第13章 現実
夕陽が眩しかった。西の空は真っ赤に燃えて、いつまで経ってもこの街を照らしているように見える。日に日に夜は短くなり、また新しい一年が始まろうとしていた。春分は過ぎたのだ。思えばこの一年間、何をしていたのだろう。間違いなく23年の人生の中で、一番無意味に過ごしていたと、長谷部は心の底から感じている。
「ほら、買ってきたぜ。」
三谷がルートビアとグミを持って視界に現れた。それらはコンビニのビニール袋に入っていた。
オレンジ色の屋上駐車場で缶を開け、長谷部と三谷は乾杯した。そう、ここはジャスコの頂上である。それも屋上の中でも本当の頂上、いわゆる塔屋の上に、二人はいた。長谷部は一口、グビっとルートビアを喉に流し込んでみたが、やはりこの独特の味には慣れない。あっという間に空き缶をペシャンコに潰す三谷を見て、悪趣味な奴だと、心の中で思ってしまった。
長谷部たちがなぜここにいるのか、それは単純なことだ。一言で言えば、そう、もう一度ジェスコに潜入するためである。ジャスコ閉店前から屋上で隠れておいて、夜、望美の働くF4 茶店の窓から入ろうというのだ。もちろんその窓の鍵は望美にあらかじめ、あけておいてもらう。一方、香西はというと昨夜のあの、朝までに渡る馬鹿騒ぎの後、なんとまさかの、出社した。何事もなかったかのように。流石バブルを経験した証券マンとでも言おうか、朝まで飲み歩くのも、板についているようだった。全くもって信じられない話だが・・・タフである。長谷部にはその圧倒的タフさを持ちながら、なぜ人生をこんなにも妥協してしまったのだろうかと、そこばかりが疑問だった。支店長に少しでもおかしな様子を見せないためだとか言っていたが・・。と、まあこのような形で、香西は招待状を使い一人でカジノへ潜り込む手筈だ。長谷部と三谷は闇夜を待っていた。
「綺麗だな。」
三谷は照らされたしがない街を見て呟いた。これが自分の育ってきた故郷なのか。本当は綺麗に見えるはずの風景が、長谷部には、かげって見える。それも全て自分自身が蒔いた種なのだろう、ということも自覚していた。・・・種?そうだ、種。なんだったか、三谷先生の種の話を急に思い出した。
「ああ・・。あのさあ、三谷。」
「ん?」
三谷は夕陽の方を向いたまま反応した。彼の瞳は赤く、キラキラ燃えているようだった。
「才能の種があるとしたら、俺らの年代の人って、もうほとんど枯れちゃってんのかな?」
突然それを聞いた三谷は、長谷部を振り返り、一瞬、ほんの一瞬だが、悲しそうな顔をしたように見えた。しかしすぐにいつものように歯を見せて、豪快に笑いかける。
「まあたいていの連中はカラッカラっに枯れちまってんのかもな。ははは。」
三谷はいきなりした質問の意図も聞かずに、まっすぐ長谷部を見て、答えた。長谷部はこの不自然さに、曖昧な笑みを浮かべて、ただ黙って頷いた。
「でもよ、俺たちのはまだ、元気に育ってるよな?」
俺たちのは・・・。三谷は長谷部のそれも、含めてみせたのだ。長谷部は急に自分の尋ねた質問
がナンセンスだということに気がつき、恥ずかしくなった。そうさ、なにも枯れちまったわけじゃない。
「もちろんさ。」
長谷部もまっすぐ向き合って、そう言い放った。嘘偽りなく、心の底からそう思った。
気がつけば日は沈み、星が瞬き始めていた。そこからの会話を、長谷部はあまり覚えていないのだが、ただ一つ、三谷がこんなエピソードを語っていたのが、やけに頭から離れなかった。
子供のころにクリスマスパーティとかしたか?
あぁ、まあ。
そうか…楽しかったか?
まあ、そりゃあな……どうした?
ほら、そういうパーティって三角帽子みたいなのあるだろ?皆でかぶってさ、
あー、わかるわかる。なんだか楽しい気分になっちゃうんだよな!
うん…
二十歳のとき久しぶりにそんなパーティしたんだ。昔の仲間を集めてな。
ほう。同窓会みたいなもんか。
はは、そんな大層なもんじゃないさ、気の知れた、昔からの仲間うちでさ。
楽しかったか?
あぁ。
そのときにな、俺、ケーキも飾り付けも準備してワクワクしてたんだよ。まあ、浮かれてたんだな。
うん。
でもな、わかったんだ。パーティが始まってさ、皆に三角帽子を配ったらな、半分以上の、いや、大半の仲間がな、受け取ったままかぶらねえんだ。信じられるか?ほとんどの人間がだぞ。
……そうか。
変わっちまったんだよ。あいつらは。
……。
世の中には二種類の人間がいる。手渡されたパーティ帽をかぶることができる者、もう一人はわかるだろ?・・・決してかぶることのない者だ。
―――このとき三谷が何が言いたかったのか、長谷部は半分理解したような気になっていた。そう、大人になったらみんなクールになってしまうものなのだと、ただそんな風に思っていた。
「三谷・・。」
すっかり空は真っ黒になり、寝転んだ二人の眼には、いくつかの星と、暗い空だけがうつっていた。学生時代に星を観に行ったあの日とは比べ物にならないほどしょぼい星空だったが、長谷部は当時のような気分に浸っていた。
そんな夜空に吸い込まれていくように、突如長谷部は睡魔に襲われた。昨晩のどんちゃん騒ぎでよほど疲れたのだろう、どうにもこうにも、いかんせん色々なことがありすぎた。
体がしびれているような、不自由な気持ちで瞼を何とか開こうとすると、そこで聞こえてきたのは、アナウンスだった。そう、通勤電車のである。ハッと目が覚めた。飛び上がるような驚きと共に、立ち上がり、辺りを見渡した。ここは、終点である。
「そんな・・・。」
信じられるだろうか、夢だったのだ。全て、この数日間の冒険が全部。ここは・・岡と林と飲んだ帰りの、あの、終電。
「なんだよ・・・。」
こんなことってありなのだろうか?誰もが一度は経験したことがあるだろう。こんな理不尽さ。なぜ人は夢なんてくだらないものを見てしまうんだろう。このときばかりは長谷部も全てを失った気分で、しばらくの間その場に立ち尽くしていた。
「終点ですよ。」
駅員がふと、話しかけてきた。長谷部はしかし、駅員に引っ張られて外に出るまで、その場から動こうとしなかった。この際だ、車庫まで連れて行ってくれ、それで、三谷と会わせてくれ、それでいいのだ・・。しかし、そんなことは叶うはずもなかった。
ひたすら歩いた。自宅までの8kmを。タクシーも使わずに、ひたすら。長谷部には信じられなかった。どうしてかって、それは、単純に夢には思えなかったからだ。
自宅へ到着するとともに長谷部は床に就いた。・・ジリリリリリリリリリ――次の瞬間目覚まし時計が鳴る。一瞬だった。
「なんでなんだよ?」
カーテンの隙間から差し込んだ朝日が、妙に目に突き刺さった。いつから鳴っていたのだろう。長谷部はなかなか時計の場所がつかめず、布団の上をジタバタしていた。午前6時15分。もうかれこれ15分もこの大音量が響いていたのか・・・そう思うとため息が出る。長谷部は朝の支度をし始めた。寝ぼけた目をこすりながら、スーツの上着に細めの腕を通す長谷部は、朝食も取ることなく、アパートの一室を後にした。
そう、何も変わらなかった。
長谷部は駅までの道を歩きながら、あの世界のことをひたすら考えていた。ジェスコに黒服にトチ狂った香西課長、そして・・・あれ?何か大切なことを忘れている気がしたのだが、どうしても思い出せなかった。絶対忘れるはずのない事だった気がするのだが・・思い出せない。
「・・ちくしょー。」
長谷部は駅に着いたが、急にそこから足が前へ動かなくなった。駅前のロータリーに座り込んでしまい、ただボーっと、行き交うサラリーマンやバスから降りる高校生集団を眺めていた。高校生たちを見ていると、中には手ぶらな者もいた。そうか、今日は終業式なんだな、等と、本当にどうでもいいことが頭に浮かんでは、消えた。
もう何時間そうしていたであろうか、日はもうそこそこ高くなりつつあった。思いとは裏腹に今日はよく晴れている。不意に、腹の音が聞こえてきた。
「そういえば何も食ってなかったか・・。」
長谷部はそう思って立ち上がった瞬間、携帯電話におびただしい数の着信履歴が残っているのに気がついた。長谷部は無造作に歩き出し、顔を上げると、空を飛んでるカラスに向けて携帯を投げつけた。携帯電話は放物線を描き、カラスには当たるわけなく噴水へ落ちた。不思議なことに、周りの連中の目なんて気になりもしない。長谷部はそのまま手ぶらでふらふらと、店内でも食せるパン屋へと吸い込まれていった。
カランコロンカラン、ドアを開けると軽快な音が鳴った。店内は10人程度しか座るスペースは無く、もうすでにそのほとんどが埋まっている。このパン屋、近所では割と評判の良い店舗らしいのだが、長谷部はこの駅周辺に引っ越してきてから一年、未だに一度も立ち寄ったことはなかった。室内は暖房が効いて暖かく、ほんのりいい香りが立ち込めている。長谷部は何となく、目についた目の前のカレーパンを一つ、レジへと持って行った。
「お持ち帰りですか?」
若い女性店員はそう尋ねた。
「いえ、中で・・。」
スーツの男が一人、カレーパンをここで食べてはいけないのだろうか。長谷部は全てに絶望を隠し切れなかった。会計を済まし、空いた一つの席へ向かう。そのときふと、口の奥に違和感を覚えた。なんとも意外なことに、この日初めての食事を前に、自然と涎が溢れてきたのだ。どんだけ心が死んでいても、生きているのには変わりないのであった。長谷部が席に着くと、隣の席に座っていた4人組の主婦達は、わずかに、長谷部を避けるようにして、座り直した。
しかし長谷部は表情一つ変えず、ただただカレーパンに貪りつく。美味いのだ、それでいい。
over40女達の笑い声が聞こえた。
水曜日AM10:00 Sunny Side.
覚えているか?あの日の満員電車を・・・・
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