見出し画像

高校世界史 中国 ~漢の時代~

こんにちは!Chihiroです。
高校中国史~漢の時代~の授業を、
ストーリーを大事にしながら振り返りたいと思います。
ぜひ最後までお付き合いください😊


有名な、項羽こうう)と劉邦りゅうほう)の話。
(これについてはまた別のところで深めることにする。)
ここでとりあえず進めるとすれば、
秦が滅びたあと、この二人の将軍が支配をめぐって争い合い、
結果として劉邦が勝利を収めた、ということを押さえておきたい。
その劉邦がつくった、大国のものがたり。

漢の成立

紀元前202年に成立した漢。
1代将軍は、もちろんあの劉邦である。
国の統治方法について、
※1郡県制にすれば、秦の二の舞。
しかし※2封建制にしておけば、支配者の権力を維持しにくい。
劉邦がとったのは、まさにその中間であった。
         ※1郡県制:本土を郡、さらに細かく県に分け、
              中央集権的に実質支配を行うこと。
          (詳しくは前回の投稿~秦の時代~をご覧ください^^)

         ※2封建制:土地の支配権を分与することにより
              主従関係を形成する点を特徴とする制度。

都の周りは、秦に倣って郡県制を採用。
その周辺は、民衆の反乱を避けるために封建制を採用。
漢はこの2つを巧みに使い分けつつ、
じわりじわりと郡県制のエリアを拡大していった。
これに気づいたのは、
その当時封建制が残りつつ
周りのエリアが統制されてゆく様を目の当たりにしていた、
である。
この2か国プラス7つの小国が結束して抵抗を見せた。
これを呉楚七国の乱ごそしちこく--らん)という。

しかし結果として、彼らは漢に勝てなかった。
この呉楚七国の乱を境に、漢全土は統治され
実質郡国制となった。
6代将軍景帝のころの出来事である。

7代将軍武帝の政策①<外交編>

つぎの帝、武帝が政治についたころには
漢は一通り統制され、
国としての基盤がはっきりとしたものになっていた。

ここで武帝がとったのは、
つまるところの、外交政策であった。
ターゲットは北方の遊牧民、匈奴である。
匈奴は漢にとって、いつ攻めてくるかのわからない
未知の脅威であった。
しかしやはり、武帝は裸足で針上を歩きはしない。
かつて匈奴によって部族が全滅し
土地を移してなんとか生活を立て直している部族、
大月氏だいげつし)がいた。
武帝は彼らとタッグを組む話を持ち掛けるため、
部下の1人である張騫ちょうけん)に、その命令を出した。

部下を引き連れ大月氏を目指した張騫であったが、
道の途中でなんと匈奴につかまってしまった。
漢の北方は砂漠。
オアシスをつなぐようにして行くには、
彼らの生活圏と重なることは仕方のないことであった。

それでも何とか殺されることなく、
奴隷同然で労働力として働き、
家庭もこさえたようだ。
そうして10年が過ぎたころ、
匈奴の間でちょっとした内もめが起きた。
張騫はこのすきを見て妻子とともに逃げ出した。

そんな彼の向かう先は、大月氏である…!
正義感にあふれた彼は、10年もの時がたってもなお、
帝の命令を忘れてはいなかった。
数々の困難を乗り越えついに、
張騫大月氏のもとにたどり着いた。

さて、気になる大月氏の答えは…?
と、この続きは、次回の投稿にまわすことにします。

最後まで読んでいただいた皆様、ありがとうございました^^









この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?