
雷の刻印【全8話】 7.雷の魔女と黒猫
私はこの間までそこらへんを歩いているただの黒猫だった。
ある日、私は見つけたネズミを追いかけて、森の奥深くに迷い込んでしまった。やがてたどり着いたのは見上げるほどにそびえたつ古くて立派な屋敷だった。
こわごわ足を踏み入れた黒猫の私を屋敷の若い女主人は見つけると嬉しそうにつぶやいた。
「なんて見事な毛並みの黒猫でしょう。そうよ。この子にしましょう。この子に決めたわ」
そう言ってかわいらしい笑顔を向け、私を抱き上げた。あとで知ったのだが、この女は魔女だった。
彼女のそばで控えていた妙に影の薄い男が彼女に尋ねた。
「イコル様、今度はこの黒猫に心を与えるのですね?」
イコルとよばれた若い魔女は私を優しく撫でてから言った。
「ええ。ここに迷い込んできたのも何かの縁。一緒に過ごすことに決めました。魔女は心を見失いやすいもの。そして私にはわかる。この子はとても賢いわ。心の慰めになり、私の良心としてこの猫はきっと私を導いてくれるでしょう。お前には特別な命を与えるわ。仲良くして頂戴ね」
私は何か呪文を唱えられると、私の体内で何かが光った。
その瞬間から私は人の心を与えられ、「考える」ということがどんなことなのかわかるようになった。
これも後で知ったことなのだが、魔女というものは、自分の進むべき道を客観的に知るために時折自分の良心を切り取り、他の動物に植え付けて導き手にするのだそうだ。
以前、良心を植え付けたオウムが鷹に襲われて行方不明になったため、代わりの動物を探していた時に彼女は私と出会ったのだ。
そうやって私は人の心と「レゾン」という名を与えられ、屋敷に住み着き、イコルと新しい生活を始めた。
屋敷にはイコルの他には、あの影の薄い侍従がいるだけだった。
侍従はひどく無表情で感情を出すこともなく、必要なことのみを淡々と話した。
おそらく人間の形をしてはいるけれど、ただ彼女の命令を忠実に聞くように作られた中身のない存在だったのだろうと私は思った。
人間の心を与えられてから私は文字を読めるようになり、屋敷の本を読むようになった。
イコルの図書室はたくさんの蔵書が天井まで届く本棚に収められていて、古臭い独特の紙の香りが部屋中に広がっている場所だった。
本を読むことが、なんて楽しいことなのだろうと思った。
人間の中にはあまり本を読まないものもいるらしいが、なんてもったいないことだろうと私は思っていた。私は時間があれば、イコルの図書室を居場所にして、本を読み漁るようになった。
たくさんの本を読むうち知ったのだが、魔女というものは悪害をもたらすものが多いそうだ。
けれど彼女は違っているようだった。見た感じも本に出てくる魔女たちの禍々しさはなかったし、清楚で町の女とあまり違っているようには思えなかった。
魔法の中でも、風の種類を好み、特に得意にしていたのは雷で、空に向けて雷を撃ち、天候を自由自在に操った。
イコルは天候が不安定なこの森の自然の営みを守り、世の中の人に豊かさを与えるにはどうしたらいいのか、いつも考えていた。
日照りが続けば雨を降らし、寒さが続けばなるべく暖かさが戻るように心を配っていた。
彼女が空に向かって一心不乱に雷を撃ち続ける姿は傍目で見ていても神々しささえ感じるほど美しかった。どちらかというと、本に出てくる精霊という存在に近いのではないかと私は考えていた。
雷使いの魔女、ということ以外、一緒に生活を始める前の彼女のことを私は知らない。
若く美しく見えたが、本当はいくつなのかもわからなかった。そして私は本当に「良心」として特別な存在なのか、他の猫と比べて賢いのか、正直わからなかった。「良心」としての役割がなんなのかもわからなかった。
イコルは夜になると暖炉の前で私を膝に乗せ、背中を撫でながら、その日あった出来事を話すのが日課だった。
なでてくれる手の感触や、安心したような声色をきくたびに、彼女が私に心を許し、私を心のよりどころにしてくれているのがよくわかった。
イコルは世の中の大体のことを大きな水晶玉で知り、大きな庭のある、屋敷から出ることもほとんどなく、長い時間を私と過ごした。
穏やかで、静かで、おそらくこれが人間のいう「幸せ」なのだろうと私は思っていた。
◇ ◇ ◇ ◇
ある日、私が森の中で獲物になりそうな野リスでもいないかと歩き回っていた時のことだった。
太陽に反射して、何かが光った。
近くに寄ってみると、銀色の立派な鎧に身を包んだ男が大木の下で倒れていた。
鎧は肩の部分が壊れていて、そこに矢が一本突き刺さっていた。どうやら息はあるようだ。
私は急いでイコルを呼びに行き、男は侍従によって屋敷に運び込まれた。
兜を外してみると見事な金髪の長い髪と端正な顔をしたきれいな青い瞳の男の顔が現れた。
矢には毒が塗ってあったようで、男は私が見つけなければそのまま死んでいただろう。
イコルと侍従は交替でその男を看病しはじめた。看病の甲斐あって、男は何日か後に目を覚まし、自分は首都ターニアで衛兵をしているフェンデルという者だと名乗った。
「敵を追っていたのですが矢に当たり、どうやら崖から落ちて、助けを求める途中でここに迷い込んだようです。助けてくださりありがとうございました。私はすぐに帰らなくては……」
礼儀正しく誠実そうなフェンデルはそう言って動こうとしたが、すぐにうめき声をあげて顔をしかめた。
「まだ動いてはなりません。ここにはどんなに長く滞在しても構いませんから、どうか傷を治すことをまずは第一にお考えください」
イコルは心配そうに言い、フェンデルを再びベッドに静かに横たわらせた。
それからというもの、イコルは甲斐甲斐しくフェンデルの世話をするようになった。
フェンデルはあちこち旅に出ることも多く、しかも博学だったので、イコルは彼の話を自ら聞きたがった。
フェンデルが少し動けるようになると、屋敷の中央にある自慢の庭園にイコルが誘い、二人で散歩することも多くなった。
やがてイコルはフェンデルの前だと私が見たことのない表情を見せるようになった。かわいらしい女性というのはあんな顔になるものなのだろうか。
頬を染め、いつもフェンデルのことを目で追っている。そうしてイコルはフェンデルのそばにいる時間が少しずつ長くなっていった。フェンデルに夢中だったので私がイコルに構ってもらう時間は少なくなっていたけれど、毎晩必ず私を膝にのせて、うれしそうにフェンデルの話をしてくれた。
「ねえ、レゾン。あの方は私のことをかわいいと思ってくださるかしら?」
「あの方の笑顔をいつも見ていたいとどうしても思ってしまうの。ずっとずっとそばにいたい。そう思うことは罪かしら?」
そんな風に、私に話しているときの彼女は魔女ではなく、ただの恋する女性になっていた。
毎日同じような話によく飽きないものだと私はあくびをしながら聞いていたが、イコルがあんまり幸せそうなので退屈でも、穏やかなやさしい日々はいいもんだなと密かに思っていた。
しかし……
フェンデルの傷が癒えてきて、歩けるようになり二人が庭園を散歩しているときのことだった。突然、フェンデルが言った。
「ご迷惑をおかけしましたが、歩けるようになりましたので、明日ターニアに帰ります。このご恩は必ずお返しします。ありがとうございました」
「え……。そんな……」
フェンデルが帰ってしまうなど、イコルは想像もしていなかったのだろう。驚き、戸惑った後、必死に引き留めた。
「まだ傷は完治していないではありませんか。あなたさえ望めばずっとここにいてくださっていいのですよ。何もあなたに不自由はかけません」
するとフェンデルは少し照れたような顔になってから言った。
「いえ……私は帰らねばならないのです。私を待っていてくれる婚約者がいるのです。私のことをきっと心配しているに違いない。早く帰って安心させてやらねば……」
婚約者のことをイコルは初めて聞いたのだろう。その場で彼女は凍りついていた。帰ることがうれしいのか、フェンデルは婚約者の話や、いつ結婚をする予定なのかなどをペラペラと話しだした。
フェンデルはいつも礼儀正しく、特にイコルに思わせぶりな態度をしたことはなかった。
イコルだけが彼に思いを一方的に募らせてしまったのだろう。
誠実だけれどこの鈍感な男はイコルの気持ちには全く気が付いていなかったようで、話し終わると明日の旅支度をすると言って一礼し、部屋に戻っていった。
その姿を見送ったあと、イコルは寝室へと逃げるように走って行った。
心配になった私はイコルを追いかけ、寝室に入ると、彼女がベッドで泣き崩れている姿が目に入った。
「あの人が……あの人が行ってしまう……」
彼女の嘆き悲しむ姿は見ている私でも切ないくらいだった。
(そうか……そんなに悲しむほどお前はあの男に惹かれていたのか……)
どう慰めていいのかわからない私はイコルに寄り添い、彼女の頬を伝う涙をそっと舐めてやるしかできなかった。
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