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ホシヲキクモノ【全9話】 8.N.Yにて

 ロイは誰もいない廊下のベンチに座り込み、頭を抱えていた。ここの静けさとは反対に、一本先にある廊下からは、ストレッチャーを運ぶ音や、人の叫び声が聞こえてきて、耳を塞ぎたくなるほどの喧騒が続いていた。

「空いている病室はないか?」
「ドクターはどこに行ったの?」
「また救急患者が到着します。約十分後です!」

 まるで戦場だ……。ロイはそう思った。
 
 ここはニューヨークの私立病院だ。

 昔は総合病院だったが、今は市の依頼でアーテムウイルス患者専用病院になっている。時々、廊下越しに見えるドクターや看護師はみな防護服をつけて忙しそうに動き回っている。そんな中でロイだけがTシャツにジーンズでいるのは、どう見ても違和感があった。
 コツコツと足音が近づいてきた。防護服に身を包んでいても、それがルースであることは、長年の付き合いでロイにはすぐにわかった。

「ルース、ばあちゃんは?」

 近所に住む看護師のルースはロイの祖母の友人で、小さな頃から親のいないロイを自分の子供のようにかわいがってくれた。祖母の異変をいち早く見つけて病院に運んでくれたのも、ルースがいてくれたからだ。
 
「まだ眠ってるわ。あんたはもう帰りなさい。いくらアーテムの抗体保有者だとしても、ここにいてもあんたは何にもできないのよ。もう何日も寝てないでしょ、少し休みなさい。」

「でも……俺のせいでばあちゃんはアーテムにかかったんだ……俺のせいで……」

 ロイは感染拡大の初期、アーテムウイルスを軽視していた。友人たちと夜通しパーティーをしていたあの頃、彼らは誰一人としてマスクをしていなかった。「ただの風邪だ」と笑い飛ばし、密閉された部屋で大声で話し、歌い、飲んだ。そして、ウイルスに感染したのだ。症状は軽かったが、検査を受けると陽性反応が出た。しかし、彼はそれを深刻に受け止めなかった。

 祖母のルシカが咳をし始めたのは、ロイがウイルスを持ち帰ってから数日後のことだった。彼は祖母と同じ家に住んでおり、食事も共にしていた。ルシカはロイのために大好きなアップルパイを焼いてくれて、彼はそれを心から楽しんだ。まさか、自分がウイルスを持ち込んでいるとは夢にも思わずに。
「ルース、ばあちゃんにうつしてしまったのは俺なんだ。マスクもせずに遊び回り、家でも大騒ぎして……」
 ルースは隣に腰掛けると、防護服で包んだ手を静かにロイの手に置いた。

「あんたが責任を感じているのはわかるわ。これだけアーテムが流行っているのにマスクもしないで遊び回り、あげくの果てに感染してるのも知らずに町でも家でも大騒ぎした。それでルシカが感染してしまった。確かに自慢できる行動じゃなかったわね」

「ばあちゃんはたった一人の肉親なんだ。ばあちゃんがいなくなったら…俺は……」

「自分を責めるのはもうやめなさい。自分を責めるくらいなら、祈りなさい」

「祈る?」

「そうよ。ルシカのことだけじゃなく、ここの病院で苦しんでいる人たち、いえ、世界全体で苦しんでいる人たちのことも考えて祈りなさい。人の祈りってね、すごいものなのよ。本当にパワーが宿るのよ。そしてね……」

ルースは言葉を止め、防護服越しに真剣な表情で続けた。
「人のために祈っている間、その人自身が、きっと救われるから」

 ルースは気休めに言ったのかもしれない。けれど職歴三十年のベテラン看護師の口から出た言葉には妙に説得力があった。

 そのとき、ルースのポケットからPHSが鳴り響いた。
 「今行きます」とルースは答えてから、ロイの肩に手を置いた。

「とにかく、少し眠りなさい。あんたが倒れても、ここにはもうベッドはないのよ」

 ルースが行ってしまったあと、やはり帰る気にはなれなかったロイはどうやらベンチでぼんやり、自分のしたことを思い出していた。彼が無謀な行動をしていたことが、今となっては痛切にわかった。

 アーテムが流行り始めてから、感染予防だと言って多くの人たちがマスクをつけた。この国ではマスクをするのはよほどの重病人でないとつけていなかった。
「かっこ悪っ」「ダサいよな」「若者はかかってもたいした症状でないんだろ。あんなの風邪だよ」
 友人たちは、そう言ってマスクをすることを拒否した。ロイの頭の中に祖母の姿がよぎらなかったわけではないが、本当に、ただの風邪の一種だと思っていたのも確かだ。だから、祖母がいきなり咳こんで、高熱を出したときには、面食らった。

 検査の結果、祖母がアーテムに感染していることがわかった。一緒に検査したロイが抗体を持っていたため、限られた範囲でしか活動しない祖母が感染したのはロイ経由だということがほぼ確定した。
 病院で、防護服なしで待っている間、まるで処刑台に立っているような気分になった。防護服を着ていない、つまり、お前から感染したのだろう、すれ違う防護服を着た医療関係者の目がそう言っている気がした。

 医療関係者たちは、止まること無く、ずっと動き回っている。
 
 ずっとだ。
 ロイが見る限り、眠っていない者もいるだろう。
 病院での待機中、ロイは防護服を着た医療スタッフが次々と疲れた表情で廊下を歩くのを目にした。彼らの中には、アーテムウイルスの対策に追われ、家族とも会えずにいる者も多いという話をルースから聞いていた。
 
 ロイの定位置となったこの場所の一つ先にある硬いベンチは仮眠する看護師のベッドでもあった。代わる代わるやってきては横たわり、すぐに熟睡していく。
 なのに、搬送されてくる患者は途切れない。
 来る日も来る日も、同じようにアーテムの患者がやってくる。医療関係者の熱意と努力を目の前でみると、頭が下がる。
 
 ずっと病院で待機しているロイにしょっちゅう話しかけてくれるルースも、何日も家に帰っていないようだった。
 「この人たちは、命を懸けて戦っているんだ」と、ロイは改めて感じた。

「俺は馬鹿だった。こんなに命をかけてアーテムと戦ってくれている人がいるのに……。わざわざ感染を広げるようなことをして……。大切なばあちゃんにまでうつしてしまった……」

 ルースに言われたこともあって、ロイは一度、家に帰ることにした。

 その途中、ルースの「祈り」という言葉が頭にあったのか、ロイは普段は素通りする教会の前で足を止めた。

 街にある、古い由緒ある教会の十字架は荘厳に、堂々と天に向かって大きく伸びていた。
 感染防止のため、教会の中に入ることは許されないのだろう。多くの人たちが教会の外から祈りを捧げている。

 その一人一人に神父が、わざわざ外に出てきて丁寧に声をかけている。寝不足でふらふらしているロイも、吸い込まれるように、目立たない端の方から教会の十字架に祈り始めた。

「どうか、神様、ばあちゃんを助けてください。あの病院にいるみんなを……どうか助けてください……」

 長い間、神に祈ったことなどなかった。

 ロイは祈りながら、ふと思い出した。
 幼い頃、祖母が夜寝る前に必ず手を合わせて祈っていた姿を。
 ロイが「何を祈っているの?」と尋ねると、祖母は優しく微笑んで「皆が幸せでありますように」と答えた。
 その光景が、今でもロイの心に残っていた。
 
 祈る言葉すら忘れていたのに、いざとなると人間なんて現金なものだと祈りながらロイは自分のことをあざ笑った。

 周囲を見まわしてみると、みんな真剣に手を組み、祈りを捧げている。年老いた紳士も、若い女性も、小さな子供たちも。
 
「熱心に祈られていますね」

 顔を上げると神父がロイを見下ろしていた。意外なことにロイより、少し年上の若い神父だった。
「なあ……神父さん。祈るって、効果があるの?」

 我ながら子供のようなバカげた質問だと思った。けれど若い神父はロイの言葉を馬鹿にすることもなく微笑んで言った。
「あなたは信者ではないようなので、神の話ではなく、人の話をしましょう。祈ることは効果ではありません。祈ることは多くの人の心がやがて一つになっていくことです。一人ではできないこと。だけどそれが二人ならできることもある。もっと大勢だったら?そう考えてみてはどうでしょう。人間はすばらしい可能性を秘めていると私は信じています」

 そう言うと、神父はロイの肩にやさしく手を置き、隣にいる老人に声をかけにいった。

 大切な人のために。この世界のために。
 
 自分にできることはなんだろうか。祈ること以外にできることは無いのか。みんなが、人間が一つの目標に心を合わせたら。家路につく間、ロイはずっと考えていた。

 病院に戻ると、ロイの姿を見つけたルースが慌てた様子で駆け寄ってきた。祖母に何かあったのかと、身構えたが、防護服から見えるルースの表情は明るかった。

 「ロイ、ルシカが目を覚ましたわ。もう大丈夫よ」

 病室に通されると、人工呼吸器をつけた祖母がロイの方を向き、手を伸ばしてきた。伸ばしてきた手をロイは自分の両手でしっかりと握った。

 祖母の手は、ごつごつして骨ばっていて、お世辞にもきれいとは言えなかった。

 けれど、ロイはこの手がどんなに素晴らしいか知っている。

 ロイの大好物をたくさん作ってくれた手。
 繕い物をしてくれた手。
 両親が欲しいと泣いたときに頭をなでてくれた手。

 大切な、ロイのとても大切な人の手だ。
 
「ばあちゃん……。ごめんよ。俺がばあちゃんにうつしたせいで……こんな目にあわせて」
 
  思わず、涙がこぼれてしまう。大人になってから泣いたのは初めてだ。祖母は静かに首を振った。

 「だい……じょうぶ……」

「ロイ、ルシカが疲れてしまうわ、あとはこちらで診るから」
 ルースに促されて病室を出るとき、祖母が呼吸器の下で微笑んでいるのが見えた。
「なんで、急に容態がよくなったの?昨日まで意識不明だったのに」
 
「アーテムに効く新薬が開発されたの。その薬がまず、この病院に回ってきて、昨日ルシカにも投与されたのよ。すばらしい効き目だわ。人間の力ってすごいわね。ワクチンも開発されたそうよ。この薬やワクチンのおかげで助かる人がきっと大勢いる。アーテムのトンネルから、きっと抜け出せるわ」
 
「祈りが……通じたのか……」
 
 一気に気が抜けたロイはおもわずつぶやいた。ホッとしたのか、やっと周囲が見えてきた。

 気が付くと、廊下で、たくさんの泣いている人たちがいる。

 抱き合って喜びあっている。ほとんどが安堵の涙のようだ。
 
「そうよ。祈りは通じるものなのよ。そう信じるから、人間ってすばらしいんじゃないの」
 
 いつものように豪快に笑い、ルースはロイの背中をバシバシとたたくと、病棟へと戻っていった。

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