私という生命体は
最近、とある本で読んだこと。人間の体のひとつの細胞内に数百から数千個存在するというミトコンドリアについて。
ミトコンドリアは、呼吸で得た酸素や食べ物から得た栄養素を使って人体のエネルギー産生を行っているそうなのだけど、その起源は、かつてヒトの細胞ができる過程で、その細胞に寄生、共生進化した原核生物だと考えられているそう。
人体の細胞が60兆個とか37兆個とか言われていることを考えると、ミトコンドリアはもはや天文学的な数、私の中に存在することになる。
腸内細菌だって人体の細胞の数よりも多いと言われている。
「私」と思っているこの体、ひとつの生命だと思っているこの体は、多数の生命を内包していて、いわゆる「私」という単独の生命体はないような気がしてくる。
私はミトコンドリアや腸内細菌なしでは生きられない。私は自分の意志で生きているようで、実は体内の、私とは別の生きものたちに動かされているのかもしれない。
私も、私の中に暮らす生き物たちも、地球も地球上の生き物たちも、結局みんな地続きで、区切ることはできない気がする。
どこかで歪みが起きれば、まわりまわって自分にも歪みが起きる。
私たちは、小さな畑でいろんな野菜を育てる。私たちが世話をして得た実りを、大地と、虫や鳥、動物と分け合う。そうすればみんな生きることができる。
育てた野菜は食べきらずに、一部残して種を採る。その種をまけばまた来年も野菜が育つ。それを繰り返すことで、私たちも野菜も、ともに生き続けられる。
私たちは鶏を育てて卵を分けてもらう。健やかに育った野菜や草を食べて大地を走り回る健やかな鶏は、健やかな卵を産む。鶏のフンは大地に還る。
もし仮に私が実りを独り占めしたら、食いっぱぐれたみんなは死んで、野菜も種を残せずに来年芽吹くことなく、鶏も檻に閉じ込められてやせぎすで病弱、卵もあまり産めずに私に食べられて、私のまわりの生き物が絶えたら、私もその年しか生きられない。私が生きられるのはみんなが生きているからだといえる。
「ともに生きましょう。」未来へのヒントは実はそんなシンプルなメッセージにあるのかもしれない。それはなにも畑に限ったことではなくて、日常の中でも道標になりうる。目先のことだけでなく、その後ろに隠れているものを想像する。ともに生きるための選択を。