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富田ララフネ『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』の感想と、日付のない日記について

 富田ララフネ『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』を読んだ。タイトルが長い。とても面白かったので感想を書きます。

 この本の語り手である「私」は、小島信夫の『寓話』という長い小説を読んでいる。他にもいろいろな本を読んでいる。読みながら「長い小説を読むことと生活との関係のこと」について考え、考えながら日々を過ごしている。

 重要なのはこの「関係」の中身が実際どのようなものだったかということで、そしてこれを詳らかにするためには、どうしても長い言葉が必要だった。というか世にあるあらゆる小説が長くなったのもそういう理由のために違いなかったし、そもそも詳らかにするということは個別のものについて具合的にふれていくことだから、言葉の数が多くなるのは必然的なことだった。
 私はこれから、私の個別具体的なことを駆り集めて、長い小説を読むことと生活との関係の話をしようと思う。

『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』
富田ララフネ

 こうして「私」の日々の記述が始まるのだけど、その日々は「私」の妻・Qの妊娠期間とほぼ一致している。季節が少しづつ移りゆき、Qのお腹が大きくなっていく。この規則正しく一方向に過ぎていく時間の流れのなかで、「私」は小島信夫の話をしようと試みつつ、目の前の出来事に気を取られたり、過去の出来事を思い出したりする。不可逆的な時の流れの中で、「私」の語りは縦横無尽に過去と現在を行きつ戻りつして、忘れかけた頃にまた小島信夫に戻ってくる。文章形式としては日記にとてもよく似ている。

 日記とはつまり、記憶の記録だ。あえて記憶を記録することで、その記録が記憶に影響を与え、その影響された記憶が今の自分に影響を与えるというような、時間のレイヤーを幾重にも通過して相互作用を及ぼすところに日記を書くことのダイナミズムがある。そういう意味で、この『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』(長い)は非常に日記的な作品だと言える。

 この作品を日記的だと思うのには、ごく個人的な理由もある。作者の富田ララフネさんとは、日記屋 月日の「日記をつける三ヶ月」ワークショップで知り合った。三ヶ月間、十五人ほどの参加メンバーに向けて日記を公開し、お互いの日記を読み合うという試みで、この三ヶ月が終わった後もわたしは日記をつけ続け、富田氏もつけ続けている。他の十五人ほどのメンバーも含め、そういう関係がもう一年以上続いている。

 つまりわたしはこの一年以上、ほぼリアルタイムで富田氏の日記を読み続けているわけで、この作品が富田氏の普段つけている日記と切っても切り離せない関係にあることを知っている。そういう事情があるので個人的にはもうどうしたってこの『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』(長いって)を日記として読んでしまう。

 この作品と富田氏の日記の「切っても切り離せない関係」とはつまり、この作品の中で流れる時間のテンポが、富田氏が日記を書くことによって規定されたものだということだ。日記とエッセイを分けるものは「日付があるかどうか」ではない。日付は全然本質じゃない。この「日記を書くという行為によって規定された時間の流れ」があるかどうかだ。要は「日々の記憶と記録を重ねているか」ということだと思う。

 それでも、この『小島信夫の話をしたいのだけれど 長い小説を読むことが生活に与える影響についてのレポート』(長いよー)が日記なのかどうかと言われれば、それはやはり違うのだと思う。日記から文学が立ちのぼる状態を維持した何か、であって、その文学の要素をこの作品に持ち込んでいるのは、「Q」という人物の存在感だ。行きつ戻りつしてばかりの「私」の思考の流れにリアルな時間の流れを持ち込んでいるのが「Q」であり、今後は「Q」の産んだ新生児が、そのリアルな流れを持ち込み介入する存在になるのだろうと思う。

 というわけで大変楽しく読んだし、続編が書かれるのならぜひ読んでみたい。小島信夫に興味があるかどうかはともかく、日記本を読むのが好きな人にぜひオススメしたいです。

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