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トイレ掃除を放棄してみるという実験。


人には、言葉ではどうにも伝えられない、「感覚」というものがある。それは、言葉にするものという認識もないぐらい自分に染み込んだ「普通」。

結婚して6年経つが、夫と一緒に暮らしていると幾度となくこの「感覚の違い」に出くわす。
例えば、味噌汁の具にじゃがいもは入れないでしょ。とか、ご飯の前にお菓子を食べるなんて信じられない!とか、些細かもしれないけど、そんなこと。

最初は、ひとつひとつに驚いたし、お互い受け入れることができなくて、衝突したこともあった。しかし最近はもう阿吽の呼吸、というのか、言われずともなんとなく夫の感覚を理解できている自分がいる。


仮説を立てて実験をしてみる

最近、印象的な出来事があった。
ある日、私はハッ!と気づいたのだ。
トイレ掃除をするのは、いつも私だということに。

結婚前は一人暮らしをしていた夫。一通りの家事はできるし、マメな方だと思う。日々の家事も、分量としては私の方が多めだけれど、気づいた方がやる、というスタンスで掃除も料理も2人でやっている。

それなのに一緒に暮らして6年、特に担当を決めているわけでもないのに、トイレだけはほとんど私しか掃除してないじゃないか...。

ちょっと不服に思った私は、トイレ掃除を放棄してみることにした。私がトイレ掃除をしなければ、夫はもしかして汚さに耐えられなくなって自分で掃除するんじゃないか、という仮説を立てた。そう、これは実験。

仮説通りにいくのか、ちょっとわくわくしながらトイレ掃除を放棄してみる。待っているうちにだんだん汚くなるトイレを見て、私は何度も何度も「もう掃除しちゃおうか」と思った。非常に苦しい実験だ。忍耐が必要。

しかし、待てど暮らせど夫にトイレを掃除する気配はない。もう耐えられなくなった私は、ついトイレを掃除してしまった...!実験失敗である。


新しい感覚との出会い

私は、夫に聞いてみた。
「最近トイレ掃除していないってことに気付いてた...?夫氏はどこまでいったら耐えられなくなって自分で掃除するんだろうと思って、あえてトイレ掃除をしないっていう実験をしてたの。でも私がもう汚いのに耐えられなくなって、結局掃除しちゃった!」

すると、「ごめん!気づいてた!汚くなってるなあ、とは思ってたんだけど、一定の汚さまでいったらもう汚くならないかなと思って...」と夫は言った。

???

汚れは一定までいったらもう汚くならないものなの?新たな感覚に出会った。
そして夫が、この汚さに耐えられるんだということに感覚の違いも感じた。夫と私の「耐えられない」の範囲には違いがあるみたいだ。

でも、ふと思った。
汚さの許容範囲が広い人の方が、どこでも生きていけそうだし、生命力が強そうで、なんかかっこいいかもしれないな、と。

私の方が綺麗好きではあるんだろうけど、逆にいえば「汚い」に対して夫より不寛容ということなわけで。どこでも生きていく力、という観点でいったら夫の方が優れているんだな、と。

しかし私はやっぱり、トイレは綺麗であって欲しい。その方が毎日清々しい心で過ごせる気がする。トイレには神様がいるのかもしれないし。
これはもう完全に私の「感覚」なんだけれど。
そしてこの自分の感覚に従うと、やっぱりトイレ掃除をするのは私だな、となる。


どちらの感覚が正しい、ではないんだよなあ。


夫と暮らし始めたころは、感覚の違いに出くわす度によく、「どちらが正しいのか」「どちらにあわせるのか」みたいなことで衝突した。

けれども一緒に暮らし始めて6年。
そういう場面に出くわす度に話し合い、相手の感覚を知っていくうちに、否定するでもなく、合わせるでもなく、もはや丸ごと受け入れることができるようになってきた。

そうなってきてからは、自分と違う夫の感覚を見つけることがちょっと楽しくなった気がする。もちろん、まだまだイラっとくることもあるのだけれど。

夫と私は異なる感覚を持つ。そして私たちから生まれた息子も、また異なる感覚を持ってるんだろうなあ、と思う。

共同生活をおくる家族3人。

お互いの感覚を否定せず、受け入れつつ、うまいこと生活していきたいなあ、と思う。



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