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「詫び菓子」を知らない私

楽しい鼎談を終え、にこやかに別れてから、詫び菓子も知らないような生き方は大人としてどうなのだろうと悩んだ。未熟ではあるまいか。

『詫び菓子』千早茜

千早茜さんのエッセイ『詫び菓子』の一文だ。

このエッセイを読んだとき、「ああ、私と一緒だ」とほっとしたような、泣きたくなるような、胸をぎゅうっと掴まれるような共感を感じた。

私も「詫び菓子を持参して謝罪する」という経験がない。職種や仕事の内容的に社外の方とのやりとりが少ないということもあるが、準じた経験が1つくらいあってもいいのではないか、と思う。

詫び菓子が登場するようなピンチに陥ったことがない、という点は私の中のコンプレックスだ。活躍されている方は数多のピンチを乗り越えてきている。どうにもならない、行き詰まった状況をどうにかこうにか、ときには「謝罪」という一点のみで、乗り越えてきた人は強いし深い。

同時に、私のことで誰かに謝らせてしまっているはず、という負目もある。ずっと組織の中で働いてきた。大なり小なり誰かが、多くの場合上司が、私の代わりに謝罪していることがあるはずだ。

だが、こういう系統のことは、直接的に同じことでお返しするのは難しいというのもわかっている。私が上司の代わりに謝罪したとしてお返しになるのだろうか。そんはずはない。

自分が謝罪せねばならない状況を作らないこと、そして一緒に働くメンバーもそんな状況にならないようにすること、ゴールを目指して懸命に働くこと、そういうことでしか恩は返していけないのだと思う。

「圧倒的ピンチに陥ったことがない」ことが本当にコンプレックスなのか。いや違う。「圧倒的ピンチに陥る可能性があるチャレンジをしていない」ことがコンプレックスなのだ。圧倒的ピンチというのはリスクをとっているからこそ起こるのだ、チャレンジをしていないのでは、サボっているのでは、という気持ちがこのコンプレックスを産んでいる気がする。

そう考えるとチャレンジはしているし、サボってもいないと思うし、「成功させたい」という気持ちでやっている。その結果うまくいっているのであれば、それはそれでいいじゃないか。これからだっていくらでもチャレンジしていける。

これからもチャレンジし続ける人生でありたいと思いつつ、詫び菓子とは無縁でありたいと私も願っている。

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