日記ワークショップ最終週、そして文フリへ…【2024.01.20~2024.01.26の日記

2024年1月20日(土)

 天気のすっきりしない土曜の朝。曇り空だけど公園へ散歩に行こう!と思ってニット帽をかぶりコートを着込んで外に出たら、思い切り雨が降っていた。傘を差しながら散歩するほど散歩への熱意があるわけではないし、きっとこんな天気では公園に来ている犬も少ないだろう。というわけで本日の散歩は玄関の前までで終了とする。途中で見かけた犬の数、0。

 コーヒーを飲みながら、日記ワークショップ最終回のために「自分が好きな一日」の日記を選定する作業に入る。結局、ある程度まで絞ったところで何もわからなくなり、夫にいくつか読んでもらってアドバイスをもらうことにする。夫がいないと、ひとりでは好きな日記すら決められないわたくし。結果、「自分が好きな一日」ではなく、「自分が好きな(ものについて大いに語った)一日」の日記を選ぶことになった。いざ選んでしまうと、もうこれしかないよね、という気になるから不思議だ。あんなに悩んでいたのにね。

2024年1月21日(日)

 ワークショップメンバーRさんの呼びかけにわたしが乗る形で急遽立ち上がった「品川でボルダリングをやろうの会」の当日。前日の夜はワクワクしすぎて眠れませんでしたね。品川駅港南口にあるお花屋さんの前で、Rさん、Kさんを待つ。

 ちょうど花屋の店員さんがシフト交代のタイミングだったらしく、すごく個性あるおしゃれをした男性が店内から出てきて、他のスタッフからお疲れさま~と言われていた。その人は帰りがけに、他のスタッフさんの前でくるりと一回転してみせて「どうですか? 後ろ、汚れがついておりませんでしょうか?」と聞いていた。ちょっとユニークなしゃべり方の人だなあと思っていたら、そのあと「ではお疲れさまでございました、よいお年を~」と言って駅の方向に軽やかに去っていった。

 いまこのタイミングで「よいお年を」?? 面白すぎたのでKさんかRさんが来たら絶対話そうと思ったのに、いざKさんがやってきたら普通に「ちょうど雨やんでよかったですね~」と当たり障りのない会話をしている自分がいた。日記に書いたら面白いだろうな、ということと、人に話したら面白いだろうな、ということの間には微妙にズレがあって、この花屋の店員さんの話は明らかに前者だった。

 ボルダリングはめちゃめちゃ楽しかった。わたしがボルダリングで特に好きなところは、トライ&エラーをいくらでも(体力の続く限りは)繰り返せることと、自分の進歩が目に見えて実感できるところ。大人になると、わかりやすく成長すること(しかも肉体的に)ってそうそうないし、トライ&エラーを繰り返すにはなんらかのリスクが伴うようになる。でもボルダリングだと、「さっきは届かなかったホールドに手が届いた!」みたいなわかりやすい成長がたくさんあって、達成感があるので嬉しい。大の大人が必死になって登っているのを、わあわあ騒ぎながら応援するのも楽しい。おふたりとも、とてもいい表情をされていました。

 登り終えて品川駅へバスで戻りつつ、ワークショップメンバーTさんと合流するというミッションに挑む。この、LINEも電話番号も知らない状態で「だいたいこのくらいの時間に品川のあたりで会おう」とフワッとした約束をするのが、すごく新鮮だった。駅の伝言板にメッセージを書き残していた時代、伝書鳩で手紙を送り合っていた時代に近い手探り感があった。幸い、Tさんはメッセージにすぐ気づいてくれた上に、「お店の電話予約ができなかったから、先に行って席を取っておいてほしいナ」というわたしの調子良すぎる無茶振りに完璧に応えてくれた。本当にありがとうございました。お店の中でTさんに会えたときは心から嬉しかった。「本当に会えたね!!」という謎の感動があった。

 Tさんがこの日の昼間に会っていたお友達の話をしていたとき、Rさんが「その人は、新しいお友達?」という聞き方をしていた。「新しいお友達」は、通常は「最近親しくなったばかりの人」という意味だけれど、ここでRさんが意味したのは「Tさんの日記にまだ登場していない、初めて出てくる人?」ということだ。それをTさんが瞬時に察して「そう、新しい友達です」と答えていたのが面白かった。本当はつき合いの長い、とても親しいお友達だそうなので、全然「新しい友達」ではないのだけど、日記だけを通してつながっている我々の会話の中では、その人は「新しい友達」ということになる。

 家に帰ったら、夫が外出先で手袋の片方をなくしてしまったらしく、カバンをひっくり返して懸命に探していた。手袋は見つからなかった。夫は、手袋をひとりきりにしてしまった……かわいそうな手袋……と、残された片方の手袋にしきりに同情し、落ち込んでいた。

2024年1月22日(月)

 朝起きた瞬間、頭の中に短歌が浮かんでいた。忘れないように布団の中でスマホにメモしておく。メモしたのはこんな文字列だった。

愛、をかけ 愛を、かけ 愛をかけ、して育てゆく

 目覚めた瞬間は、やば……寝ながら短歌を思いついてしまった……新たな才能の開花かも……とテンションが上がっていたんだけど、脳みそが目覚めてから冷静になって見てみたら、ぜんぜん短歌にも俳句にもなっていなかった。詩ですらない。なんだこの文字列は。

 何より読点の位置が妙だ。短歌って、句読点は入れていいのだっけ?と思って調べてみる。一応OKらしい。せっかくだからこれを短歌にしてみようと思い立つ。まずは手っ取り早く、五七五のリズムに整えてみる。読点は妙なのでいったん取ることにする。

愛をかけ愛をかけして育てゆく

 ここでふと考える。作者(つまりわたし)が愛をかけて育てているものは、いったい何だろう? わたしは子どももいないし、ペットも飼っていない。夫には愛をかけているつもりだけど特に育てているわけではない。とここまで考えて思いつく、わかった、筋肉だ。筋肉を育てているんだわこれ。筋肉にとって、負荷は愛だ。そう作者は言いたいんだよね。ははーん、わかっちゃった。というわけで下の句はこうじゃ。

愛をかけ愛をかけして育てゆくわたしの前腕伸筋群

 前腕伸筋群は物を握るときに使う筋肉のはずなので、これは頑張ってボルダリングをしているときの情景を歌った歌ですね。うん、わかるわかる~。でも、ちょっと収まりが良すぎて別に面白くはないね。読点があったほうがよかったな。…というくだらないことを考えていたら午後になっていた。

2024年1月23日(火)

 いい天気の火曜日。朝、ゴミを出しに行くついでに公園へ散歩に行く。北風に向かって歩くので、目に冷たい風が直接入り込んで来て眼球が寒い。思わず目をつぶる。公園の歩道は広くまっすぐで、そばを歩く人もいないので、目をつぶったまましばらく歩いてみる。まっすぐに歩いているつもりなのに、目を開けてみるとけっこう曲がっている。歩道の端から少しはみ出していたので、慌てて舗装された道に戻る。ただまっすぐに10歩くらい歩くだけでも、普段は視覚の力にだいぶ頼っていることがわかる。

 以前、家の中で目をつぶって、その場で大きく足踏みを50回する、というのをやったことがある。その場で足踏みをしていただけなのに、目を開けると身体の向きが変わっていて、30cmくらい前に進んでいたので、思わず笑ってしまうほど驚いたことがある。身体が歪んでいることの証左だそうです。

 公園の梅園は、もう半数近くの梅が花をつけている。この日は大きな望遠レンズをつけたカメラと三脚を持って、写真を撮っている人がいた。いち早く咲き始めた一歳(いっさい)という白梅は、早くも散り始めていた。途中で見かけた犬の数、13。

 最近ずっと、ワークショップの皆さんの日記を再読する、というのをやっている。正直に言って、皆さんの日記を読み直すのは、自分の日記を読み直すより何倍も学びがある。というか、自分の日記は読み直しても何にもならない。読み直した感想は「無」でしかない。何を書いても、結局自分の中から出てきたものだから、発見とかは別にない。自分は自分でしかないからつまらない。他人のほうがずっと面白い。だから自分の日記と向き合うのから逃げている。

 皆さんの日記を読み直しているのには、そういう逃避行為としての面もある。でも、その逃避行為をしている最中に、自分や自分の日記について考え直すときもあるから面白いなあと思う。これが、皆さんの日記が学びになるという意味です。Dさんの日記を読んで、自分の文章の書き方を客観的に眺めてみたり、Wさんの日記を読んで、自分の人生を振り返ったりしている。私の日記の書き方も、皆さんの日記から学んだことを受けて、少しは変わってきているかもしれない。

 こういう相互作用は、昔に読んだミランダ・ジュライのドキュメンタリー小説『あなたを選んでくれるもの』を思い出す。ミランダ・ジュライは映画監督だけど小説も書いており、わたしはこの人の映画を観たことがないくせに、小説は愛読している。わたしの中でジュライは、映画監督というより才能あふれる作家だ。『あなたを選んでくれるもの』は、ノンフィクションのインタビュー集という形式を取っているので、厳密には小説ではない。でも私は小説として読んでいる。ジュライの映画ができるまでの、悩みと困難を乗り越える過程を描いた小説。

 本の冒頭で、ジュライは新作の脚本を書いていて、完全に煮詰まっている。執筆作業から逃避するために、地域の情報誌に住民が投稿する「売ります・買います」の広告欄を熱心に読んでいる。そこで面白そうなものを売ろうとしている人をピックアップして、インタビューをしにいく。これは完全に、進まない脚本からの逃避行為としておこなわれるのだけど、そこでさまざまな人に出会っていく中で、ジュライの中に変化が訪れる。自分の人生や自分自身についての認識が少しだけ変化し、その変化は制作中の脚本にも反映される。映画の内容がどんどん変化していき、最終的にジュライは、インタビューの中で出会った人を、重要な役柄としてキャスティングし、映画に出演してもらうことにする。その人の家も撮影現場として使わせてもらう。そういう、奇跡のような過程を綴ったドキュメンタリーで、わたしの大好きな作品だ。

 わたしは皆さんの日記を読むことで、このときジュライの身に起きた奇跡のようなものを起こしたいんだと思う。生身の他人に触れることで、自分に生まれる変化を観察してみたい。だから毎日、ただでさえ長い日記に、長々と皆さんの日記を読んだ感想を書いているんだと思う。ジュライのように、変化を起こして前に進むために。

2024年1月24日(水)

 朝、ポケモンスリープでメタモンというキャラクターを仲間に引き入れることに成功する。このメタモンというやつは、画面上で何度か見かけてはいたのだけど、仲間にすることができたのは今回が初めてなので嬉しい。わたしの場合、ポケモンのキャラクターとの最初の出会いはつねに寝顔なのだけど、メタモンはいつも石に変身した姿で寝ている。「いしにへんしん寝」と寝方に名前がついている。今回、仲間にしたことで初めて石に変身していないオリジナルの姿を見ることができた。ぷよぷよしていてかわいい。でも石に変身して寝ている姿のほうがもっとかわいいので、できればいつも石に変身していてほしい。

 数日前に夫がなくした手袋の片方が、横浜市営バスの車内から見つかったと連絡が入る。夫、喜んで在宅勤務のお昼休みを利用して、市営バスの営業所まで手袋を取りに行く。数日ぶりに手袋(右手)と手袋(左手)が再会し、夫、とても嬉しそう。再会を祝し、手袋はしばらくリビングに飾られていた。

 午後から図書館に行く。ワークショップメンバーTさんが読んでいたマーク・フォーサイズ『酔っぱらいの歴史』があまりに面白そうなので、予約していたのだ。無事手に入れて、まだイントロダクションしか読んでいないがすでに面白い。

 酔っぱらうことはほぼ普遍的なことである。世界のほぼすべての文化に酒がある。例外的に酒にあまり熱心ではないふたつの文化――北米とオーストラリア――は、酒に熱心な人々が入植してできたものだ。そして時代ごとに、場所ごとに、酔うことは違った意味を持つ。それは祝福であり、儀式であり、人を殴る口実であり、決断方法であり、契約の締結であり、ほかにも何千もの独特な目的で用いられてきた。古代ペルシア人は、重大な政治的決断を行なうにあたっては二度話し合った。一度は酔っぱらって、もう一度はしらふで。二度とも同じ結論に至った場合、行動に移した。

『酔っぱらいの歴史』マーク・フォーサイズ 著

 古代ペルシア人の場合、大切な問題を二度話し合うとして、最初に酔っぱらって話し合い、後からしらふで話し合ったのだろうか。それとも最初はしらふで話し合って、改めて酔っぱらってからまた話し合ったのだろうか。この書き方だと何となく前者という気がするけれど、どちらを先にするかで結論が変わってきそうだ。

2024年1月25日(木)

 相変わらず、ニュージーランドのロイヤルアルバトロス飼育センターのライブカメラを熱心に観ているのだけど、いつもカメラに映っているアホウドリ(個体名:LGL)さんの卵から、ついにヒナが誕生した。

これは飼育センターのスタッフさんがまとめてくれた「本日のハイライト映像」よりスクリーンキャプチャしています

 モフモフしていてとてもかわいい。LGLさんの目つきも、心なしか嬉しそうに見えますね。ヒナが生まれたことで、ライブカメラの視聴者数もぐっと増えた。普段はまだ、ヒナは母鳥のお腹の下にいるので、ライブカメラでは姿が見えない。ときどき母鳥が立ち上がると、ヒナの様子が見えたりするらしい。その一瞬が見たくて、みんなライブカメラを見ているのかもしれない。

 アホウドリのヒナ誕生にテンションが上がったけれど、この日は朝からいまいち元気のない日だった。洗濯物を干し終えて日記を更新したところで、すべてのやる気を失ってしまった。本当はボルダリングジムに行く予定だったのだけど、すべてをあきらめてソファに寝転がり、一日を無駄に過ごすことにする。ソファからはベランダがよく見える。空は青く、昼間の日差しがさっき干した洗濯物に降り注いでいて、わたしの気持ちは地の底に沈んでいる。

 気持ちが沈んでいるのはたぶん、この日記ワークショップが終わってしまうからだ。ワークショップが終わっても日記は書き続けられるけれど、日記に熱中するという、現実逃避するための大義名分を失ってしまう。いままで日記に注いでいたエネルギーと時間を、嫌でも自分の人生のほうに向けなければならなくなる。いつまでも無職ではいられないし……と思ったけど、それは嘘だ。別にわたしには養うべき家族はいない。夫は夫で自立した大人だし、わたしが堕落してこの世から消え去ったところで誰も困らない。子どもがいないのは自由でいいね、とよく言われる。それは本当にそうだし、その自由さに救われているけれど、逆に言うと死ぬのさえ自由だ。どこまでも堕ちていける怖さがある。

 気持ちがダークサイドに引っ張られそうになる。無の表情で𝕏をダラダラと繰り続けていると、姫路文学館というところの企画展のポスターが目に入る。2月から、作家の木山捷平展をやるらしく、ポスターには作家本人の筆跡と思われる字で

「駄目も目である しょうへい」

と書いてある。木山捷平は囲碁が好きだったらしく、この「駄目」も囲碁の目の話らしいのだけど、でも「わたし、ダメ人間だな……」とどこまでも落ち込んでいけそうなこの日のわたしには、なんだか響く言葉だった。ひらがなで書かれた「しょうへい」のサインも味わいがあっていい。

 それでなんとなく、作家の長嶋有さんが以前に座右の銘として挙げられていた言葉「邪道もまた道」を思い出す。わたしはこの言葉がとても好き。正道を歩いていける人生だったらよかったけれど、そうも行かなかった、でもそれはそれで立派な道だよね、という優しさを感じる。むしろ正道も邪道も関係ねえ、道は等しく道である、俺の歩いた道こそが、俺にとっての正道だ、という矜持のようなものも感じる。

2024年1月26日(金)

 数日前から、夫がしきりにマーマー言い始めた。これはDuolingoの話です。夫は以前からDuolingoでドイツ語とスペイン語を勉強している。先日、中国の取引先の人たちが来日して、数日にわたり会食をして以来、中国語にも興味が出てきたらしい。それでDuolingoで中国語の勉強を始めたんだけど、まずはピンインというものを習得する必要があるので、その練習を熱心にしている。マーには5種類のマーがあり、その5種類を聞き取って、発音できるようにならないと先に進めない。というわけでやたらとマーマー言っている。朝からマーマー、在宅勤務の休憩中にマーマー、夕飯を食べ終えるとマーマー、寝る前にベッドでマーマー、一日中マーマー言っている。わたしには全部同じマーにしか聞こえないのだが、夫も似たようなもののようで、しょっちゅうDuolingoからダメ出しを食らっている。中国語版のDuolingoは、ドイツ語やスペイン語に比べて、だいぶ発音に厳しい気がする。

 そんな夫を誘って、お昼に公園に散歩に行く。近所のパン屋が出張販売に来ているので、そこでパンを買う。メロンパンとアールグレークロワッサンとおかきパン。メロンパンのスコーンも買った。これは後日おやつとして食べる。買ったパンを持って梅園に行き、だいぶ咲き始めた梅を見ながらお昼にする。昔は梅より桜が好きだったけれど、いまは梅もかなり好きだ。枝っぷりに情緒があるし、香りもいい。桜ほど主張しすぎないところもいい。途中で見かけた犬の数、18。

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