封じ込められていく中で、一番最後まで残っていたのは、カウアイ島のシャーマンたちだった。だからカウアイ島は、一番最後まで支配されずに残っていた。今でもカウアイ島だけは、他のハワイの島と違って、自然の神秘的な力が強く、異界のような感じがするのだそうだ。この島の真ん中にあるワイアレアレ山という山は、世界でもっとも雨の多い山で、そのためにカウアイ島は全体が水に豊富で緑が豊かだ。そしてこの山は、まるで不思議な力が働いているかのように、何度試しても、どうしても山頂まで行き着けないのだそうだ。

それで、封印解きクラブの人たちに声をかけて、ワイアレアレ山のエネルギーにアクセスしてみることにした。画像を見ても、山というよりもまるで巨人か何かのようだ。画像から山のエネルギーを感じ取ってみると、足の裏だけがビリビリして暖かくなってくる。このような感覚は、これまでに感じたことがない。足の裏とは、地上に足を着けて生きることであり、その喜びの感覚を感じているようだ。地球に生まれてきて、この地上で生きること、地上の世界に触れること、そこには生きることの瑞々しさといった感覚がある。

ワイアレアレ山の存在は、森の巨人とか山の神のようで、それは自然界の調和を保つ力であるように思えた。この力は、カウアイ島では封じ込められていないのだけれど、カウアイ島のまわりからは出ないように閉じ込められているようだった。

インナーチャイルドのようなものが出てきたと言っていた人もいた。吉本ばななの本にあるウニヒピリを思い出したと言った人もいた。ウニヒピリとは、ハワイのシャーマニズムで、クーともいう。潜在意識、身体意識などの意識の領域のことで、だからインナーチャイルドのようなものでもあるけれど、ウニヒピリ(クー)は潜在意識を通して、地球のすべての自然界、宇宙のアカシックレコードとも繋がっているので、これを完全に使ったら、すべてを可能にするような力さえも使えてしまう。だから、子供であると同時に巨人でもある。地球全体、宇宙全体の意思であるとも言える。

それで、ワイアレアレ山の中にいる存在に、太鼓とか鈴、鐘、何か音の出るものを使わせて、外と繋がりを作ることで解放してみたらどうだろうということになった。すると、女の子が出てきて、すごい声で歌を歌い始め、それによって四方八方にタコの足みたいに光が伸びていき、環太平洋のあちこちと繋がったようだった。白い人が大勢出てきて、輪になって踊り始めたと言っていた人もいた。何故だか、北東の方へ光の繋がりができて、カムチャッカ半島と繋がったようだった。反対側へは、アルゼンチンの南端のあたりへ行ったようなのだけれど、あとで地球儀で確かめてみたら、たしかにカムチャッカ半島、ハワイ、アルゼンチン南端は、一直線上に位置していた。

ハワイの他の島はどうなのかと思ったら、マウイ島の地下に捕らえられた子供たちがたくさんいて、それによって封じ込められているようなイメージが見えた。その一方で、ハワイ王朝の伝統で、子供が生まれたときに、まるで神のように大事にされているイメージが見えた。ハワイの力は、まさにこの子供の力、インナーチャイルドが損なわれないで生きていることの力で、それこそはウニヒピリの力であるらしい。そして、まさにその力を封じ込めているのが、子供の虐待なのだ。それがマウイ島で起こっていることらしい。

だから、ハワイの封じ込めを解くためには、この子供たち、そして子供たちを虐待する悪党たちのインナーチャイルドを目覚めさせてしまうしかないのだろう。しかしそのためには、世界が解放されていて、インナーチャイルドが幸せに生きていけるような場所である必要がある。それで、ワイアレアレ山から地球の真ん中の方まで降りていき、そこに眠っているかつての世界の記憶、すべての人のインナーチャイルドが封じ込められないで生きていた時代の記憶に繋がって、それを解放してみることにした。

すると、ワイアレアレ山の底から、まるでマグマが上がってくるかのように、封じ込められいたその世界が地表に溢れ始めたのだ。まるで火山が噴火したかのようだった。すると、富士山やシャスタ山からもその光が溢れ出し始め、環太平洋の火山帯が光の輪のようになり、太平洋全体がまぶしい白い光に包まれた。

ハワイで生まれたばかりの子供を頭上に抱え上げて、まるで神さまのように扱っている人のイメージが見えた。生まれたばかりの子供は、ウニヒピリがまだ完全な状態なので、だから神に等しい叡智を持っていることを、この人たちは知っているらしい。だから、その力を損なわないようにと、子供を神のように大事に扱っているようだ。

それから、人間が自然界の中で、植物や動物、岩や山とも当たり前のように会話して生活しているイメージが現れた。まさにおとぎ話の中の世界なのだけれど、あれは作り話などではなく、当時の人々にとってはまったく現実的な話だったのだ。そんな風にして、どんな動物とも話しているから、人は熊や虎のような猛獣でも恐れることがないようだ。アナスタシアの話に出てくるように、熊を友達のようにして生きている人たちが現実にいる。ダイバーたちの中には、サメの群れとともに泳く人たちもいる。そうして自然界の中に生きている世界があまりに美しくて、そこにずっといたいくらいだった。

人間は、いつから熊や狼やサメや、ある種の動物を恐れて駆逐するようになったのだろう? 動物と心を通わせることができていた頃の人間は、どんな動物を恐れることもなかったのだ。熊もサメも、恐怖を感じないかぎり、人を襲うことはない。人間が動物に恐怖を持ち、武装して来るから、彼らは恐怖のあまり人を襲うだけなのだ。そして今、世界で戦争が起きている理由も、まさに同じことのようだ。ある国々を脅威だと言って、武装するから、攻撃を誘発することになり、戦争になる。心を通じさせることを知っていれば、恐ろしい動物など存在しないし、自然界には恐ろしいものなどなにもない。

人類は、まさにこの力をこの数百年、数千年に、封じ込めてきたのだ。それこそは、支配の世の中、戦いの世の中を可能にしていた。そしてそれによって、私たちは自然界と自在に交流するインナーチャイルドを封じ込め、その力を失っていたのだ。

そんな風に自然界と交流していた世界の記憶を取り戻したら、今の世界は何と退屈なことかと思えてくる。ありとある生き物とも切り離されて、それに恐怖を感じたり、支配したりすることしか考えてこなかったのだ。ところで私たちのインナーチャイルド、ウニヒピリは、自然界のありとある存在と心を通じ合わせて、その力を借り、ともに協力し合いながら生きていくことを知っていた。

戦争がなくなるというよりも、そもそも戦う必要などなかったことがわかってしまう。世界には敵などどこにもいなかったのだ。心を通じ合わせることさえ知っていれば、どんな存在とも協力して生きていくことができる。自然界は、実はそのようにできていて、戦っていたのはウニヒピリを封じ込められた人間だけだった。

北アメリカ大陸のネイティブ・アメリカンたちも、中南米のマヤの人たちも、ヨーロッパから武装した人たちが、土地を植民地化しようとしてやってきたとき、心が通じない人が存在するということに、何よりも驚いた。彼らは猛獣とだって話していたのに、外からやってきたヨーロッパ人たちとだけは、どうしても話が通じなかったのだ。インナーチャイルドがどうしようもなく傷つけられて、封じ込められている人たちばかりだった。人間をそのようにしてしまうことこそが、支配というものだったのだ。

植民地支配が起こったこの数百年、いったいどれだけの残虐行為が行われてきたことだろう。インナーチャイルドが封じ込められてしまっている人たちが、恐怖を与えられて、信じられないような残虐を行わされてきた。どうしてこんなことを人類は経験しなければならなかったのだろう? 長い地球の歴史の中で、そのことにもし意味があるのだとしたら、それはこうしたことを経験することによって、もう騙されないような賢さを身に着けるためなのだろう。つまり、成長し、進化するためだ。

つまるところ、人々はある時点で、お金の与える豊かさのようなものに目をくらまされて、自分からインナーチャイルドを封じ込めるようなことをしてしまったのだ。そして、それがどんな結果を生むのかを、数百年の間、たっぷりと経験することになった。

そして、それは同時に、封じ込められたウニヒピリ、地球のインナーチャイルドを取り戻して解放するプロセスでもあったのだ。それによって、地球のウニヒピリを取り戻して、もはや戦う必要がないことを知り、再び永続する平和と調和の世界に移行していくためにだ。

2024年1月28日


カウアイ島の衛星画像


ワイアレアレ山


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【平和のメソッド】



ホ・オポノポノは、ハワイに伝わる調和を作り出すメソッドなのだけれど、十数年前に、4つの言葉を唱えるメソッドが出てきたとき、それまでのホ・オポノポノを知っていた人たちの中には、奇異な感覚を覚えた人も少なくはなかったようだ。

私は、ハワイのシャーマニズムであるフナにそれまでも親しんでいて、ずいぶんいろいろなことを実践してもいたのだけれど、4つの言葉を唱えるホ・オポノポノは、それとはまったく異質なもののように思えた。それというのも、ハワイのメソッドは、多くの場合、とても実践的で柔軟で、創造的でさえあるものだったからだ。それが、状況も何も関係なく、ただ「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」という4つの言葉を唱えろというのは、何か根本的なところで別物のようだ。唱えたところで、確かにある種の解放の感覚はあるけれど、フナのメソッドを使ったときのようなパワフルな感覚とは、本質的に違っている。

ところで、その4つの言葉を唱えるメソッドこそが、もともとのホ・オポノポノであるかのように思われるようになってくると同時に、フナについてほとんど語られなくなっていった。どうもおかしいと思っていたら、それまでフナの第一人者と思われていたマックス・フリーダム・ロングやサージ・カヒリ・キングまでが、偽物だという話が出回っていた。ヴィキペディアの記述が書き換えられていて、グーグル検索でトップに上がってくるのは、そうした記事ばかりになっていた。

この数年間、真実がいかに隠され、情報が操作され、虚偽が真実としてまかり通っていくかを、私たちはさんざん見てきた。それまで第一人者だった学者たちが、テレビに呼ばれなくなり、さらには詐欺師扱いされ始めたりもした。ヴィキペディアの記述が書き換えられ、ネット情報が操作されて、「自分で調べた」人たちも、書き換えられた情報を信じるようになっていった。そうしたことを見てきた私たちにとって、フナをめぐって起こったことが、何を意味しているのかは、だいたい見当がつく。

もともと、フナというのがハワイのシャーマニズムを指す言葉で、ホ・オポノポノというのは、その中で人間関係を調和させるメソッドのことだけを言っている。そして、伝統的なホ・オポノポノというのは、ただ決まった言葉を呪文のように繰り返すようなものではなくて、争いが起こったときに、それを調停して、再び平和を作り出すためのやり方なのだ。これについては、リリウオカラニ女王児童センターが刊行した「源泉を見よ」という本の中に書いてあるそうだ。

カヒリ・キングの「インスタント・ヒーリング」には、この伝統的なホ・オポノポノのことが書いてある。それは儀式のような形式をしてはいるけれど、一種の裁判というか調停のようなプロセスだ。当事者たちが集まって、主催者の指示に従って、一人ずつ自分の訴えや見解を話していく。そのときに、一度に一人だけが話し、その間は他の人たちは謹聴していなければならないという決まりがある。

そのあとで、罪を認めるというか、確かに私はこの人の感情を傷つけてしまいました、というような告白があり、これからは行いを改めますとか、そういう宣言があって、和解となる。そこで、これでこの問題は終わったから、今後はもうこれを問題にしてはいけない、ということが宣言される。最後は、全員に対して感謝とかお祝いのようなことが言われて、会食になって、終わりになる。

だから、これは裁判のように、誰が悪かったかを決めるのが目的ではない。人間関係に調和を取り戻すことが目的なのだ。人間関係の中にぶつかり合いがあるとき、関係がギスギスして、人々は緊張状態になって、身体がガチガチになり、病気にもなる。その状態を解いて、皆が緩んで調和した状態にするのが目的なのだ。だから、罪を認めて、行いを改めることを宣言したら、そのあとは、もう罪はなかったことになる。その状態へ進むことが目的なので、だから人を傷つけるようなことをしてしまった人も、すんなりと罪を認められるのだと思う。しかし、なかなかここまで行かないこともあって、そういうときにはこの儀式は何日にも及ぶこともあるそうだ。

フナの教えの根幹には、私たちの意識が現実を作り出しているという認識がある。これは、般若心経の色即是空、空即是色というのとも似ている。私たちは、これは悪だ、罪だ、どっちが加害者で誰が被害者だ、というようなことも、根本のところでは、意識で作り出している。だから、意識を変えることによって、すべてをなかったことにしてしまうこともできるのだ。そのために、自然なプロセスで意識を変えていき、すべてを帳消しにして、調和の状態を取り戻すメソッドが、伝統的なホ・オポノポノだと言える。

このメソッドが、「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」の4つの言葉をただ唱えるというものに取って代わったのは、どうも奇妙だ。状況も理由もなく、ごめんなさい、許してください、と言うのでは、伝統的なホ・オポノポノにある、感情を解放して調和を作り出す力がない。これで効果があったという人もいるけれど、逆に縮こまって力がなくなってしまう場合も少なくない。どんな場合にも同じ言葉を唱えるだけというのは、あまりにも単純なようだし、押しつけになっていることも多いような気がする。

ところで、この4つの言葉のうち、「許してください」と、「ごめんなさい」というのは、ハワイ語ではまったく別な意味にもなるそうだ。許してください、というのは、ハワイ語でKalamai カラマイで、これは「太陽の光を見せてください」というような意味にもなるというのだ。そして、ごめんなさい、と翻訳されているMihiミヒは、「ありのままの現実を認めます」という意味にもなるのだと言う。

この意味ならば、フナの原則からして、納得できる。フナでは、私たちの意識が現実を作り出していると考えるのだけれど、それを変えるには、まず現実をありのままに見るのが、最初のプロセスだ。ありのままに見たときに、自分の意識のどこが歪んだ現実を映し出してしまったのかが、初めて見えてくる。それに気づけたとき、作り出されていた状況をまっさらに戻して、新しく作り直すことが可能になる。つまり、現実をありのままに認め(ミヒ)たときに、すべては光に満たされる(カラマイ)ことになる。これは、伝統的なホ・オポノポノで、当事者が罪を認め、和解して、すべてをなかったことにする、というプロセスに相応している。

ところで、この4つの言葉を唱えるメソッドを考案したのは、ヒューレン博士という人で、この人はモルナ・シメオナというハワイの女性ヒーラーのメソッドから、このメソッドを作り出したということだった。シメオナは、ハワイの伝統だけではなく、キリスト教やエドガー・ケイシーのメソッドなどにも影響を受けているというのだけれど、彼女がやったのは、とにかくあらゆる場面で罪を赦しまくるというもので、戦闘地域に出かけていって、その怒りや苦しみを赦したりしていたそうだ。だから、彼女がやったのは、「私は罪を赦します」ということなのだけれど、どういうわけでこれが「私を赦してください」となったのだろう?

キリスト教のことを調べていたときに、正教には原罪の概念はなく、これはローマ・カトリック教会が作り出した概念だったらしいということが見えてきたのだけれど、このヒューレン博士の「ごめんなさい、許してください」というのは、カトリック的な原罪を思い起こさせる。何をしたからとかいうことではなくて、人間ならば必ず罪を犯しているはずだ、罪深くない人間などはいない、という考えから来ていることになるからだ。この言葉を唱えることによって、縮こまっていくような気がするのは、原罪のような罪の意識を植えつけられるからなのかもしれない。罪の意識というものは、何よりも人間の力を失わせて、自分を守れないようにしてしまう。だから、ローマ・カトリック教会では、イエスの教えにはなかった原罪の概念を作り出して、それを植えつけようとしたのだ。

ナザレのイエスは、「あなたの罪はゆるされた」と宣言することによって、病人や罪人を癒やした。これはまさに、現実は私たちの意識が作り出しているから、意識を変えることによって、どんな罪も消し去ってしまうことができる、というフナと同じ原理を使っている。ナザレのイエスは、この教えを古代ユダヤ神秘主義の流れを組むエッセネ派から学んだのではないかと言われているけれど、ハワイのフナもまた、実は古代ユダヤ神秘主義が弾圧を逃れて太平洋の孤島まで脱出してきたために、伝えられたのだという説もある。これは、イギリスに最初にフナを伝えた言語学者のマックス・フリーダム・ロングが言ったことなのだけれど、彼はフナで使われているハワイ語を調査していったところ、古代ユダヤの言語と異様に似ているだけではなく、言語の中にまるで暗号コードのように、神秘主義的な教えが入れ込まれているということを発見したのだという。

ハワイ語は、一つの言葉にとても多くの意味があり、だから「ごめんなさい」という言葉が「解放の光を私に見せてください」という意味になったりもするのだろう。フリーダム・ロングが、言語自体が暗号コードのようだと言っていたのは、どうもそうしたことを言っているようだ。

もしそれが事実だとしたら、フナは教えを弾圧から守るために太平洋の真ん中までやってきたのにもかかわらず、21世紀になって、またイエスの教えと同じ封じ込めを受けているということになる。解放の教えであるものを、罪の意識を植えつけることで、支配の構造にしてしまうやり方だ。まさにこの封じ込めが、この数千年、支配と戦いの歴史を人類が生きることになった根幹にある。

歴史的にロシアが絶えず攻撃され続けてきたのは、実はその背景に西側キリスト教世界と正教の対立があったということが、この頃見えてきた。バチカンを背景とした西欧の支配勢力は、正教をつぶして、人々に罪の意識を植えつけて、支配可能にしようと絶えず狙っているのだ。ハワイのフナが偽物扱いされることになったのも、同様のことが根底にあるのだろう。フリーダム・ロングやカヒリ・キングによって、フナが再び浮上しようとしていたために、それをたたきつぶそうとしているのだ。

その場ですべてを白紙に戻して、平和と調和を作り出してしまうメソッドは、人を解放してしまい、支配して戦争させることができなくしてしまう。これは、ロシア大統領プーチンが、腐敗を一掃するときに使ったアムネスティのやり方とも通じている。明日から行いを改めるなら、これまでの罪はすべて帳消しにする、と宣言することで、社会に速やかに調和を作り出すことができるのだ。許しの力とは、このようにして使うべきものだ。

ハワイはアメリカの重要な軍事拠点である一方で、アメリカによるハワイの領土化は不法だとして、独立運動も起こっているそうだ。そうした中で、フナをつぶすための情報操作が行われているとしたら、軍事関係の組織が関わって、プロパガンダ工作を展開しているということも大いに考えられる。

私にとっては、このことは、フナがそれほどに恐れられているということ、そして、実際にフナはそれほどにパワフルな現実変容のメソッドだということを、確かめることにもなった。フナは、瞬時にして争いを調和に変えてしまう、平和のメソッドそのものなのだ。フナの原理を知ることで、私たちは本当に戦う必要などないこと、調和を作り出して、どんな人々とでも平和に共存していけることを、知ることができる。正教やフナが弾圧を受けることで表に浮かび上がってきたのは、ついにそれが復活して、本当に平和な世界に移行するときが来ているからなのじゃないかという気が、私にはするのだ。

2024年1月30日

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ヒューレン博士のホ・オポノポノについて、カヒリ・キングが2014年に書いている記事です。誤解と搾取がますますひどくなっている、と言っています。伝統的なホ・オポノポノやシメオナのメソッド、ヒューレン博士のメソッドについて書いています。


フナのシンボル、カナロアの目


カナロアの目についての記事です。

https://www.huna.org/html/ekanaloa.html


カウアイ島


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【普遍的なシャーマニズム】



前回の投稿で、新しく作られたホ・オポノポノのメソッドが流行し始めたのと同時に、もともとハワイのシャーマニズムであるフナが、偽物扱いされるようになったということを書いたのだけれど、それまでフナの第一人者とみなされていたマックス・フリーダム・ロングやサージ・カヒリ・キングが、偽物だとされた理由は、彼らがハワイアンではなく、彼らが教えているものは、ハワイの伝統とは違うものだから、ということだった。この真偽はともかく、そのようにヴィキペディアにも書いてあるし、ネット検索のトップに出てくるのが、そうした記事ばかりになっている。

ハワイでは、フナは長いこと弾圧されていたので、地元の人たちは、フナのことを語りたがらないし、古くさい迷信のようなものだと思うようにされていたということがある。こうしたことは世界中のいたるところにあって、だから、古い伝統の継承者が外から来た人たちだということは、実はよくあるようなことだ。ハワイの人たちは、長いこと伝統文化を蔑むようにされてきたので、外の人たちが大勢フナはすばらしいと言うようにならないと、地元の人たちはそのすばらしさを認めるようにならないのではないかと、カヒリ・キングは言っていた。悲しいことだけれど、これが現実なのだ。

マックス・フリーダム・ロングはイギリス人の言語学者で、サージ・カヒリ・キングはカウアイ島の生まれ育ちだけれど、父はイギリス人で母はイタリア系アメリカ人だ。フリーダム・ロングは、言語学者としてハワイ語の調査のためにハワイにやってきて、地元のカフナたちとも交流していた。そこで、フナで使われる言葉は、古代ユダヤの言語によく似ていて、しかも、深い教えを言語の中にまるで暗号コードのように組み込んであるような不思議な構造になっているということを発見した。それで、フナで使うハワイ語に、潜在意識や超自我のような概念が含み込まれているということを言っていたのだ。

フリーダム・ロングは、その後イギリスに戻って、フナのヒーリングメソッドを教えていた。カヒリ・キングのお父さんは、フリーダム・ロングが作ったフナの協会と繋がりができて、そこでフナを知り、カウアイ島に移住して、地元のカフナに教えを受けたのだ。カヒリ・キングは、その父親にフナを仕込まれて育ち、17歳のときに父親が亡くなってから、父親を教えたカフナの家族に養子になって弟子入りし、フナを学んだ。ハワイがアメリカの一州として併合される前のことで、フナについては、あまり大っぴらにはできないような雰囲気があったようだ。

古代の叡智の伝統のようなものについては、土地の人の方がよく知っているというようなものでもない。土地の人の方が、かえって大したものだとも思っていなかったりするし、だいたい普通の人はそんなこと知りもしないことも多い。外国に行くと、日本人だから禅とか茶道とかのことを知っているんだろうと勝手に思われたりするけれど、そんなものは、日本人だから知っているというものでもなくて、わざわざ日本まで勉強に行った西洋人の方が、よっぽどよく知っている。

禅のお坊さんだって、般若心経の意味をちゃんと知っているのかと言ったら、そんなこともない。フランスから来た哲学者の方が、よほど深く理解していたりする。地元の因襲の中にどっぷり浸かっている人たちというのは、けっこうそんなものだ。仏教の人たちだって、般若心経が現実変容のメソッドを含む深い知だなどということなどは知らず、唱えたり写したりすると、ご利益のあるものだくらいの認識しかなかったりする。

そうしたことを考えるなら、ハワイアンじゃないから、本物ではないなどというのは、まったくの言いがかりとしか思えない。しかし、こうした論理は、いたるところでまたよく使われている。弾圧し、蔑んで、地元の人は隠れてしか語らないようになったあとで、外の人が来て再び盛り上げてしまったりすると、今度は地元の人でなければ本物でないなどというのだ。

フリーダム・ロングやカヒリ・キングが本物ではないという理由のもう一つのものは、彼らがアウマクアを高次元自我、ウニヒピリを潜在意識と説明するのは、ハワイの伝統にはない、というものだ。ハワイの一般の人の認識では、アウマクアは先祖の神や守護神であり、ウニヒピリは死者の霊だ。深層心理学の概念などハワイにはなかったのだから、あれは外から来た人が勝手に作ったものだ、というのだ。

これは、日本人に色即是空の意味を聞いたら、それは唱えると幸せが来ると言われているものだという程度の答えしか返ってこないのと、同じようなことだと思う。フナでアウマクアやウニヒピリという言葉をどのように使って、どのように意識を変容させていくのかということを知ったときに、初めてこれはつまり高次元自我と同じ概念だとか、潜在意識と同じものだとかいう風に理解することができる。そんなことを普通のハワイのヒーラーに言ったって、アウマクアはそんなものじゃなく、守護神のようなものだという答えしか返ってこなかったとしても、不思議はない。

カヒリ・キングは、彼のメソッドは創作したものだということを自分で言っていたから、偽物だということを書いていた記事もあった。こういうことを言う人は、意識の領域に生きることがどういうことなのかを知らないのだと思う。確かに、カヒリ・キングはカフナから教えられた通りではなくて、使いやすいよう、わかりやすいように、メソッドに手を入れている。しかし、ヒーリングは伝統の継承ではないのだ。ヒーラーとして生きていたら、学んだ伝統通りであろうがなかろうが、何でも使えるものを使うし、メソッドを相手に合わせて変えたりもするし、新しく作ったりもする。そんなことは、どんなヒーリングであろうと、誰でもやることだ。

ところで、そうした柔軟性、創造性があるものこそが、フナなのだ。フナには7つの原則というのがあって、これもカヒリ・キングが現代の人にわかりやすいようにまとめたものなのだけれど、その7番目の原則はPonoポノ、やり方は無限にある、というものだ。これは、あらゆる制限を取り払って、柔軟に創造的に新しいやり方、新しい道を探していけということを言っている。一つのやり方でうまくいかなかったら、他のやり方をどこまでも探していけ、ということだ。それが柔軟性と創造性を養うことにもなり、それによって、不可能と思われたものも可能にすることができる、という教えだ。

だから、伝統のやり方の通りではないから、本物ではないなどと言う人は、フナの伝統をこそ知らない人だ。実際、フナはとても明解に意識の世界を解き明かしているので、伝統のメソッドにこだわる必要もなく、それぞれが自在にアレンジして、創り出していくことができる。フナは、決して固まったものではないのだ。それは、意識の領域、高次元領域を自在に探索し、創造的に現実に対処していくための、地図とか取扱説明書のようなものだと言えるかもしれない。

私は、18年前にとつぜん意識の世界に開けてしまって、オーラが見えたり、神さまや天使や精霊の声が聞こえるようになり、どうしていいかわからず混乱していた。そのときに、相談に乗ってくれていたダウジングの人が、カヒリ・キングの本を紹介してくれたのだ。それは私にとって、右も左もわからない世界にとつぜん放り込まれて、やっと地図を手に入れた、といったようなものだった。それによって、自分が見ているものが何なのかがわかるようになり、それをどう扱えばいいのかを、知ることができたのだ。

だから、フナは決して特定の文化の特定の伝統といったものではないと思う。たまたまハワイに残され、伝えられていた普遍的な知と言うべきものだ。これは、意識の領域を知る人ならば、誰でもそのままに使えるものだし、自在にアレンジして使うこともできる。フナとは、それほどに明確で核心を突いた普遍的なツールなのだ。

それが今、このようにバッシングに遭っているということは、まさにこの普遍性と現実変容の力とを、封じ込めようとしているからなのだろう。しかし、風の時代に入って、もはや隠そうとするものはますます表に出てしまうような時代になってきている。道がなかったら、道を作れというのが、ポノの教えなのだ。それは、遅かれ早かれ示されることになると思う。

2024年1月31日


フナの7原則



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【バランスを作る技】



ハワイの伝統であるホ・オポノポノは、こじれた人間関係に調和を作り出す技だと言える。人間関係がこじれるのは、結局のところ、コミュニケーションが阻害されていることに問題がある。だから、伝統的なホ・オポノポノでは、当事者の全員にそれぞれの言い分を語らせる。そして、調和できる解決策を考え出すのだ。これは、崩れたバランスを再び取り戻すために、バランス点を調整し直すような作業だと言えると思う。

バランスとは、どちらに重心が傾くかによって、加える力を微妙に変えていくことによって得られる。人間は歩くときに、刻々と変わっていく左右のバランスを絶えず微妙な筋肉の動きで対処していくことによって、倒れないで進み続ける。自転車がバランスを保ち続けるのは、絶えず左右に重心が交代し続けるからだ。泳ぐとき、踊るとき、私たちの身体は、微妙な筋肉の動きで絶えずバランスを取り続けていく。

生理学を習ったことがある人なら、私たちの身体が、微妙なバランスを取り続けていく、ホメオスタシスと呼ばれるメカニズムのことを知っていると思う。生命現象とは、化学物質や温度の微妙なバランスを取り続けることによって、可能になる、そのバランスを絶えず取り続けているのが、私たちの身体なのだ。それは、刻々と変わっていく状況に、刻々と対処していく反応の連続だ。

それは決して、これがいいという一律なものがあるわけではない。その都度、個々の状況で、刻々と変わっていくような、とても繊細で微妙なバランス感覚なのだ。そこには、何が悪くて何が正しいといったことさえない。ただ寄せては返す波のような運動を、受け入れつつ、対応していくような、きめ細やかな反応があるだけだ。

ヒーリングとは、つまるところ、崩れたバランスを取り戻す技なのだけれど、それはもともと、どの点でバランスが崩れているのかを個々のケースで見ていって、そのバランスを取る処方を見つけ出すようなことだ。漢方では、同じ病気でも決して同じ処方がなされることはなく、その人の体質や病気になった状況を見て、どこでどうバランスが崩れているのかを詳細に診ていく。ホメオパシーでも同様で、どの病気にはどれ、という決まったレメディがあるわけではない。つねに個々のケースを見て、微妙なバランスを取り戻すような作業がある。それは、呪術的なヒーリングでも、まったく同じことだ。

それが、20世紀に入って、化学製薬による現代医学というものができてから、変わってしまったのだ。個々のケースを別々に見るのではなくて、病名でくくって、それにある一つの化学薬品が効くとすることで、薬品を大量に消費させるようなシステムができた。そこでは、誰もが同じ一つの基準で診断されて、同じ一つの薬品が与えられる。それでバランスが戻るのかどうかは、重要視されていない。そもそも現代医学は、人間の身体が自ずとバランスを作り出すということを意図的に無視しているようにさえ見える。崩れたバランスを取り戻すために、人は一生の間、薬を飲み続けなければならないようにされている。現代医学は、生命体が自律的に作り出すバランスを取り戻すのではなくて、薬品に依存していくようにしているとさえ言える。

現代の学校教育も、それと同様に、すべての子供に同じことを要求することで、それぞれが自律的にバランスを取っていく能力を壊してしまっているのが現実だ。現代医学でも学校制度でも、つまるところそうやって、依存的な人間を作り出しているのだ。自身でバランスを取る力が損なわれて、絶えず外にある基準に依存していかなければならないようなシステムになっている。

まさにこの状況が、争いがやまない社会を作り出しているのだと思う。誰もが同じ基準で評価され、何が正しいとか悪いとかを同じ基準で測られているために、絶えずたがいに争い続ける状況ができる。その中で、自律的にバランスを取っていく反応が阻害されている。そうした状態になっていたからこそ、人々は容易に支配されてしまったのだ。外の基準に依存することでしか、バランスが保てないように思い込まされてきたからだ。20世紀に入って、医療や教育システムでこのような状況が作られていったのは、まさにそのためだったとも言える。

人間関係の微妙なバランスを取っているのは、意外に思うかもしれないけれど、実は状況によって刻々と変わっていく感情の力だ。私たちは、自分を守らなければならない状況があるときには、恐れや怒りの感情が湧いてくる。それによって、距離を取るとか、相手を威嚇するとかの反応が自然に起こってくる。それで距離が取れれば、関係にバランスが取り戻される。人間関係のバランスとは、実はそうした微妙な反応が絶えず起こって、それによって保たれていくのだ。

現代に生きる私たちが、人間関係のバランスを取ることが難しくなっているのは、まさにこの力が阻害されているからだと言える。私たちのほとんどは、成長のプロセスのある時点で、怒りや悲しみを表現することを禁じられている。それによって、依存状態になるまで支配させてしまったり、ストレスで病気になるまで感情を抑圧したりすることになる。身体の病気にしても、人間関係の問題にしても、ほとんどがそこから来ていると言ってもいい。

私は、2週間ほど前にとつぜん思いついて、インナーチャイルドの解放セッションというのを始めたのだけれど、やっていて、これはまさしく自律的なバランス機能を取り戻す作業だということに気がついた。私がインナーチャイルドと言っているのは、ハワイのシャーマニズム、フナで、クーとかウニヒピリとか呼ばれているもので、身体意識をも含む潜在意識のことだ。これは、宇宙のアカシックレコードのような集合的な記憶とも繋がっているので、ある意味、万能な存在なのだけれど、現代社会では、あまりにも過小評価されていて、小さく縮こまってしまっているのがつねだ。

インナーチャイルドは、多くの場合、人生のある時点で深く傷つけられていて、そのために自らのバランス回復力を使うことができずに、依存的な状態に押し込められてしまっている。だから、インナーチャイルドにもともと持っていた力を思い出させるためには、この力が封じ込められた原因になっているトラウマに戻っていって、それを修復してこなくてはならない。それで、意識上で過去を変えたり、インナーチャイルドに言いたかったのに言えなかったことを言わせたりする。ときには、先祖代々のトラウマを解くために、歴史を丸ごと変えてしまったりもする。

この過去を変えるというのは、やったことがない人は、奇異に感じると思うけれど、それは、人生のある時点でかけ違えられてしまった掛け金をかけ直すようなものだと言ってもいいと思う。ある時点でできてしまった間違った設定を、元に戻って正しく変えてくるようなことだ。子供の心が、性格が歪むほどに傷つけられるなどということは、本来あってはならないことなのだ。だから、あれは適応するべきものではなくて、間違っていたのだという風に設定を変える。とにかくそれで、縮こまっていたインナーチャイルドは、再びバランス機能を取り戻せる状態になる。

そして、インナーチャイルドが抑え込まれてしまった原因になっているトラウマを外したら、あとはインナーチャイルドに向かって、もう大丈夫だから、いくらでも大きくなってもいい、と呼びかけてもらう。それで、小さく押し込められていたインナーチャイルドは、たいていの場合、ものすごい勢いで大きくなっていく。宇宙まで届くような大きさになったりもする。その状態になっていれば、人間関係に問題が起きても、自ずとバランスが取れるような柔軟性ができるのだ。

今、国際関係も、一つの勢力が搾取的に世界中を支配していた状態が崩れていき、多極的な調和へと向かっていっている。多極的な世界とは、つまりは一つ一つの国がインナーチャイルドを取り戻して、自律的なバランスが取れるようになるようなことなのだ。その状態になっていれば、ある国が一方的に支配することはできなくなり、たがいに調和ができるようなコミュニケーションが可能になる。まさにこのコミュニケーション能力が、恒久的な平和を作り出すのだ。それは、決して固まったものではなく、絶えず揺れ動きながらバランスを取り続けていく波のようなものだと言っていい。

ハワイのフナが、伝統に忠実かどうかで本物だとか偽物だとかいう話になっているのを見て、何よりもフナは、形式によって何が本物か偽物かというようなことが言えるような技ではないということを感じた。フナは、これが正しいというような決まった形があるようなものではなく、バランスを作り出せるかどうかがあるだけなのだ。

バランスを作り出せればそれでいいし、そうでなかったら、やり方を変えればいい。ところが、どれが本物かどうかの議論には、現実にバランスが作り出せているかどうかという話が欠けている。その代わりに、使っている用語がもともとの伝統にあったとかなかったとか、やっている人が本物のハワイアンだとかそうでないとか、そんな表面的な形のことばかりが問題にされている。フナがバランスを取り戻す技だということを知っている人たちにとっては、そうした議論は、何が正しい間違っているということ以前に、丸ごとが的外れだ。そうしたことを問題にしている時点で、その人はフナを理解していないということがわかってしまうくらいだ。

2024年2月1日

フナのヒーラー、スーザン・パイニウ・フロイド


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【ごめんなさいは解放になるのか?】



十数年前から流行り始めたホ・オポノポノは、4つの言葉をただ唱えていれば、浄化されて幸せになれるというのだけれど、「ありがとう」と「愛しています」はいいけれど、「ごめんなさい」と「ゆるしてください」は拒否感を感じる人が多い。拒否感を感じるというのは、潜在意識とか身体意識とかいうもの、フナでクーとかウニヒピリとか呼んでいるものが、嫌がっているのだ。そういうときには、身体の中のどこか、胃のあたりとか、喉のあたりとか、あるいはお腹のあたりがザワザワして、キュッと縮こまったような感覚になるからわかる。

どんな療法でも、どんな場合にでもユニヴァーサルに効くというものは存在しない。多くの療法は、何にでも効くと主張しているけれど、そんなことは絶対にない。それというのも、健康というものは、バランスに他ならないからだ。崩れたバランスを取り戻すのには、一つの決まったものが効くということはない。どこでバランスが崩れているのかを見つけて、それをそっと調整するような作業が必要なのだ。だから、ヒーリングには、重心の微妙なずれを感じ取る感性が最も重要なものだ。

そしてそれは、「ありがとう」とか「ごめんなさい」と言ったときに、それを身体が拒否しているのか、それともその言葉で解放されるのか、縮こまるのか緩むのか、という反応を感じ取って、傷つきやすいものを扱うようにそっと調整していくような繊細さであり、優しさに他ならない。

「ありがとう」という言葉は、江本勝の水の結晶実験でもわかるように、かなりユニヴァーサルに解放の方向に効く言葉ではある。だけど、この「ありがとう」という言葉も、時と場合によっては、バランスを崩す方向に作用することもある。誰かがよかれと思って何かをしてくれたから、お礼を言わなければいけないけれど、本当は迷惑な場合というのもある。押しつけ、ありがた迷惑、あるいはマウンティングの一種でさえあることもある。こういうときに、本当は言いたくないのに「ありがとう」と言ったら、身体の中がキュッと縮まって、自分が小さくなったような感覚がすると思う。そういうときには、「ありがとう」は、私は他者の支配を受け入れる、という意味になってしまうのだ。そういうときには、「ありがとう」ではなくて、No thank youと言った方がいい。

フナは、決して「これがいい」というものを押しつけるようなやり方はしない。それは、クーとかウニヒピリと呼んでいる自分の意識の反応を見ながら、調和する点を見つけていくコミュニケーションの手法なのだ。これは、人間関係の調和を作り出すのにも使えるし、自分の中の調和を作り出すのにも使える。自分と世界の関係を調和させるのにも使える。ありとある関係性を繊細にバランスを取っていくように、調和させることで解放するコミュニケーションの手法なのだ。

フナのヒーラー、カヒリ・キングがアレンジしたメソッドで、4つの言葉を言って、身体の反応を感じ取っていく現実変容の術がある。それは、「私はーーーをする力がある」「私はーーーをする権利がある」「私はーーーをする望みがある」「私はーーーをする意志がある」というものだ。フナでは、現実は私たちの意識が作り出していると考えている。しかし、現実を作り出しているのは、顕在意識であるよりも、潜在意識の方なのだ。だから、顕在意識がいくら望んでいても、その逆の現実が引き寄せられていくということがある。これは、潜在意識が逆のことを思っているからなのだ。

たとえば、潜在意識が罪の意識を抱えていて、自分は何をやってもダメな人間なのだとか感じていたら、「私は光だ」とか「私は成功する」とか一生懸命唱えていても、クーはますます小さくなっていくだろう。そして、そんなものになれない自分を、ますます恥じて、罪の意識を感じるようになったりもする。その結果は、ますますダメな自分が現実化されていくということになる。スピのヒーラーを転々とする人たちは、その悪循環に苦しんでいる人がけっこう多い。こういう人はヒーラーにお金を払い続けるので、お金儲けをしようとする人たちには、いいお客さんだったりする。

カヒリ・キングのメソッドは、4つの言葉を言いながら、クーの反応とコミュニケーションするのだ。そして、クーがどこにブロックを抱えているのかを繊細に感じ取る。そして、そのブロックを外していく。ブロックが外れたときには、身体が緩んで暖かくなって、力が内から湧いてくる感覚になるから、わかる。フナでは、どういう言葉、どういうシンボルがいいとかそういうことよりも、この繊細に感じ取って、バランスを取っていく感性こそが、大事なのだ。

こういう風にして意識の間に調和が取れたときは、そのバランスは長続きする。だけど、ある言葉やシンボルみたいなものを無理強いするようにして作ったバランスは、長続きしない。これは、西洋医学で治したときと、漢方とかホメオパシーとかで治したときとの違いとも似ている。西洋医学の対症療法で治したときは、同じ病気に繰り返しかかったりするけれど、漢方とかホメオパシーとかで、バランスを取り戻すように治したときは、抵抗力がついて、どんどん病気にならなくなっていく。

だから、どんな場合でもこれが効く、というようなものはないし、そういう風に言っているメソッドは、それだけでまず用心した方がいいと私は思う。たとえ他の8割の人に効いたとしても、2割の人には害にならないともかぎらないからだ。この辺は、繊細に感じ取る必要があるし、そこを無視するようなヒーラーは、私なら避ける。

10年くらい前のことだけれど、「ありがとう」が害になって、「ごめんなさい」が決定的に効いた経験をしたことがある。あのとき私は、熊野の縄文の森で陶芸製作の仕事をしていて、近くに国道沿いのコンビニしかなかったので、そこでお弁当を買って食べていた。そんなものは食べたくはなかったけれど、他になかったからしようがないし、それだって「ありがとう」と言って食べれば、浄化されるはずだと思っていた。そうやって、いつも「ありがとう」と言って食べていたのだけれど、やはり少しもおいしくないことには変わりがなかったし、気分もよくはなかった。

それであるとき、いつものように「ありがとう」と言って食べようとしたとき、「ありがとう」という言葉が出る代わりに、涙が出た。そして、ありがとうの代わりに、「ごめんなさい」と言って泣いていた。野菜も魚も動物も、人間がこんなに薬まみれにして、毒のような食べ物を作り出してしまったのだ。植物にも動物にも申し訳がないという思いがこみ上げた。そして、そんなものを無理に食べている自分もかわいそうになった。本来ならば、受け入れるべきではないことを、無理に受け入れようとしていたのだということに気がついた。こんなことは、自然に対しても、自分に対しても、ゆるすべきではなかったのだということに。

ところで、そのときから、確かに何かが変わったのだ。いつもコンビニのパンとかおにぎりとかを差し入れてくれる和尚さんに、「コンビニのものは、健康にあまりよくないそうですよ」とそれとなく言うことができた。すると和尚は、おにぎり屋さんのおにぎりとかを差し入れてくれるようになった。それと同時に、地元の人が、庭で採れた無農薬の野菜とかお米とかをくれるようになった。嫌なのに受け入れていたのを、やはり受け入れるべきではない、と潜在意識と顕在意識とが同時に思えたときに、別な現実を作り出し始めたのだ。フナの現実変容の術とは、つまりはこのようなものだ。

インナーチャイルドを解放するセッションをやるときも、小さくなっているインナーチャイルドをイメージしてもらって、「今まで閉じ込めていて、ごめんね。もう本当に好きなことをしてもいいからね。いくらでも大きくなっていいからね」と言ってもらう。そうすると、インナーチャイルドは喜んで、どんどん大きくなっていくのだ。現代に生まれ育った私たちのほとんどは、人生のある時点で、本当は嫌なことを、世間に合わせるためにと、自分に無理強いしてきた。だから、その強制を解いて解放するときに、自分でインナーチャイルドを押さえ込んできたことにごめんねと言うのだけれど、それによってインナーチャイルドである自分は、やっと謝ってもらって、縛りから解放されたという感覚を同時に持つ。自分に対して悪かったという思いと、やっとわかってもらえたという思いが両方とも湧いてきて、それで分裂していた顕在意識と潜在意識が一つになり、和解するのだ。そんな風にして取り戻された内なる調和は、長続きする。

だから、どんな言葉、どんなシンボルが絶対的にいいとか悪いとかいうことは、決してない。それよりも重要なのは、どれが今のこの場合にいいのか、身体が緩むのか縮こまるのか、どうしたら緩んでくるのか、というようなことを繊細に感じ取る感性なのだ。それこそは、あらゆるものに効く愛であり優しさだ。ハワイ語で愛を表すアロハとは、一緒にいるのが幸せだという喜びの感情だとフナでは言うのだけれど、それは、自分がよかれと思うものを人に押しつけるようなことではなくて、ともに波間にたゆたうような、そんな緩い感覚のものなのだ。

2024年2月2日


カウアイ島の滝




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【潜在意識には浄化が必要なのか?】


スピリチュアルに関心がある人の多くは、潜在意識を何か悪いもののように思っていたり、浄化するべきものだという風に思っていたりする。実際、いわゆるネガティブな感情だとか、エゴイスティックな欲望だとか、そういうものが湧き上がってくるのは潜在意識からだし、それによって望まない現実を知らずに投影して、そういう現実を引き寄せていたりするのも、潜在意識から来ている。

それで、ヒューレン博士という人が考え出した、ありがとう、ごめんなさい、ゆるしてください、愛しています、という4つの言葉を唱えるという新しいメソッドが、潜在意識を浄化して、ネガティブな投影を消し去るのだと言われている。これが、ハワイの伝統であるホ・オポノポノの現代版だと言っているのだけれど、これは実はSelf I-dentity through ホ・オポノポノという登録商標付きのメソッドで、ホ・オポノポノそのものではない。そこから由来する考えを使ったアイデンティティを作る独自のメソッド、ということにすぎない。

このメソッドは、すぐにできるし、一時期いろんな人が話題にしていたので、試してみた人も多い。だけど、かなり多くの人は、わけもなく「ごめんなさい」とか「ゆるしてください」とか言うことに抵抗を感じて、やめてしまったし、ある種の効果を感じて唱えていた人も、それほど効果がないことの方が多かったりして、いつの間にか唱えなくなっていることも多い。

深層心理まで入り込んで、精神的な傷を癒やすようなヒーリングを知っている人なら、潜在意識の傷は、こんな風に浄化できるようなものではないことを、よく知っていると思う。それというのも、ネガティブな想念は、外からつけられた汚れのようなものではなく、癒えないままに残っているかさぶたのようなものだからだ。かさぶたを無理やり取り除こうとしたら、皮がはがれて、傷が新しくできてしまうだけのことだ。

望まないような状況が引き寄せられているのは、潜在意識の中に、罪悪感だとか、自分は愛されないとか、人に疎まれるとか、そういう記憶が癒やされないままに残っているからだ。だから、努力しているはずなのに、何かあると自分のせいにされて怒られたりとか、好きな人に距離を取られたりとか、ここぞというときに失敗するとか、そういう状況が作り出されてしまったりする。

それどころか、自分は生きていてはいけない存在なのだというような感覚が、潜在意識の中に書き込まれてしまっていることもある。幼児期に、何かの意味で虐待された人や、両親がいつも殴る蹴るのケンカをしていたとかいう人は、そういう感覚を持ってしまうことも少なくない。そういう人は、いつもモラハラに遭うとか、DVの犠牲者になるとかいう事態を引き寄せることになっていたりもする。

こういう人に、「ありがとう」とか「ゆるしてください」とか唱えさせるのは、心理のことをちゃんと知っている人ならば、まずやってはいけないということを知っていると思う。それは、自分が虐待された体験に対して、感謝して受け入れて、その罪が自分にあることを認めるようなものだからだ。両親がケンカしているのを見て育った子供は、両親がケンカするのは、自分のせいなのだと思い込む。虐待された子供も、自分が悪いのだと思い込んで、親に感謝するべきなのだと思わされていたりする。まさにこれが、望まない現実を作り出すことになっている。

子供時代に精神的に傷つけられる体験をして、そのために癒やされないトラウマが潜在意識に残っているとき、「ありがとう」とか「ゆるしてください」というのは、虐待してくる相手に、無条件降伏するようなものだと言える。すべては自分のせいだと認めて、加害者にゆるしを乞う、ということになってしまう。このように作用してしまった場合、一時的に解放されたような気分になったりはするかもしれないけれど、傷自体が癒えるわけではない。自分自身の潜在意識にさらに抑圧を加えるようなことになり、かえって状況がひどくなる危険も大きい。

現代に生じている問題の多くは、子供のときに何らかの意味で傷つけられ、ありのままの自分を生きることを許されなかったことから来ている。実際、現代に生まれ育った私たちは、医療システムだとか学校制度だとかに縛られて、ありのままの自分を生きることなどほとんど不可能な状況だ。だから、ほとんど誰でも、そのような傷を潜在意識に負っているのだ。その状態で、状況も何も関係なく、ただ「ありがとう」「ゆるしてください」と唱えたら、それはありのままの自分を生きられない世の中を感謝して受け入れ、それに満足できないのは自分が悪いのだと言っているようなことになる。

多くの人は、そこで拒否感を感じて、唱えるのをやめる。しかし、そこでやめないで、唱え続けていると、潜在意識に書き込まれてしまうことになる。そうなると、世の中が悪いのはすべて自分が悪いとか、どんなにひどい状況でも感謝して受け入れるべきだとかいう意識ができて、それが現実を引き寄せ始めることになる。この結果、ますますモラハラを受けることになったり、自分の素直な感情からも切り離されてしまって、「喜びと感謝の念しか感じない」と引きつった笑顔で言うようになったりもする。

スピリチュアルの世界で浄化浄化というのも、こうしたことを考えると、一種のヒステリックな不潔恐怖症を作り出しているようにも思える。何か悪いことが起こったら、それはすべて自分の潜在意識が汚れているからだと罪の意識を持って、だから浄化しなければならないのだと思い込んだりする。実際、多くのセラピストみたいな人たちが、そういう風に人々を駆り立てているのも事実だ。そのように考えないのは、エゴイスティックなことで、素直な人間ではないみたいに思わせてきたりもする。

インナーチャイルドを解放するセッションをやっていると、ありとある原初的なトラウマの形に遭遇する。そういうときに、起きた状況を受け入れるとか、虐待した親をゆるすとか、ポジティブな面を見るとか、そんなことは付け焼き刃にすぎない。そんなことでは、傷そのものは癒やされない。単に、しばらく痛みをごまかすことができるだけだ。

根底にある問題は、「ありのままの自分を生きられない・生きてはいけない」と潜在意識に書き込まれてしまったということにある。だから、それを癒やして、本当のありのままの自我を解放するには、「ありのままの自分を生きてもいい」と書き換えるしかない。だから、こういう事情があったからしかたがなかったとか、そういうことではなくて、どんな事情があったにしても、子供をこんな風に扱うことをゆるしてはいけない、ということを認めるしかない。

それで、インナーチャイルドを解放するセッションでは、過去に戻っていって、状況をかえてしまい、幸せな育ち方をしたことにしてみたり、親が違う対応をしたことにするとか、理想的な親に育てられたことにしてしまうとか、ときにはぜんぜん別な時代、別な世界で育ったことにしてしまったりもする。過去を変えるのは、やったことがない人は、そんなことで効くのかと思うかもしれないけれど、とにかくそれで、インナーチャイルドの傷が癒やされて、望まない現実を作り出すオーラを出さなくなるのだ。

これは、うつむきがちの姿勢が変わって、背筋が伸び、胸が開いて堂々とした態度に変わったり、くもりがちだった額が輝き始めたりするからわかる。当人も、胸が軽くなったり、息が深く吸えるのを感じたりする。自分のエネルギーの状態を感じ取るのに慣れている人は、喉のあたりで詰まっていたのが外れて、エネルギーの流れが繋がった、とか言ったりする。

これによって、確かにネガティブな記憶の投影みたいなものが消えはするけれど、これは殺菌するみたいにして浄化するから消えるというようなものではないのがわかると思う。むしろ、傷によって抑え込まれていた抵抗力を解放するようなことだ。浄化浄化といって、まるで汚れとかバイキンみたいなものがついているように思って、殺菌するみたいに消し去ろうとしても、かえって菌バランスが崩れてしまって、傷が治らなくなるのと同じようなことだ。

漢方とかホメオパシーみたいなもので、病気を治そうとするときは、何かを除去するのではなくて、抵抗力を強めることによって、身体が自ずとバランスが取れるようにする。潜在意識の癒やされない傷も、そのようなやり方でなければ、本当に癒えることはない。それというのも、そもそも傷が癒やされないで残ったのは、抵抗力が奪われてしまったために、かさぶたのまま残ったようなものなのだから。奪われた抵抗力を取り戻す以外に、このかさぶたを治す手はない。

それを考えるならば、「ありがとう」とか「ゆるしてください」とか言うのは、対症療法のようなものでしかないことが、よくわかると思う。本当の解放は、むしろ「ゆるしてはいけない」という認識から来る。それによって初めて、自分の内なる傷ついたインナーチャイルドを、本当に愛することができるようになるからだ。

2024年2月3日


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【スピ的プロパガンダの手法】



スピリチュアルというのは、70年代の西洋世界で、キリスト教の束縛から逃れようとした人たちが、ネイティブアメリカンやシベリアやアフリカのシャーマニズム、ヨガや太極など、世界中にまだ残っていた多次元的な意識世界へのアクセス法を求めていったことから始まっている。そこで、ネイティブアメリカンの幻覚性の薬草を使うヒーリングだとか、瞑想の手法やそこで見たヴィジョンの話などが、たくさん出ていた。そうやって、三次元的な世界の他に、まだとてつもなく大きな世界が存在していて、三次元的な現実も、実はそうした意識次元の作用で生じているということが、知られていったのだ。

ところで、そうした意識に開かれると、人々を三次元的なお金とか職業とかそういうもので縛りつけておけなくなってしまうので、支配者にとっては不都合なのだろう。実際、多次元的な領域が見えてくると、お金とか職業とか年金みたいなものよりも、神とか宇宙とかそういう力に守られて、人間は生きていくのだということが、理屈ではなくわかってしまう。だから、事業主とか政府とかに従うよりも、真実に生きた方がいいということになる。それで70年代には、都市の職場を離れて、自然の中で自由に生きようとする人たちがたくさんいた。

世界がこうした流れになっていくと、その領域に権威主義的な構造を忍び込ませて、多次元領域を封じてしまうということが、そのたびに行われてきたようだ。70年代の頃には、ニューエイジと言われるものが出てきて、それが一種の新興宗教のような感じになっていったのだけれど、あれは実はアメリカ中央情報局が意識操作のため作らせた、プロパガンダ工作だったということが、この頃表に出てきたりしていた。

数年前から、メディアを使った意識操作が世界規模で行われていたことが、表に出てきた。コロナのときには、たとえ目の前の現実と違っていても、多くの人はメディアで繰り返し言われていることの方を信じ込んでしまうのだということを、どうしようもなく見せつけられたりもした。私たち人間とは、かくも操作されやすい存在だったのだ。そして、そうした操作がどのようにして行われているのか、どのような心理メカニズムがこんなことを可能にしているのか、といった情報が次々と出てきた。それによって私たちは、第二次世界大戦でのナチのように、普通の平和的な人間に信じられないような残虐行為を行わせるようなことも可能にする意識操作の手法が、現実に使われてきたのだということを、知ることになった。

人々の意識が多次元領域に繋がっていくような流れができてくると、そこに権威主義を潜ませたものが作り出され、それが広められ、人工的にブームにされていくというようなことが繰り返されていったような気がする。急に浮上してきたヒーラーやチャネラーだとかが出てきて、新しい意識変容やヒーリングのメソッドだとか神秘主義的な教えだとかを紹介し始める。それは何だか居心地が悪くなるような歪んだ波動を出していたりするのだけれど、メディアでさかんに取り上げられ、ブームが作られ、多くの人々が殺到していく状況が作られていく。

だけど、そういうものに引き寄せられていく人たちは、だんだん目が虚ろになっていったり、感情がなくなってしまったように表情が固くなっていったりする。明らかに、多次元的な意識に開かれていく解放の方向とは逆のことが起こっているようで、意識が開けていく代わりに、逆に閉ざされていくように見えるのだけれど、当人はそれで幸せになったと思っている。

私のこれまでの経験からして、本当に意識の解放へ向かっていくようなことを教えている人は、割と普通のかっこうをして、普通の人のようにふるまっている。参加者も講師を尊敬はしているけれど、崇拝してる感じではなくて、対等な感じで話しているし、料金もそれほど高くはない。しかも、講習ではかなり不思議なことを皆で経験しているのだけれど、それを誰もそれほどすごいことだと思っていないようなところがある。これは、意識の領域に通じている人ならわかると思うけれど、三次元意識ではあり得ないようなことでも、多次元領域に入り込むと、当たり前な感じで起こるだけなのだ。だから、本当の多次元意識を経験しているほど、何か特別なことができるという空気を出さなくなるのだと思う。

一方、多くのスピリチュアルのセミナーやイベントは、そういう自由な感じではなくて、皆が同じように考えなくてはいけないというような、何か堅苦しい雰囲気がある。同じように考えないと、無知だとか意識が低いとか思われて、排除されそうな雰囲気があるのだ。そういうところで教えている人は、支配してくる感じのオーラを出している。反論したりしたら、ブチ切れられたり、ねっとりと教え諭されたりしそうな感じだ。私は、そういうところへ行くことはほとんどないけれど、たまたま居合わせて、素朴に疑問に思ったことを質問したりすると、だいたいそういう目に遭うことになる。

そういうところでは、講師と参加者の間には、支配と依存の関係のようなものがあって、参加者は講師の言うことに異議をさしはさんだりしてはいけないことになっているようだ。質問も反論のように受け取られて、そんなことを聞くのはどうかしているみたいに、ブチ切れられたりする。それも一種のパフォーマンスみたいなところもあるらしくて、他の参加者たちは、それを見て、大人しく講師に従っていないとと萎縮するのだ。

権威主義的なシステムでは、波動が低いとかエゴだとか闇だとか、何かしら絶対的に悪いものがあるという価値基準があって、それを講師は脅しのように使っている。波動が低かったりエゴだったり闇だったりすると、現実に災難があって不幸になるということになっているし、だから、それは本人のためにも正すべきだということになる。そして、講師はこの価値基準で人を測る権限があるように思わせていて、まさにそれが人々に対する支配力になっている。

それを考えると、これはローマ・カトリックの罪の概念と、基本的に同じものだということがわかる。ローマ・カトリックでは、人の罪を断定したりゆるしたりする権限は、聖職者だけにあるように言われている。そのために中世では、教会で免罪符というものが売られていた。それを買えば、教会が罪をゆるすので、天国に行けるということになっていた。それによって中世の教会は、思うようにお金を集めていたし、それで脅して人々を支配していたわけだ。王族でさえも、教会に楯突いて、破門されたら大変なので、教会を恐れていたくらいだ。

そこで、マルティン・ルターが現れて、聖職者だけが神と話すことができて、人の罪をゆるすことができるなどというのは、ナザレのイエスが言った教えと違う、ということを言い出した。当時は、教会ではラテン語だけが話されて、一般の人々は福音書の内容も知らなかったのだ。福音書も内容がかなり改ざんされてはいるけれど、しかしそれを読めば、確かに神はすべての罪をゆるすと言っているし、誰にでも罪をゆるす権限がある、とも言っている。それまでのカトリック教会は、そのことを隠していたのだ。

そもそもナザレのイエスは、権威主義化していたユダヤ教を解放しようとして出てきたのだ。イエスが会堂に入って説教をしたり、癒やしたりしていたとき、ユダヤ教の司祭たちが、律法学者ではない人間がそんなことをするのはおかしいと非難しに来ていた。神は罪人を厳しく裁く存在であるように思われていたけれど、ナザレのイエスは、神とは誰にでもいる父親のような存在で、親のように無条件に愛して守っているので、そもそも罰するような存在ではないし、どんな罪でも神はゆるしているのだと説いていた。イエスはまさに、罪はゆるされているのだということを人々に知らせることによって、人々を解放し、癒やしていたのだ。

罪の概念は、人を支配するには、最高のツールなのだと思う。だから、罪の概念から人々を解放してしまうイエスのような人物は、消されることになる。この数千年の支配の歴史は、ある意味、この罪の意識をめぐっての闘争でもあったようだ。罪の概念は、人々を支配して、従わせるのに使うことができる。しかし、三次元以上の領域では、神はそもそも罪というものを規定してはいないことが自ずとわかる。少なくとも、特定の人間が定めたりゆるしたりできるようなものではない。これは、神とかハイヤーセルフ、高次元の意識とコンタクトしてみた人は、誰でも理屈なく知っていると思う。

それで、イエスがこの世から消えたあとで、イエスの弟子ではなかったパウロという人物が、十字架を崇拝するキリスト教を作り、このキリスト教が、ローマ帝国の支配に使われていったのだ。ここではまた、罪は教会だけが定めたりゆるしたりできるものだということになった。それで、異教徒は滅ぼしてもいいということになり、他民族を虐殺することに教会が積極的に加担しさえした。

それを見ても、教えの内容がどのようなものであっても、罪の概念さえ独占しておけば、人々にどんなことでもさせてしまえるということがわかる。あれは罪人だと言えば、滅ぼすことも善になってしまうのだ。

ナザレのイエスが出て、マルティン・ルターが出て、そのたびに罪の概念から人々を解放するのだけれど、そのたびにまた、罪の概念で支配する教会組織ができていく。人類はその闘争の歴史をたどってきたようだ。そして、70年代に、宗教から離れて瞑想や薬草などで精神世界を探究しようとする人々が出てくると、今度はカリスマで支配しようとするスピの人たちが現れて、波動が低いとかエゴがあるとかネガティブだとか言って、浄化が必要だと言うようになった。これは、使っている言葉は違うけれど、キリスト教が使っていた罪の概念と、基本的に同じものだ。権威の人だけが決めることができて、どうすればそこから逃れられるのかも、権威の人だけが指示することができる。この権威を使って、人を思うように支配することができてしまうのだ。

それで、ある種のスピの権威に従っている人は、自分はまだいたらないのではないかと自信なげな顔をしていて、大した効果を感じなくても、それはそういうものなのだと思っていたりする。効果のあるなしを自分で判断できると思ってはいけないと思っていたりもする。だから、ある意味、自分で自分がどうなのかもわからなくなっていて、依存状態になっている。

1月20日に冥王星がまた山羊座から水瓶座に入ったというのだけれど、これは、嘘がもう隠せなくなって、真実が破壊的なパワーで表に出てきてしまうようになるということらしい。ということはつまり、もはや嘘は人を支配する力を持たなくなるのだ。ちょうどその日に、私はインナーチャイルドを解放するセッションをやることを思いついて、お知らせを出していた。やってみて、これはまさに世間的に作られた罪の概念みたいなものから、人を解放するようなことだと思った。

そのことからして、まさにこの方向が、風の時代の流れなのだろう。この解放が、毎日どんどん進んでいるのを感じている。人類が罪の概念に支配された2000年がついに終わって、解放された人々が新しい世界を作り出すことになるのだろう。罪の概念も、それによる支配も、存在しないような世界をだ。

2024年2月4日


ロシアのトゥヴァ共和国のシャーマン




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【判断力を失わせる手法】



この数年で、自分の感覚を信じて判断する代わりに、上から言われることをそのまま信じてしまう人が、いかに多いかということを、私たちはさんざん見せられてきた。ある心理実験では、見て明らかにわかるような質問をした場合でも、まわりの人が違うことを主張していると、75%ほどの人は、まわりの人が言っているのと同じ答えをしてしまうのだそうだ。たとえば、緑色のノートを見せて、「何色ですか?」と聞いたとき、最初に聞かれた何人かが「赤です」と答えると、その人も赤だと答えてしまう。全体の75%がそういう反応をしてしまい、皆が赤だと言っても、やはり「それは緑です」と答えられる人は、25%ほどなのだそうだ。

これが、どういう社会でもそうなのか、それとも西側の一般的な学校教育を受けた人たちだけなのかは、よくわからない。しかし、西側諸国で普通に育った人は、そうした反応をしてしまう可能性がかなり高いということで、日本も含めて西側諸国の現代教育は、そのような人間になるようにされているということは、言える。その結果、明らかに目の前で見ている現実とは違っていても、多くの人は、テレビでいろいろな権威の人たちが言っていることの方が、本当なのだと信じてしまうのだ。

自分で見たり感じたりしたものから、何が自分にとっていいことなのかを判断して、反応するのは、知性によって得られる能力であるというよりも、本能的に備わっているものだと言える。野生動物は、そうした判別能力によって、餌を見つけ出し、危険から身を守るのだ。小さな子供は、肚感覚で危険なものをしっかりと感知していて、嘘をついている人と本心で話している人を確実に見分けたりもする。それを考えるなら、自分の感覚よりも人が言ったことを信じるような教育を受けていなかったら、事実と違う判断をしてしまうようなことは、本来はないのかもしれない。

ところで、支配とは、まさに人々の判断力を停止させてしまい、自分の感覚ではなく上から指示されたことに盲目的に従うようにしてしまうことなのだ。この数千年の歴史では、支配力とは、つまり武力だった。支配者の命令通りに人を攻撃するような人々を多く持つことが、権力だということになる。封建制が崩壊した19世紀以降では、武士階級ではなく一般市民が戦争要員となったので、上からの命令通りに動く人間に教育するために、学校制度が導入された。つまり、自分で判断するのではなく、上から来た見解をそのまま信じて従うように訓練されることになったのだ。

何でも言うなりになる人間にするための古典的な手法は、虐待して、死の恐怖を繰り返し感じさせることだという。これをやっていると、自分の意志ではなく、加害者の意志に従うようにすることができる。このように、加害者の意志が自分の意志になってしまうのを、心理学ではストックホルム症候群と呼んでいる。これは、ストックホルムで起こった銀行強盗事件で、強盗犯人が何日間も人々を人質にして立てこもったときに、人々が自分から強盗犯人に協力し始めたということから来ている。人質になっていた人たちは、救出に来た警察を妨害しようとし、後に裁判が行われたときも、犯人をかばう発言をしたりもしたそうだ。

虐待された被害者が加害者をかばうということは、この事件にかぎらず、実はよくあることだ。これは、生存の危機にさらされたときに、何とか生き延びていくために、自分の判断で反応することをやめてしまう心理メカニズムなのだ。人が従うように仕込むために、まさにこの心理メカニズムが使われている。それで、軍隊にしても学校にしても、従わない人間がある種の暴力をふるわれるということが、当たり前のように行われている。

ところで、3歳までくらいの子供は、大人が世話をしてくれなければ生きていけないので、ごく小さなことでも、生命の危機を感じてしまう。数日間かまわれないで一人にされただけで、子供は死の恐怖を感じるだろう。何度もそのような恐ろしい経験をした子供は、何かの折にその記憶が戻ってきて、無意識で大人の顔色をうかがうようになる。ちょっと不機嫌な顔をしたり、大きな声を出しただけで、何でも従うモードになってしまったりもする。

第二次世界大戦後、アメリカ式の子育てというものが流行して、子供はベビーベッドで一人で寝かせて、早くから個室を持たせるのがよいということになった。そうすれば、自立した子供になるという話だったのだけれど、実際にはその逆だった。繰り返し孤独の恐怖を経験しながら成長した子供は、自閉的になったり、自分に自信がなくて、人間関係が作れなくなったりした。この数年で、アメリカ中央情報局が、プロパガンダ戦略として、意識操作をさかんに行なっていたということが表に出てきたりしていたのだけれど、そうしたことから考えると、あのアメリカ式子育てなるものも、あるいはそうした策略によるものだったのかもしれない。

とにかくそうやって、自分に自信がなく、自分が好きなことをするよりも、他人の視線に合わせて考えたり行動したりする人が、戦後、社会の大部分を占めるようになっていったのだ。そうやって育った子供は、怒られたり虐待されたりしたら、自分が悪いからなのだと思い込む。加害者の視線で生きるように条件づけられているので、怒られたら抵抗するのではなく、行動をどう変えたら優しくしてもらえるのかという風に反応するのだ。

おそらくは、多くの人がそのように条件づけられていたからこそ、テレビで繰り返しあるメッセージを聞かされた結果、自分が見ている現実と違っているのにもかかわらず、固く信じ込んでしまって疑わないというような事態にもなったのだろう。メディアでは、いろいろな人が、マスクをしないのは社会にとって危険なことだ、というようなことを、断定口調で言っていた。多くの人たちは、こういう口調でものを言われると、加害者に従う心理モードのスイッチが入ってしまうのかもしれない。まさにその効果を期待しているかのように、一方的にものを言う口調、怒った口調で、そういう言葉が繰り返されていた。

権威主義的なスピの世界でも、まったく同じようなことがある。勧められたメソッドに効果がなかったり、それどころか害があったりしても、そうとは気づかない人が少なくないのだ。そもそも自分で効果があるかないかを判断したりしてはいけないことになっているようだ。しかも、多くの人は、自分が判断停止しているとも思っていなくて、自分の意志でやっていると思っている。

そういう人は、過去にかなりひどい虐待を経験している人も多い。まさにそのためにスピのヒーラーを求めて行くわけなのだけれど、そういう人たちを逆に追い詰めて、利用しているヒーラーがまた多い。そして、よくならないのは自分が悪いのだと思い込まされて、依存状態にされていることもよくある。それはまさに、虐待された経験と同じような状況を、引き寄せているようなものだ。

MKウルトラのサバイバーのように、子供のときにひどい虐待を受けて、自分の判断で動けなくなってしまった人たちは、長いプロセスを経て、自分の判断を信頼することを学んでいくのだけれど、その中でももっとも難しいのは、自分の親が自分を犠牲にしたということを認めることなのだそうだ。こういう人たちは、自分の判断を止めてしまう決断をしたときに、死の恐怖を経験している。判断を停止することによって、死の恐怖から救われるという経験をしてきたのだ。

だから、自分が虐待されたということを認めるのが、もっとも恐ろしい。実際、あまりにひどい虐待を受けてきた人は、その記憶が戻ってきただけで、恐怖のあまり過剰な反応を起こす。それくらいなら、自分が悪かったから虐待されたのだと思っていた方が、はるかに楽なのだ。

それほどではなくても、現代に生きる私たちは、ほとんど誰でも多かれ少なかれ虐待されるような経験をしていて、そのためにインナーチャイルドが人の判断で動くようになってしまっている。だから、インナーチャイルドを解放するセッションでは、その状態になっているインナーチャイルドを解き放って、再び自分の意志と判断とで行動できるようにするわけなのだ。

ほとんどの人のインナーチャイルドは、ある時点から小さく縮こまってしまったような状態になっている。だけどこのままでは、インナーチャイルドは恐怖の条件反射に従ってしまうので、自分から大きくなろうとはしない。だから最初にまず、安全に生きられるような環境を、意識上で作るわけなのだ。過去を書き換えて虐待がなかったことにしたり、幸せに育っていけるようなパラレルワールドを作ってみたりする。意識の領域でのヒーリングを知らない人は、こんなことで、何かになるのかと思うかもしれないけれど、やってみると、これがほとんど場合うまいこと効いてしまう。

安全に幸せに生きられる環境というのも存在するのだ、と思えたとき、ガチガチになっていた身体が緩んで、息が深く吸えるようになったりする。そうなったとき、虐待していた人もけっこうかわいそうな人だったんだなとか、こういうことは本当にあってはいけなかったんだなとか、自分が苦しんでいたのは自分のせいではなかったんだなとか、そういうことが自然に思えるようになっていたりする。その状態になっていたら、もう無意識に虐待されるような現実を引き寄せなくなるし、気づかないで自分の子供に同じような虐待をしてしまうこともなくなるだろう。

家族やまわりの人との関係だけではなく、世界を丸ごと変えないとどうしようもないというようなことも、かなり多い。そういうときは、これまでに一度もなかったような世界でも、これからできるから大丈夫だ、ということにして、インナーチャイルドに出てきてもらうのだ。そうしたケースが少なくないのも、おそらくは今、世界が本当に大きく変わろうとしているからなのだろう。数千年続いた支配と戦いの時代が終わって、多極的な水平的なネットワークで動いていく風の時代がすでに始まっているからなのだと思う。

私たちはこれまで、戦いと支配の時代に適応して生きていくような現実の設定で生きていた。だけど今、その設定がもう古くなってきていて、風の時代に生きる設定に変える必要があるのだと思う。だから、もう世界が丸ごと変わるから、もう虐待や支配のない世界になるからと、インナーチャイルドに説得して出てきてもらっても、それほど間違ってもいないのじゃないかと思う。

言うならば、今まで私たちは、ハイジャックされた飛行機に乗せられているようなものだったのだ。だから、ハイジャックした悪党たちに従うことで、何とか生き延びるゲームをやっていた。だけど、犯人が逮捕されて、飛行機から脱出したら、それまでの設定は書き換える必要がある。その時がもう来ているということなのかもしれない。だから、たとえ今、現実的にとうていあり得ないように思えていても、私たちのインナーチャイルドは、もう新しい世界を作っていこうとしているのかもしれないのだ。

2024年2月5日


ロシア連邦サハ共和国の子供たち


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【子供やインナーチャイルドはしつけるものなのか?】



この数年で、私たちが実際には、どのような支配システムの中で生きているのかということが、次々と表に出てきていた。それを見ていくと、学校制度というものが、そもそも支配に従う人間を育てるために作られていたということがわかってくる。

学校に行けるのは恵まれているとか、学校に行く子がまともだとか、そういうことが言われてきたのだけれど、本当に学校に行くのが子供にとっていいことなのかといったら、実はむしろ苦しみだったり、害でさえあることの方が多かったりもする。

学校の勉強が、いったい何の役に立つのかと疑問に思う人は、昔からいた。何で勉強するのかと真剣に尋ねる子供たちも、絶えることがない。いつかは何かの役に立つのだろうと思って勉強してきても、実際に人生で役に立った知識は、ほとんどなかったということの方が多いんじゃないかと思う。理科や社会で習ったことでも、のちに仕事で必要になる知識は、結局、学び直すことになったりする。語学とかは役に立ちはするけれど、多くの場合、どうしてあんなに面倒くさい勉強の仕方をしなければならなかったのかわからない、というような教わり方をしていることが多かったりする。

平安時代には、貴族が学ぶべき教養は、古事記と日本書紀を暗唱することだった。この二つは、大和朝廷の支配を正当化するために書かれた、かなりでっち上げの多い歴史の書だ。つまりはこういうものを暗唱して、信じさせるのが、勉強であり教養というものだったのだ。これは、今の学校教育でも、基本的にはあまり変わっていないような気がする。

つまり、国家に自分から従うような人間にすることが、教育というものの目的で、これがいいのか悪いのかは、国家が国民を幸せにする責任を果たしているのか、それとも搾取するために支配しているのかで、大きく違ってくると思う。そして、それによって、学校教育が子供にとって苦しみなのか楽しみなのかも、変わってくるはずだ。子供が学校で幸せにしている国は、国家が国民のためにちゃんと仕事をしている国だ。

教育の目的が、子供が人生に必要なことを学べるようにするということなのであれば、全員が同じカリキュラムに従って、同じように勉強するのは、ものすごく効率が悪い。それというのも、どういう内容のことがどれくらい必要なのかは、それぞれの子供によって大きく違うからだ。それなのに、誰もが同じことを同じくらいにできなければいけないかのように、子供に圧力をかけているというのが現実だ。これは、子供にとってストレスが大きいばかりでなく、均一な人間ばかり作り出すことになる。個性も多様性もないモノカルチャーのような社会を作り出せば、社会的なバランスも悪くなる。多様性を尊重し合うのではなくて、いつもドングリの背比べみたいに、争っているような世の中ができてしまうことになる。

権威主義的なスピの人たちは、潜在意識とかインナーチャイルドみたいなものを、まるで負の感情のゴミ箱か何かみたいに扱っていて、だから浄化してブロックを外さなければいけないのだという風に言っていたりする。これも、子供は均一に教育するべきだという学校教育の考え方と基本的に同じもののようだ。子供は大人がしつけて教育するべきものだと考えるのと同じように、インナーチャイルドはしつけるべきもので、顕在意識に従うようにするべきだというのだ。

こんな風にして、自分のインナーチャイルドを扱っていたら、学校教育に苦しめられている子供と同じように、自分は何ができないからとコンプレックスの塊のようになっていく。そして、どっちができる、どっちが偉い、とドングリの背比べみたいなことで、ギスギスした人間関係を作り出してしまうことになるだろう。そういう風にしている人たちは、それで進歩するはずだと思い込んでいるのだけれど、現実にはギスギスした状態ができていっていることに、気がついていないことが多い。

ところで、オルタナティブ・スクールなどでは、子供に勉強を強制せず、やりたいことをやらせていると、子供は自分に必要なことは自分からどんどん学んでいくのだそうだ。こういう風にして勉強した子供たちは、強制されていないので、劣等感や優越感で悩むこともなく、自然に調和する人間関係を作れたりする。それに、自分から興味を持って勉強したことなので、学校でいやいや勉強した子よりも、学んだことを役立てることができる。興味を持ったときに、知りたいことを知るために勉強しているので、ものすごい集中力で、短期間に覚えてしまう。だから、親にも子供にもストレスがないし、よほど効率よく学ぶことができる。

それを見ていると、子供というものは、実はものすごく自立的で、大人が思うよりもずっと賢く、学ぶ能力があるようだ。ところで、インナーチャイルドや潜在意識についても、これとまったく同じことが言える。インナーチャイルドとは、私たちの生命原理そのものでさえある。私たちの潜在意識は、私たちが意識しないところで、身体の健康をつねに絶妙なバランスで保ち、不快な体験や記憶を処理して癒やしたりもしている。潜在意識は、あらゆる記憶、あらゆる意識と境なく繋がっているので、宇宙のアカシックレコードのようなものとさえ繋がっている。そのすべての力を持っているのが、実は私たちのインナーチャイルドなのだ。

だから、インナーチャイルドは浄化するべきものでも、しつけるべきものでもない。インナーチャイルドがブロックを作っているのではなくて、私たちがインナーチャイルドをブロックしているのだ。子供を教育しなければいけないと思い込む代わりに、自由にさせておけば、子供が自分からどんどん学んでいくのと同じように、私たちがインナーチャイルドのブロックを外して、自由にさせれば、インナーチャイルドは自分からどんどん、私たちが望む状態を作り出していってくれる。それについては、インナーチャイルドの力は、まさに無限だ。宇宙のアカシックレコードまで繋がっているような意識なのだから。

フナでは、インナーチャイルドは有能な部下のように、信頼してまかせるのがいいと言っている。実際、インナーチャイルドは私たちが想像もできないようなことができてしまうので、いちいちああしろこうしろと言わない方がいいのだ。そんなことをしたら、結局私たちの限られた知識が知っている範囲でしか、インナーチャイルドは力を発揮しないことになる。だけど、信頼してまかせておいたら、まさかと思うような力を発揮する。これは、子供でも同じことだと思う。大人がああしろこうしろ、これはダメだと言わないでいると、子供はびっくりするようなことをやってのけてしまったりもする。

子供の教育でもスピでも、命令したり文句を言ったりすれば、向上するかのように思われているけれど、これはぜんぜん意味がないか、むしろ逆効果だ。何ができないと言って怒るとか、まったく何の意味もない。できるようにするのが目的なら、それよりどうやったらできるのかを教えるべきなのだ。よくあることだけれど、生徒がこれができないと言って怒ってばかりいる先生は、ちゃんと教えられていないことが多い。自分が教えられていないのを、生徒のせいにしているだけなのだ。

よく「ポジティブでいなさい」と言って、あなたはネガティブだからダメだとか責めているスピの人たちがいるけれど、ポジティブな気分になれと言われたからといって、ポジティブになるというものでもない。鬱々とした気分になっているときに、そんなことを言われたら、ポジティブになれないことにますます落ち込むだけのことだ。

誰かをポジティブな気分にしようと思うなら、そんなことで文句を言う代わりに、明るい気分になるような話でもするとか、ジョークの一つでも言って笑わせるとかしたほうが、よっぽど気が利いている。

教えられる先生というのは、生徒があることができなかったら、怒る代わりに、こうやってごらん、とやらせるものだ。教えられる先生ほど、そういうやり方を知っているから、生徒ができないことに悩むことがない。教えるとは、本来そのようなことだし、そのようなことであるべきだ。

ほとんど笑い話なのだけれど、「リラックスしなさい」と言って怒るスピの人がいる。怒られたら相手は緊張するから、ますます身体が緩まなくなる。それで、リラックスしようとして焦り、リラックスできないことに落ち込んで、自分はダメなのだと思い込んだりする。

人をリラックスさせたいなら、ちょっとしたバカ話でもするとか、簡単なイメージワークとか呼吸法とか、何かやればいいのにだ。そうしたことをやる代わりに、リラックスしろ、と命令するのだから、よほど技がないのか気が利かないのか、それとも単にストレスを発散しているのかのいずれかだ。

今、私がインナーチャイルドを解放しようとしているのも、おそらく世界が風の時代に入って、支配と争いが止まないピラミッド型ヒエラルキー構造の世界から、それぞれが自立して水平的なネットワークで調和していく世界に切り換わろうとしているからなのだろう。

ここにシフトするために必要なのは、インナーチャイルドを「浄化」するようなことではない。その無限の力を信頼して、ともに生きていこうとすることなのだ。

2024年2月6日


ロシアのサーミ族の子供



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