第8章 交渉
香西は時計を眺めていた。午後4時15分。約束の時間から15分、未だに『やつ』が現れる気配はない。来店客が訪れるたび、怯え、姿勢を正し、横目で観察する。しばらく経ち、それが違うと気がつく。こうやってもうどのくらい過ごしたのだろうか。香西は疲れていた。
昨晩のことだった。帰宅途中、電車から降り、携帯電話を確認しようと、歩きながら恐る恐るポケットに手を入れたその時、ちょうど着信が鳴り響いたのである。おかしい、連中の番号からかかってきた際はサイレントマナーになるように設定しているはずだ。
「誰だ?非通知・・?」
非通知など、今まで一度も経験したとこなどなかった香西だったが、深呼吸をし、数秒悩んだ末、電話を取ることを決めた。もしかすると、職場や家族から緊急の用事かもしれない。
「はい、もしもし香西ですが。」
相変わらず仕事モードの声をしているな、と自分で思い、苦笑いした。が、その直後、笑みは消え失せ、顔から血の気が引いた全てを後悔した香西がそこにいた。電話の相手は、そう、借金取りだったのである。
「あの、申し訳ございません、いま仕事が終わりまして、はい、はい。明後日が給料日になっておりますので、はい、必ず。」
決まりきった謝り文句を用意し、なんとかやり過ごそうと必死で言葉をつなぐ。しかし、連中の声が新しい。今回はどうやらいつもと様子が違っているようだった。
「明日?え?4時?いや、あの、仕事が・・、いえ、はい、あ、お願いしますそれだけは・・!申し訳ございません。分かりました4時にジャスコですね、4階の喫茶店、はい、はい。すみません。」
遂にここまで来たか。香西は腹をくくっていた。勤務中にまで呼び出されるとは・・。先の見えない借金生活だったが、ようやく終わりも近づいてきてしまったな、と、弱々しく灯る、切れかけの街灯を見上げ、住宅街の真ん中で立ち止まった。光が滲む。
「涙だけは、枯れないもんなんだな。」
虚しく響く独り言は、季節はずれの白い吐息と共に澄んだ夜空へと消えていった。
そんな18時間前を思い出し、4階の窓の外を眺めながら香西は大きなため息をついた。思えば、ろくな人生でもなかった気がする。大学を出て金融機関に勤め、気がつけば課長職まで就いた。バブルもリーマンショックも経験したが、28で結婚、娘に息子を一人づつ儲け、絵に描いたような普通の幸せを手にしたつもりだった。しかし、だけど、なぜなのだろう。今になって、そんなことなんてどうでもよく感じられてしまうのだ。自分の人生とは?自分の目指していたものとは?
「こんなはずじゃあ、なかったんだけどな。」
香西はそう呟くと、地上ではしゃいでる、少し季節の早い半袖半スバンの少年達に見とれていた。放課後だろうか、急ぐ必要など一切ないのにもかかわらず、どこかに向かって走っている。そんな無限の時間を持った彼らが香西にとって、とてつもなく輝いて見えるのであった。気を緩めたその時だった。後ろから何者かに肩を叩かれ、香西は驚きのあまり3センチほど飛び上がった。少し目を離した隙に、『やつ』が席の目の前まで迫っていたのだ。言葉も考えず、慌てて振り返り顔を見上げると、そこに立っていたのは、目力のキツい、時代錯誤のスタジャンを羽織った浅黒い肌をした男と、部下の長谷部だった。
「よう、あんたが香西課長だな?」
三谷は香西のテーブルを挟んで向かい側に腰を掛け足を組んだ。やけに威圧的である。
「あー、お疲れ様です。・・ちょっと失礼します。」
長谷部も三谷の隣に座り、少し緊張した様子で香西の顔を見た。香西は目を丸くしている。
「は、長谷部?おま、なんでここに?今日は風邪ひいて休み・・え・・?」
うろたえる香西に三谷と長谷部は顔を見合わせ、ニヤリと笑った。咳払いをした長谷部は、大きく息を吸い、今ここで何が起こっているのか全く理解していない香西に向かって、語りかけた。
「香西課長、今日僕が話したいのはですね、なんというか。」
長谷部は言い出しにくそうに香西の顔を見て優しい口調で語りかけた。香西は、動揺と驚きの入り混じった、何とも言えない目をしている。
「おい香西課長、あんた、金欲しいだろ?」
長谷部がどう話を切り出そうか言葉を選んでいるのに、しびれを切らした三谷は切り出した。
「おい三谷。」
「いいんだよ、分かりやすく簡潔にいこうぜ。この方が手っ取り早い。なあ?借金返したいんだろ?いい方法があるんだけどよ―――」
三谷は、それはそれは流暢な脅し文句を、そして言葉巧みに香西課長に事態を説明していった。詐欺師も真っ青の会話術だ。
なぜ二人が香西を呼び出したのか。それには意外な、しかしとても簡単な理由があった。昨晩、カジノの招待状を見つけ歓喜に沸いた三谷と長谷部。互いにとってカジノの存在は、代わり映えしない日々の生活、閉塞感、何とも言い難い倦怠感に一筋の光を差した。それだけではない。カジノと聞いて真っ先に浮かび上がったのは、そう、金。富豪達を取り巻く大金の香り。その匂いを彼らは即座に、そして敏感に察知したのである。三谷はともかく、実のところ長谷部も内心では人一倍金に対する執着心が強かった。証券会社に入社した理由も、家族や友人たちには他に内定が出るところもなかったから、といつも説明していたが、その一方で金儲けについて学びたいという気持ちも大きかったのだ。そんな二人は招待状を見るなりすっかり意気投合、非日常への憧れと未知への冒険に心を躍らせ、あっという間に『どうやってカジノに潜り込むか?』という話題へと進んでいった。またとない機会に目を輝かせる男達だが、話し始めてすぐにクリアしなければならない大きな問題点にぶちあたってしまった。
「・・そもそもなんだけどさ。招待状持ってきたのはいいけど、俺達が行っても入れないんじゃないのか・・?」
長谷部が当たり前のことに気が付きつぶやいた。さっきまでの熱気が嘘みたいに吹き飛んでしまった。
「むぐぐぐ・・・。」
隣で唸る三谷を尻目に長谷部は散らかっている部屋の掃除を始めた。三谷のスタジャンの袖を払いながらハンガーにかけると、普段は生活感のない長谷部邸がなんだか一昔前のドラマに出てくるような若者の、うまく言い表せないが、そんな雰囲気の部屋に変わったのが不思議な気持ちだった。
「あー、カジノは無理か…。なあ、他になんかパクってきてないのかよ。金目のもんとかさ。」
長谷部がハンガーにかかっているくたびれた上着を眺めながら、力の抜けた様子で言ったその時。
「それだー!!」
突然大きな声が上がったかと思い振り返ろうとすると、目の前に三谷が突進してきた。びっくりした長谷部はその場にしりもちをついてしまったが、三谷がやたらと元気なので、どうやらこれは悪いハプニングではなさそうだ、とすぐに冷静になった。
「おいおい、いきなりどうしたんだよ。」
長谷部がうろたえながら起き上がる、すると、三谷は吊ってあるスタジャンのポケットから何かを取り出した。それは赤に近い臙脂色の手帳?みたいなものだったが・・。
「ふふふふ、こんなものも失敬してきたんですよね。裏新宿の中国人にでも売りさばくか?ん?」
よくみるとそれは手帳でもなんでもなかった。これは――パスポートだ。
「おいおい、そんなもん売れんのかよ大体これ――」
長谷部はパスポートを受け取り広げてみると、固まった。
「ん?なんだよ。結構金になるって聞いたことあるぜ?それが偽装パスポートになるんだよ。・・長谷部?長谷部君~?」
三谷が様子のおかしい長谷部を見て首をかしげている。そのとき長谷部は全く別のことを考えていた。
「なあ、三谷。この顔、見覚えないか?」
三谷に突き付けられたパスポートの写真、それは。
「え・・こいつって・・・。」
三谷はもしかして、という顔で長谷部を見た。
「ああ。香西課長だよ。」
なぜあの時、気が付かなかったのだろう。そこに写りこんでいた富豪の顔、それは香西に瓜二つだったのである。まあ実際には香西課長の数十倍頭の良さそうな品のあるツラだったのだが・・。この際そんなことはどうでもよい。身分を証明するのには十分かもしれないのだから。
こうしてカジノに入場するチャンスを手に入れた二人は、今ジェスコ4Fの喫茶店にいる。借金まみれの香西を仲間に引きずり込んで一攫千金・・というよりかは、非合法で世間から知られていない未知の世界、闇のカジノへの冒険、が目的だったのかもしれない。この時点では。
「・・しかしそんなことばれたら・・。」
招待状持ってカジノについてきてくれ、というある意味では簡単なお願い事を渋る香西課長に、三谷はイライラし始めていた。
「で?どうすんの香西課長?長谷部ちゃん怒らせたら何するかわかんないよ~?借金いっぱいあんだろ?・・・会社に言うぞ?ああ?」
「おいやめとけ・・・香西課長、お願いします。招待客の紹介で僕らも同伴できるんですよ。カジノ入るところまでだけでもいいんで。ね?」
徹底的に弱みを攻める三谷、下手に出て丁寧に頼み込む長谷部。鞭と飴の波状攻撃だ。
「で、でも・・ゴニョゴニョ。」
煮え切らない様子の香西課長を見て我慢の限界に来ていた三谷は、大きく息を吸って平静を保とうとした。
「おい、オッサン、あんたの人生それでいいのか?そうやって死ぬまで何かに怯えて、家族守ろうとしてる気分だけ味わって?結局守れもしねえのによ。ん?誠意があるふりだけして一生這いつくばって何もできずのたれ死んでくのかよ?」
「だからって俺にはもうどうすることも・・。」
こんなに怯えた目をした課長を見るのは初めてだった。支店長に叱責されているときですらなにかこう、ただ死んだ目をしているだけのそんな表情なのに、今ここにいる香西は、今にも泣きだしそうな、クラスでいじめられ、行き場をなくした児童のような、そんな悲しい顔をしている。
「もう一回だけ言うぞ。俺たちに協力するのかしないのか。するなら今日の夜11時にここのA駐車場こい。いいか、車でだぞ。チャリなんかできたら怪しまれるからな。・・これが最後のチャンスだ。お前の負け続けた人生、取り戻せるかもしれねえ。カジノで全財産賭けるか?それとも違法カジノの存在をネタに週刊誌に売り込むか。」
三谷は香西課長の目を、突き抜けるような鋭い眼差しで見つめ、真顔で言った。
「・・強い連中にこき使われるだけ使われて、一生誰にも気づかれずにこの世から消えていくような生き方だけはごめんだね、俺は。・・・あんたを支配してきたこの世の中に噛みついてやれ。それでよ、見ようぜ。一瞬だけでもいい、最高に光り輝く瞬間をさ。」
そう言うと三谷は、席を立ちサ店の外へと歩き出した。長谷部は衝撃を受けた。香西課長に向かって吐かれたはずの言葉なのに、ガーンっと何かに強く殴られたような感触を感じていた。なぜだかわからない。だけど、だけど・・。
「・・香西課長。11時A駐車場。待ってますよ。」
できる限りクールに、長谷部も立ち上がり、その場にいた店員に会釈しサ店を後にした。店を出るときチラリと見えた頭を抱えた香西の姿が、やけに心に焼きついていた。
そうして、ジェスコを後にした二人は、待ち遠しい気持ちを抑えながら、引き続き『カジノ潜入計画』を立て、夜まで過ごすことにしたのである。はしゃいで帰る長谷部と三谷。そのとき長谷部は、何かの視線を感じる気がした、が、三谷が丁度大きな声を出したのでそのことはすぐに忘れてしまった。
「あー!結局飯頼むの忘れてた。くそ、せっかくだからなんか高いもん食っときゃ良かった・・。」
普段スケールが大きい事言うくせに、随分ケチくさいことを気にし始めた三谷を見て、長谷部は爆笑した。久しぶりに、ただ単純に、面白かった。
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