
「わからない」が楽しい
私は「わからないことをやる」のが楽しい。とても好きだ。仕事でも、やったことがないタスクに「やりたい」と手を挙げることが多い。
周りの人からは「チャレンジ精神がある」と言ってもらえることがある。自分自身では正直そう思ったことはあまりなく、「好きだからやっている」という気持ちが大きい。
なぜ好きなのか。それは「わかるからこそ面白く感じる」と思っているからだ。
小学3年生か4年生の頃。私の周りには一輪車ブームがやってきた。我が家にも中古で買った一輪車があり、学校から帰ったら毎日練習していた。手すりを掴みながら漕ぐ、ということはできても、そこから手を離して乗れるようになるまでが大変だった。
何度も手を離そうとして失敗した。その度に「つまらない」という気持ちでいっぱいになる。イメージはできているのに思い通りには進まないものだ。想像の何倍も難しい。
しかし、同時に「できないのだからつまらなくて当然だ。乗れたら楽しいんだからそこまでは絶対やる」と子供ながらに思っていた記憶がある。大変ストイックである。
実際に乗れるようになった瞬間、私の心は達成感で溢れた。この達成感がたまらないのだ。
勉強も同じだ。なんだかよく分からない問題があったとき、答えを見て「ふむふむ」と終わるときよりも、そこから時間をかけて用語の意味や途中式などの細部を一つずつ理解して積み重ねた方が格段に理解が進む。
この理解が積み上がっている最中がとても楽しい。自分が「理解できている」という実感が湧くからからだ。急にあれもこれも繋がって「ということはさっきのところはこういうことか!」と急に腹落ちする瞬間がある。
こうやって理解を積み重ねられると、世界が広がる。解ける問題が格段に増えるのだ。解けないより解ける方が面白い。
何より今のこの私を作ってきたのは「わかるようになるからこそ面白いという経験をたくさんしてきた」ということだ。
「わからないこと」があったとき、「一つずつ積み重ねればわかるようになる時がくる」ということをもうわかっている。そして、「その先に楽しさが待っている」ということもわかっている。
やったことがないタスクに手を挙げるというのは不安がある。別に平気で手を手を挙げているわけではない。できるなら、安全な道を選びたい。でも、今この「やったことがないタスク」に手を挙げれば、来週には「やったことがあるタスク」になっている。このことを知っているから、手を挙げるのだ。
大人になるにつれて自分がわかっている範囲でことを進められるようになる。それはこれまで積み重ねてきたことの証でもある。ただ、私は「わからない」ことをまだまだやりたい。できればわからないことに手を挙げ続ける人生でありたいと思っている。