海外大学生活とは一体何だったのか
なんだったのだ
最近読んだLevy Honorという若いアメリカ人作家の本に、
って書いてあって、素敵な発想だなと思った。乱読にはこういうワクワクする出会いがあるからやめられない。こういうなんのお腹の足しにもならないことを考えるのが好き。先史時代を生きてた統合失調病の患者って、どんな妄想してたのかな。FBIやら政府のスパイの代わりに、喋るどんぐりとか陸を歩く魚とかについて一生懸命語ってたのか。それほぼシャーマンじゃん。グリンチの話にじっくりと耳を傾けてやりたい。意外と冷静で、クリスマスの商業主義化を危惧するマルクス主義者だったりするのかもしれない。
けれど、興味を惹かれた本を後伸ばしにできないで読み漁ってるから、在学中の成績はあまり振るわなかった。
大学を卒業するにあたって、そのコンピューターに『留学』という言葉を打ち込んだら、私にはどんな結果がヒットするのかしら。冷たい風に秋の葉が散り始めたことから時々考えたのだけれど、随分と怖いことだと思う。もっとクサくなって「恋」だとか「信念」だとか足踏みせずに検索できたのなら、生活の生々しさに怯えることなく四年間過ごせたのかな。
上手くいったことだけを書き連ねて、過ぎ去った時間のことを語ろうとすると私の文章はあまりに寒々しい。人前で札束を数えるくらいみっともない気がする。特に私の場合手元にあるのはいくつかの千円札だけなんだから。
もっとはっきり言うと、なりなかったものにはことごとくなれなかった。失敗の連続だった。ケルアックの小説みたいな粗悪でスリリングな生き方も、フィリップ・マーローみたいなクールで感傷的な生き方も、あんまり上手く行かなかった。それでもどうしてだか、卒業だけはなんとかできた。
つまづきながら、よろめきながら、それでも随分と遠くまでやってきた。本来なら4年間で4500万円以上かかるところを、合計67万円くらい払うだけで卒業できた。
みんなと同じように15歳でイキリ始めた頃から、どうせコケるなら外国でやりたいと思っていた。パリかニューヨークの煌びやかな街中でコケたら、それでだけでオシャレでなんだと信じ込んでいた。お金はなかったけど、なけなしの運で奨学金を頂けて、二年間もUWCに高校留学させてもらった。そこを卒業しても案の定お金はなかったし、親にせびるなんてしたくなかったから、一年間働いて学費をなんとか工面した。ここぞのところで頼りにならない運と、素晴らしい人たちのご恩のおかげで、ここまでやってこれた。
あれからもう五年近く経って、実際のところ、私は海のずっと向こうの方で、夜九時になれば店一つ空いていないようなド田舎の街で、擦り傷だらけで、手足は泥だらけになりながら、先日やっと区切りがついた。
とか大風呂敷を広げておきながら、別に映像化でもしようものなら、たまに見かける2分くらいの長さのチンケなCMと同じくらいの密度にしかならないんですけどね。悲劇でも、喜劇でも、ずっと演じ続けるのはやっぱし大変なのよねぇ。
昔みたいに大きな船で太平洋を渡ってたらば、船室の中で頭を冷やして自分を見つめる時間もたっぷりあったろうに、最近は、変な洋画をバカみたいに口開けて数本観てたら、どんなに遠く思えた異国の地にもあっさり着いてしまうから、一体自分がそこまでして何から逃げたがっていたのか、考える余地もなかった。あんまり一貫性で知られてる人間じゃないから、その度に私の恐怖の対象はコロコロ変わっていたと思うけれど。
確か、地元の街から奨学金を頂いた頃、何か大層なことを言い残さねばと、たまたま読み漁っていたセネカの書簡から、齧ったばっかりのあやふやなラテン語の知識で翻訳した一節を引用した。何に酔っていたのかすっかり分からない。
注意散漫な意志には満ち溢れていたけれど、案の定入れ物の器が小さいので、継ぎ足し続けなきゃいけなかったし、引きづられてばっかしだった。
中学生の時にあった『二分の一成人式』だったかしら。私はもう真っ赤な天狗で、すっかり調子に乗っていたから、「外交官になりたいです!」とか高々に宣言して保護者と同級生で満たされた体育館中から失笑を買ったの覚えてる。ひそひそ話してても、結構天井が高いから音はちゃんと響くんだぞ。
なんだか異国の地で高尚な人間と話し合うだけの簡単なお仕事だと勘違いしてたらしい。それを『スゴい人』のすることだと思っていた。実際は全く違う。24歳というのは母が私を産んだ歳。正直、今この有様で子どもを育てるなんて全く想像できない。あの人、働きながら女手一人で私と弟を育てたんですが、生きてて不自由なんてほとんどなかったので『スゴい人』とは意外に近くにいたものです。弟も、昔はグズの泣き虫だったけど、難病をお腹に抱えながら受験して、今は国立大医学部で首席はってるらしい。私の存在が陰るから是非やめてほしい。
ただそういう『スゴい人』たちからは遠ざかる四年間だった。
小説家になる予定だった。在学中に華々しいデビューを飾って、今頃はもう文壇で踏ん反りかえってるはずだった。実際はちょっと違った。ここで恥を捨てて私の脱線と変容のモンタージュを挿しこみたい。
2021年春『コロナで面白くなかった大学一年目。友達は多くなく、中原中也、賢治、ランボーあたりの天才詩人を一生懸命に崇拝し、全てを投げ打って感傷的な詩を書いてた本当に生産性のない謎の時期。人生二度目の厨二病。私生活のだらしなさが詩の才能を授けてくれると思ってた。カテゴリー分けすら値しないクズ。よくない。今思えば非常に恥ずかしい。』
2022年春『大学二年生。今度はフランス実存主義哲学に心底ハマり、哲学書片手に煙草ふかしてブラックコーヒーを啜ってればカミュみたいになれると思ってた不可解な時間。奨学金もらってる恵まれた立場なのに、倦怠と悲観をおもちゃにしてたブーブー言ってた頃。ショパンやらシューマンの音楽にどハマりし、書いた散文もあまりに感傷的で目も当てられない。これもまた同じくらい恥ずかしい。』
2022年秋『本気さえ出せば名作が湧くように書けると思い込んでたのに、実際に出来上がった小説はただのエピゴーネンに過ぎず、ちょっとシャレにならなかった憂鬱のあけぼの。アホみたいにクルトン作るのにハマってた。気を紛らわすように乱読しながら、凡庸さに駆け込んでた長い黄昏れ。』
2023年春『すっかり心を病み、休学して故郷に戻ってきた足踏みの時。地元で働いている人や、頑張ってる年下との交流を通して、いい意味で冷や水をかけられ反省し始めるとかいう、石川啄木の焼き直しみたいな経験の連続。精神の脱皮。煩悩の意識。限界の把握。』
今だってまあ、数年後に思い返せばイタいのだろうけど、そんなこと言ってたらキリがないし、このあとは比較的幸せにやってこれたけど、ちょっと文字に起こしたくない。心を苛ます辛い思い出は言葉にすることで理性化して成仏できる気がするけど、良い思い出って言葉にするとただのレポートみたいになっちゃうから、できればそっとしておきたい。あの無垢で幸福だった日々が過ぎ去った哀しみを歌えても、それ自体は言葉に起こしたくない。そういう曖昧な、なんだかぼんやりと素敵だった思い出の連続には何とも言えない美しさがある。現実にも乱用にも汚されることのない、あの日と同じだけの輝きと暖かさをいつになっても保ち続けるような追憶として、心の中に居場所を与えたい。
(別にこんなふわふわしたことばっかり考えて穀潰しとして生きてたわけじゃないんです。二年間、寮監督として働いたし、ギリシャ語、ラテン語、フランス語も習得して、一応『優』で卒論も通った。)
永遠とも思えた大学生活で私は一体何がしたかったのか。数え切れないくらいの色彩と、具合悪くなるような寒暖差があった。けばけばしい感情と音ひとつしない退屈が同居している場所で、わたしは成長というより変容してきたのだと思っている。周りの24歳児たちが普段から何を考えて生きているのか分からないし、どうせ比較に意味を見出せないのだから、人と比べて未熟だの進んでるだの、そういうダーウィニズム的発想は適切じゃない。でも、リベラルアーツで好きなことを端から端まで学びながら、自分自身を対象にしたありとあらゆる変化と実験の過程を許容してくれるペトリ皿としての居場所をくれた。専門の文学だけじゃなくて、舞台演劇の授業も面白くてなんだかんだ数年続けたし、環境化学や古代旅行史の授業もあったな。
これを外国でわざわざやる必要があったのか?
それに正確に答えるのは難しい。日本の大学にいたら、趣味にしろ都会の娯楽にしろ逃げ場がたくさんあっただろうから、思い詰めることもなかったと思う。東京にいると、あんまり考えずに過ごせてしまう。お金を使って消費することで、思考から逃げきることができてしまう。似たような人がたくさん見つかるのがよろしくないのかな。それか予後が芳しくなく、気持ち悪いイキリ方をしてた可能性だってある。まあ、結果論だからこれも仕方がない。ウォーターアンダーザブリッジ。
大学構内を散歩しながら色々考えていて、ここに書き留めるにふさわしいものはあまり多くないなと悟ったのだけど、一つだけいい方向に変わったのは、諦めがついたということ。自分の憧れる生き方と現実を生きる私との間に広がる虚無と仲直りできたこと。『諦観』という言葉、自分のために使うなら、決して悪いことだとは思わない
多分、ほとんどの人の頭の中では、あきらめるとは『放り投げること』だ。もう手の中にあるものにしろ、あるいは、未だ見ぬ遠くに光る何かにしろ、一度放り投げてしまうと、受取手がいないから悲しくなる。地面に落ちて、ガチャンと壊れて、あとは吹きさらしの中で朽ちてゆく。
私は、『元に戻ること』を放棄することだと思うようになった。きっと同じような主題を転調したようなものだけど、それでもわたしが自分でたどり着いたわたしの名札付きの結論だ。ウォン・カーウォイの『恋する惑星』って映画の中で、主人公が「いまどき世の中に賞味期限のないものなんて殆どない。」ってシニカルに嘆いてたけれど、確かにそう。にしても、いい映画だな。ああいう恋愛なんてありえるのかな。とかく、自分で必死こいて考え抜いたことだっていつかは腐ってダメになる。
でも、今の所、わたしはこういう考えをしている。膝を擦りむいても数週間後には何もなかったのように元に戻るけど、心の変化で同じことを期待するなんてありえないんじゃない?ある日ふとしたことで指を失ったり、目が見えなくなる感じ。傷口そのものは癒えるけれど、もう元には戻らないものがある。
きっと運が良くて、90%くらい元に戻ればいい方だ。残りの10%はきまって二度と戻らない。それだけのことを受け入れるのに自分は随分と遠回りしてしまった。
心が萎れてしまっても、音楽を聴いたら悲しみは完全に癒えると思ってた。枯れることのない泉のように、元の瑞々しさを補い続けられると思っていた。どれだけ辛い挫折を味わっても、ぐっすり寝さえすれば、また次の日から全力を出せると思っていた。ある日思い浮かんだ美しい比喩も、またいくらでも湧いてくるのだと思っていた。その全てが等しく間違っている。そんな気がする。
そうやって全てがちょっとずつズレてゆく。随分と長い間、自分の人生のことをあたかも自分のペットみたいに扱ってきた。わたしの現在のところの結論は、『人生は、私だけのものじゃない。』ということだ。
犬みたいに飼い育てるものじゃない。手塩にかけて育ててたら、同じくらいの暖かさでほほ笑み返してくれると思ってた。私が微笑んだのなら、同じくらいの希望に満ちた眼差しで見つめ返してくれると思っていた。ちょっとくらい上手くいかなくても、躾さえすれば自分の思い通りにことが運ぶと思っていた。私が変わってしまったら、一体誰が私の人生の面倒を見るの?
多分、違うんだ、知らんけど。そういう考え方をしていると、わたしは自分を支えきれなかった。だから、きっと人生は大きな海みたいなもので、私たちはそこにじゃぶじゃぶ浸かって参加しているだけだ。
チェーホフの劇『かもめ』は擦り切れるほど読んだ。劇とか書いてみたいと思うけど、だいたい私に思い浮かぶものはこの人が既に書き尽くしてる。現代人も楽じゃない。ソーニャがさりげなく呟くセリフは私のお気に入り。
だから、「わたしの人生、どうやって生きよう」じゃなくて、「わたしの時間を何に使おう」って尋ねるようになる。だから2025年はアンナ・カレーニナを読んで、そのことをしっかり考えたい。誰のため、なんのために生きよう。
上手くいかなくたって、しょうがない。人間は月を歩いたけれど、未だにそこらの海であっさり溺れるんだ。大事なのは、浮かび続けること。生活はいつも苦しいけれど、泳ぎ続ければそのうち潮の流れが変わる。また新しい岸が見えてくる。そういう風に積み重なった変化のことを、私は諦観と呼ぶ。
だから、自分の中で変わらなかったこと、もっと言えば、どんな波にも変えさせられなかったこと、すなわち『what they could not change about me.』について人はもっと話すべきだ。いいことも、悪いことも。
わたしは、小説家になる夢をどうしても諦めきれなかった。私は『美しいもの』を創造したいという欲望がある。誰かのために立つものは、全て美しいものだ。自分の内側に焼きついたこの憧れは、もう元には戻らないものだ。そうなってしまったんだからしょうがない。だから、夏からアメリカで一年くらい(もっと長くなるかしら)働きながら執筆を続けることにした。書きたいことが溜まっている。ドルで貯金もできてwin-winだ。日本で就職だってできるけど、sometimes money costs too much、って誰かも言ってた。お金のためにまだ全てを犠牲にはしたくない。だから、あんまり感傷に身を傾けないで、一緒に未来について話そうよ。
もう2025年だってさ。早いね。新しい年では台湾に行く。もっと山に登る。もっと本を読む。もっと旅に出る。小説をも三つは書きたいな。俯きがちな姿勢も少しずつ直したい。
その気持ちわかるよ、朔太郎さん。
初めてアメリカに飛んだ日のこと、わたしと地面の間には300フィートの朝焼けが揺らめいて、飛行機の窓から見える、その下でキラキラと宝石のように光っていたテキサス郊外の区画を未だに覚えている。天秤で重さを測って何かと交換できそうなくらい美しかった。それよりもっと昔、イギリスの高校を卒業した午後、真っ青な星みたいな海の反対側には、ウェールズの瑞々しい草原がどこまでも広がっていて、白い雲と羊たちがふわふわそこに浮いていた。
この冬はデンバーに住む友人の家で、クリスマスを過ごした。ロッキー山脈にかかる角砂糖みたいな色をした雪。険しい山肌がはっきり見える。耳と鼻はもう凍ってしまっている。高校生だった時には、コロラドの山奥で北風に震えながら過ごしているなんて想像もできなかったはずだ。
日本へと帰る飛行機の中で、その全てを私は同時に、等しく思い出していた。窓の外へと目をやる。あらゆる顔と、声と、匂いと、色とが私をすっかり征服して、どこにも属さない空にひとり浮かび上がらせていた。キャンパスの樫の木の黒みがかった緑色、小麦畑の黄金色、誰もいない小屋、晴れた空の丘の色、紫がかった口紅の色、溶けそうにもない雪の色、その全てがゆっくりと混ざり合いながら、互いに輪郭をぼやかしながら、どんどんと下の方へ遠ざかって、やがて分厚い雲の中に見えなくなった。不思議ともう、悲しくはなかった。全部がもう、永遠に、過ぎ去ったのだった。
蛇が尻尾を噛んで環は閉じられたのです。故郷に帰って、新しい夢を見ながら新しい生活をする時間です。足のつかない未来は怖いけれど、星たちの声より朗らかに、街燈の明かりより静かに前を向いて暮らせれば幸せです。哀しいけれどお別れです。今のわたしは、四年の年月の間に出会った全てのわたしを赦します。さようなら。さようなら。