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エピローグ


―――あれから一度も夢を見ることはなかった―――――

陽が落ちるとまだ風が効いてくる、そんな黄昏時。長谷部は、故郷・・と呼べるほど遠くに住んでいるわけではないが、慣れ親しんだ街角に降り立った。小走りで駅前ロータリーから南へ突き進むと、目的地が見える頃には身体が温まっていた。馴染みのない黄色い看板が、小さいながらも、新しい事もあってか堂々と掲げられているように見える。そんな居酒屋の入り口の前に立って深呼吸し、息を整えた。
あれから何度も終点から終点へ、目を閉じては往復した。しかし、『続き』は始まらなかった。長谷部はそれでも、忘れないように、毎日就寝前にはあの瞬間の記憶を思い描く。そうしなければ、本当は何もなかったと、認めてしまうことになるからだ。そう思ってこの数日は過ぎていった。
ようやく顔を上げ、ドアに手をかけた。中から漏れる雑音が、熱気と共に溢れ出してくる。店内に入り、辺りを見渡すが、誰も長谷部の存在には気がついていないようだ。
「ふう。」
それでいい、授業中の教室に入った瞬間の、あの視線は大の苦手だ。屋内に目をやると、中は意外と広かったが、集められた1クラスが収容されるには、少しばかり手狭である。ざっと見たところ20人程度なものか。ここから途中参加で更に数人来たとしたらかなり混みあいそうだな、と長谷部は思った。右側、そして奥には座敷席が繋がっており、クラスの中心人物たちが大いに場を盛り上げていた。その中にはもちろん幹事である岡の姿も存在している。まあ、これくらいのキツキツさが、当時の空気を懐かしむには丁度いい密度なのかもしれない。左手にキッチンがあり、その周りをL字に囲むようにして、カウンター席が6席だけ設けられている。そこには、座敷に上がることなく一人だけカウンターに腰かけた田中がいた。同窓会だというのに、チビチビと一人でやっている。相変わらず変わったやつだ。しかしそれでも、誘われたら参加はする、という姿勢を長谷部は嫌いではなかった。
「おう、久しぶりだな。」
田中の隣の椅子に長谷部は座り、カウンターで横並びになった。振り向かないと、みんなの様子が見えない位置取りに、思わずニヤけてしまった。
「ああ、長谷部も来たか。」
そう言うと田中は、一人でつまんでいたマグロの刺身が乗った皿を長谷部の前にスライドさせた。長方形で半透明な、ちょっと洒落た食器である。
「サンキュ。はは、せっかくの同窓会で独りかよ。」
醤油を直接マグロに垂らし、ほおばった。やはり居酒屋に刺身ってやつは安定だ。
「この眺める感じが良いんだ。皆の声が大きいからここに座ってるだけで状況は耳に入ってくる。」
「な、なんつー楽しみかたよ・・。」
これだよこれ、この一線を画した感じ。長谷部は心の中でホッとしていた。こいつに変わりはない。
と、早くも出来上がっている座敷の連中からキッチンの方へ目を移すと、そこに小田島の姿を確認した。どうやら父の手伝いをしているのか、酒を運んでいる最中のようであった。長谷部が手を振ろうとしたその瞬間、
「気の毒にな。同窓会で家事手伝いかよ、ハハハハハ。」
気がつけば真後ろに岡がいた。少し顔は赤らみ、絶好調だ。
「ふっ、そんなこと言ってやんなよ。せっかく場所提供してもらってんだから。」
長谷部はフォローしたつもりだったが、露骨に口角を上げている。せっせと運ぶ小田島のその姿は誰が見ても滑稽だ。
「お前も笑ってんじゃねえかよ!・・おっとナマ追加よろしく!」
明らかに忙しそうな小田島に向かって無慈悲にも追加オーダーを強行した岡は悪魔そのものであった。流石にこれには普段笑わない田中も息が漏れている。そこに、
「ちょっと岡くん、あんまこき使っちゃダメだって。」
性格の悪い男3人に、首を突っ込んできた林、学級委員長が呆れた顔で注意してきた。
「隣いい?」
林が割り込んだので田中は一番隅の席にずれた。田中、林、長谷部、岡の横並びでカウンター席、L字の直線は埋まった。気がつけば結局、慣れ親しんだメンバーとしか喋らない。同窓会なんてそんなものだ。
「また長谷部遅れたの?休日出勤?」
林に悪気はないのだろうが、少々毒舌に感じた長谷部は苦笑いして首を横に振った。
「いや、休み休み、それに予定あったら仕事なんていかねえだろ。」
自然とそんな返しをした気がするのだが、林はきょとんとしていた。
「へー、なんか前合った時より長谷部らしいね。土曜だから?はは。」
「なんじゃそりゃ。」
ぶっきらぼうにそう答えた長谷部は最後の刺身一切れを口に放りこんだ。
「スーツを脱ぐと強気なんだからー、やだねー長谷部ちゃんは。」
岡は完全に酔っぱらっているようだ。長谷部は口をもぐもぐさせながら、
「いやいやいや、というかさ、なんかもう自分に嘘はつきたくないというかー・・まあいっか。」
まだシラフの長谷部は、言いかけてやめた。まあ、今日は楽しければ良い。それに・・・。
「それよりさ、林、最近どんな絵描いてるの?」
「はい?」
長谷部は話題を変えるついでに、気になってたことを聞いた。林は一瞬、その大きな目を見開くも、すぐいつもの調子で答えるが、
「あー、そうねー・・最近はあんまりかな。色々忙しくって。」
こんな歯切れの悪い返事をきくと、長らく絵から遠ざかっているのは感じられた。
「おいおい、毎日5時ダッシュなんだろ?どこが忙しいんだよ?なあ終電マン長谷部くん?」
岡はニヤニヤしながら林に嫌味を言った。いや、嫌味を言われているのは長谷部の方か。
「あのねー岡くん・・。」
林が困ったような声で突っ込むが声に力がない。
「まあまあ。でもさ、せっかくだしたまには久しぶりに描いてみたらいいじゃん。好きだったろ?絵描くの。」
自分でも少し押し付けがましいな、と思いつつ、長谷部は思ってることをそのまま口にした。すると、
「んー・・・長谷部の方は?旅、もう出ないの?」
意外とストレートに聞いてきた林に、長谷部は少し驚くとともに、嬉しかった。気がつくと、口は開き始めていた。
「ああ、年度変わってから、今の仕事辞めようと思っててさ。とりあえず貯まってる有給消化するときにでもどこか行こうかなってな。」
「えっ、ほんとに辞めるの?」
林は驚き岡は口笛を鳴らしていたが、長谷部は無視して続けた。
「ほら、最近、雨多いだろ。だからさ、なんかパーッと明るいとこが良いよな。なんていうか、サントリーニ島みたいな。だけどそんな観光地ナイズされたとこじゃなくてさ、まあ、あれだ、カラッと晴れわたった・・Csa。太陽の国にでも行きたいよな。はは、そんな気分だわ。」
「・・・。」
いきなり一人で楽しそうに語る長谷部を見て、みんなポカンとしていた。
「おうおう、長谷部もなかなか面白そうなこと考えてんじゃん!いいねぇ!」
岡はもっと喋れと言わんばかりにはやし立てた。長谷部はニヤッとして林を見る。
「長谷部、気の毒に、相当疲れてるんだね。大丈夫?」
ガクッー。おいおい林、そりゃないぜ・・。長谷部は心の中でそうズッコケたものの、そのままのテンションで林に喋りかけた。
「そしたらさ、地中海料理食べながらワイン片手によ、綺麗な景色を探すんだよ。あ、そうだ、息のむような絶景が見つかったら、今度はそこに林連れてってさ、風景画描かせようぜ。どうよそれ?」
そんな長谷部の言葉に、林はじっと長谷部の顔を見つめている。
「そうだね。きっと、面白いね。」
意外なことに、林はニコッと微笑んだ。ハッとした長谷部は、照れくさくなったが、それでも尚、続ける。
「岡も来いよ!英語できるようになったんだろ?ギリシャで船上パーティにでも招待しろよ。」
するとニヤニヤして聞いていた岡は、待ってましたと言わんばかりで、とびっきりの笑顔を見せた。
「ははは、そいつぁ妙案だ・・採用!!ウェーイ!」
そう声を張り上げて、長谷部とハイタッチをきめた。完全に酔ってはいるものの、何の戸惑いも、疑いもないこの男の態度が長谷部は大好きだった。そんな野郎どもを、林は横目で眺めている。
「まあ俺はビジネスクラスで行くけどな。というわけなので現地集合で!」
岡はキメ台詞を吐くと口を大きく開け、ジョッキに残った生ビールを飲み干した。いいさ、岡はそれがいいんだ。さあ、こうなると想像は膨らむばかりだった。当初、見ているだけであった田中も柄にもなく会話に参加し、大いに盛り上がった。・・しかし、
「そんな世界が、あったらいいね・・。」
「え?」
林の一言で最高だった時間は終わった。
「いや、俺は本当にさ――」
長谷部が言い返そうとすると、岡が持っていたハイボールを取り上げた。
「おいおい、それくらいにしとけよ~、あんまり強くないんだから、な。」
馬鹿野郎、俺は酔ってなんか――、しかし、言葉にならなかった。
「え、俺は、俺はその・・。」
「でさ~、先週窓口に来た客なんだけどー。」
林が先程までしていたのであろう、全く別の話を始め、場は流れた。そうか、そういうことだったか。・・・・いいさ。
「あ、ちょっとトイレ。」
またも長谷部は、心の目を閉じようと立ち上がった。・・その時、
「えー!先生!?」
突如聞こえた歓声に振り返ると、そこに、グラサンのような色眼鏡をかけた、一人の男が立っていた。入り口の扉から冷たい風が長谷部の足元に当たる。
 その男は両手にぶら下げていた紙袋を手から離し、大きなノースフェイスのリュックを床に降ろすと、まとっていたダウンジャケットを脱ぎ捨てた。すると、季節外れとしか思えない水色のアロハシャツのような明るい上半身が露わになり、この居酒屋から完全に季節感というものを消し去ってしまった。
「よっと・・。」
白髪交じりのボリュームある頭髪に、こんがりと焼けた素肌。おおよそアラウンド還暦とは思えないこの中高年、間違いない、三谷先生が到着したのだ。
「先生・・。」
突然の登場シーンに呆然としていたクラス一同であったが、
「おーい、手伝ってくれい!お土産だ!オーストラリアは暑かったぜい!」
そう叫ぶと、先生は群がるクラスメイトたちにお土産の入った紙袋を渡しながら、饒舌に、旅の土産話に華を咲かせ始めた。同窓会の中心は一瞬にして、店内入口に移ったのである。
「アボリジニ連中と賭けをしてな、カンガルーと決闘してきた。・・結果?ハハ、見れば分かんだろ?ほら、戦利品よ。」
そんな、でたらめのようなエピソードを繰り広げ、民族衣装のようなものを岡に押し付ける先生。
「奴らの作ってる布きれさ。今や観光客相手にこれが400ラリア$だぜ?たく、ぼろい商売だよな。あ、カンガルーのサラミも貰ったんだけど、そっちは税関で没収されちまったわ!ハハハ。」
その様子を輪の外から呆然と眺めていた長谷部。ふと色眼鏡を外した先生と、目が合った。

これが夢なら醒めないでくれ。
見逃すものか、三谷は確かに片目を閉じたのだ。

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