第11章 人生の主人公
その扉を開けた瞬間、冷たく、しかし澄んだ風が体の中まで吹き抜けた。そうだ、忘れかけていたが今は3月の夜なのだ。
あの黒服がどこまで追ってきたかは分からない、それでも長谷部は未だに全速力で走り続けていた。それなのに、だ。出口を出て三谷の逃げた方向へと駆け出そうとすると、今度はまた守衛らしき男が二人、こちらに向かってくるのが見えたのである。
「なんだよ・・。」
長谷部は回れ右をして折り返し、南東の方角へと走り出した。もちろん当てなどない。このジャスコは北側を国道に面しており、客たちは皆、そこから駐車場へ出入りする。南側の構造なんて、常連客の長谷部でさえ一切知る由もなかった。が、これだけは分かる。この町の南東部には竹林が拡がっているのだ。とにかく今はこのジャスコ、いや、『ジェスコ』の敷地から脱出しなければ・・。しばらく進むと、長谷部は屋上駐車場へと続く道路を斜めに横切った。後ろを振り返ると、意外と守衛は迫ってきておらず、まだ距離がある。
「別人か・・?」
どうやら4階で鉢合わせた連中とはまた違うようだった。明らかに足が遅いのだ。一瞬しか見てないので正確には分からなかったが、もしかすると中高年だろうか。ともかく、これなら逃げ切れるな、と長谷部は迷わず竹林の方へ突き進んだ。するとすぐに見えてきたのは大きな網のフェンスだった。3mはあるだろうか。・・・どうにもこうにもこれを乗り越えるしか道はない。
「・・これ以上走るのは・・・。」
長谷部はすっかり息が切れていた。日頃の運動不足が祟ったか、学生時代のような体力はもう残っていなかった。さっきの黒服との一戦でもう使い果たしてしまったのだ。だからこそ、だ。だからこそこれ以上敷地内を走り回るより、このフェンスを乗り越え外の世界に逃げ切るしかないのである。助走をつけてフェンスに跳びつく長谷部、網に手をかけ足をかけ、実に高校ぶりくらいだろうか、しかし慣れた手つきでよじ登り、最高地点に到達した、その時だった。
ドンッドンッ、ドンッ・・パッパラ―――!
低く鈍い音が3回、そして車のクラクションが遠くで鳴り響いた。
「えっ?」
長谷部は直感的に、その音が拳銃の発砲だと感じた。なんていうことだろうか、ここは日本だぞ、どうなっている?・・幸いにも長谷部に向けられて撃たれたわけではないようなのだが、いきなりの銃声に驚いた長谷部は、またがっていたフェンスから足を踏み外し落下してしまったのである。
「あああー!・・・ってー・・・あ。」
起き上がり顔を上げると、目の前に50~60の男の顔が二つ、現れた。一瞬心臓が飛び出る思いだったが、どういうことかすぐに理解できた。彼らはフェンスを挟んで内側のジャスコ、長谷部は外側の竹林にいるのだ。
「じゃ、じゃあな!・・・うっ。」
長谷部はそれが分かるとすぐに背を向け走り始めようとした、が、足が思うように動かない。さっきの落下でどこか怪我をしたのだろうか、痛みはなかったが、もう速く走ることができなくなっていた。
「くそ、くそ・・・。」
しばらく竹林を進むと、もう外灯も届かないような、うっそうと生い茂った森の中に入っていた。ここまでくればもう見つかることはないだろう・・。長谷部は疲れ果て、切り倒された竹が横向きに積まれている陰に腰を下ろし、隠れることにした。
「いったい何だったんだろう・・。」
ここにきてようやく、長谷部は今日の夜起こった出来事について振り返ることができた。いきなり暗くなった店内、鳴り響く非常ベル、無言で走ってくる追っ手、客も店員もなぜか誰も見当たらない、そして謎の黒服に遠くで聞こえた発砲音――全てがおかしい事だらけだった。三谷の見たというエレベータは本当だったのだろうか。いろんなことを考え始めてしまい、長谷部は逃げていることを暫しの間、忘れた。
長谷部は一つの仮説を立てた。仮説というよりは想像、いや、妄想なのかもしれないが・・。そんなしばらくぼんやりと考えていた妄想の内容はこうだ。
地下にカジノがあるとしよう、そうしたらその名前は招待状に記されていたようにジェスコ、ジャスコではなく『ジェスコ』という名のカジノである。そしてその存在はきっと世間には公になっておらず、一部の富裕層のみぞ知る、金持ちだけの倶楽部なのであろう。なぜそう思ったか、それはもう、あの追っ手達である。普通なら従業員用の扉を開けただけでベルが鳴り響き警備員が血眼になって駆けつけてくるなんてことはないはずだ。次に、あの黒服の存在である。あんな日本人離れした強靭な肉体の持ち主、しかもスーツにサングラスがこんな郊外の寂れたデパートに存在するわけがない。じゃあ何者なのか?これもカジノがあるとすれば答えは出る。ハリウッド映画でしか見たことがなかったが、あれはカジノに雇われた本物の黒服だ。そう、そしてあの発砲音も黒服の仕業なのかどうなのかは定かではないが、カジノ関係者が本気で部外者を捕らえようとしていたに違いない。きっと我々は見てはいけないものを見てしまったのだろう。・・・あれ?だとしたら・・・。
「三谷・・。」
三谷が危ない、というよりもう撃たれてしまったのか・・?長谷部は急に心配になってきた。まさかこんなことになるだなんて、このままでは三谷は港に沈められてしまうぞ・・。しかし、そんな心配などすぐにできなくなってしまうのであった。
ガサガサッ・・
生い茂った笹の葉をかき分け、何者かが迫ってくるのが分かる。長谷部は、息をひそめて闇の中伏せていた、が。音は確実に近づいてきている。なぜだ、なぜこの場所が・・。そう疑問に思い来た道をもう一度振り返ると、懐中電灯の灯りが微かに竹林を照らしていた。そしてわかった。犬である。こいつが長谷部の位置を特定したのだ。警察犬のような物体が、灯りと共に近づいてくる。
「本気すぎるだろこいつら・・。」
長谷部は体力を振り絞り、この日何度目かなんて最早わからないスタートダッシュを切った。その瞬間、犬の吠える声、そして近づいてくる何者かわからない恐怖が長谷部を襲った。もうこれ以上走ってもきっと追いつかれて噛み殺されてしまう、相手は犬なのだ。逃げ切れない・・。
「くそ、くそ・・!」
その時だった。いきなり足が地面に沈んだのだ。一瞬脚が取れてしまったのかと思ったほどに、それはいきなりやってきた。暗くてよくわからなかったが、冷たい水に足を突っ込んだようだ。そして、次の瞬間にはもう走れなかった。右足が沈むとほぼ同時に今度は左足も動かなくなった。・・これは沼なのだろうか。浅いのに冷たい水の底が柔らかく、どんどん足が沈んでいく・・。何とか必死に沼に引き込まれぬよう、長谷部は四つんばになり、沼に接するする体の面積を大きくしようとした。しかし、そうこうもがいているうちに、連中はやってきてしまった。
「ワンッ、ワンッ!」
犬の声が真後ろに聞こえる・・。犬って本当にワンワン鳴くんだな、等とこんな時にそんな事ばかりが頭の中に回ってしまい、長谷部はもうまともな作戦を考えることもできなくなってしまっていた。きっともう、疲れたのだろう。体も、頭も。懐中電灯が段々と辺りを明るく照らす。長谷部はそれでも沼の向こうへと這っていく。照らされてようやく見えたのだが向こう岸まで3mもなかった。長谷部は何も考えることなく、前へ進んだ。足の感覚も寒さも、何も感じない。それでも心は元気だった。卒業してから一昨日までのどんな日よりも、生きた心地がしていた。自分のやっていることの意味など分からない、だけど、だけれども、動いていた。あの富士の樹海を目指して岡と大人たちから逃げ回っていたあの瞬間のように、動けていたのだ。
「眩しい・・。」
向こう岸にようやく到達しようという瞬間に前方から強烈な光が長谷部を襲った。遂に挟まれてしまったようだ。ここまでか・・。犬が後ろから跳びついてくるのを感じ、長谷部は間一髪避けたが、後ろは沼。前にも刺客、もう逃げようがない。今回こそはもう・・。犬がターンしてこっちを見ている、長谷部は眩しさに目を閉じ覚悟を決めたその時――
パッパッパラー!!
盛大なクラクションの騒音と共に、黄色い鉄の塊が飛び込んできた。長谷部を睨んでいた犬を跳ね飛ばし、目の前に現れたのは、車だった。
「よう、待たせたな!」
竹林の中、草木をなぎ倒し、横滑りで現れた真黄色のオープンカー、これは・・・ダイハツの・・コペン?なんでこんなところにコペンなんか・・。そしてそのコペンの助手席から威勢のいい声を飛ばしたのは間違いない、三谷だった。目が慣れない長谷部が呆然と立ち尽くしていると、
「早く乗れ!行くぞ。」
奥の運転席から確かに知っている声が聞こえた。しかし、長谷部の知っているのはこんな張りのある言葉ではない。
「あ、ああっ!」
長谷部は考えるよりも先にそのコペンに飛び乗った。二人乗り用で、長谷部の乗る座席などなかったが、運転席と助手席の間に足を突っ込み、前の二人の肩を掴んで、トランク部分にドッカリと座った。
「しっかり掴まっとけ。」
そう運転席の男が長谷部に振り返り、命令した。やはり間違いなかった、この男の名は、
「香西課長・・!」
呆気にとられていると同時に、コペンが走り出したので、長谷部は後ろにそのまま落ちてしまいそうになった。が、三谷に引っ張られ何とか姿勢を保つことができた。
「かなり危なかったな!ぎりぎりセーフだぜ!」
三谷は陽気に笑いかける。良かった、彼は撃たれることなく生きていたのだ。
竹林を抜け、しばらく一同は無言のまま国道へ続く暗くて細い道路を走っていた。よく見るとこのコペン、もうかなり傷だらけである。長谷部がふと車体の後方を見ると、そこには2つの穴が開いていた。どうやら本当に発砲はされていたのであろう。間一髪コペンのボディに当たっただけで助かったようだ。そんなことを考えていると、三谷は長谷部の顔を見て、口を開いた。
「そうなんだよ、いきなり撃たれてさ・・。いや、焦ったぜ?さすがに日本でそんなことされるなんて思わなかったからよ。」
三谷はにやにやしながらその当時の状況を話した。
「出口出たらすぐに黒服二人に囲まれてさ。何とか突っ切って駐車場まで逃げたら、コペンで寝てる香西課長がいたのよ。・・あっ、黒服っつっても食品売り場のあいつとは全然違う普通の人間ね。」
長谷部が、信じられないという顔をしたので、三谷は黒服が別物だということを付け加えた。しかし、その別物が突如発砲してきたらしい。ある意味最初の黒服よりたちが悪い話である。
「いやー、当たったのがトランクで良かったよほんと。」
やれやれといった感じで三谷は助手席の窓辺に腕をかけた。
「何にもよくないぞ・・。」
そんな他人事な三谷を見て香西課長は悲しそうに呟いた。
「まだローンも残ってるのに・・・ブツブツ。」
何となくその状況が面白くて、長谷部は笑ってしまった。やっと緊張感が解けた瞬間である。しかし、そう思っていたときに、またも異変は起きたのであった。
国道へ入ったころ、なにやら香西課長がしきりにバックミラーを確認し始めた。長谷部も気になり後ろを見ると、なにやら1台、大型バイクのようなものが近づいていているではないか。
「おい、三谷。あれ・・・。」
長谷部は後ろを向いたまま三谷の肩を叩き、指を指した。三谷は不思議そうにその指のさす方向を見て、固まった。
「あれってさ・・。」
長谷部ももう気がついていた。近づいてくるこのハーレーダビットソン、それは・・。
「ああ、黒服だ。」
ハーレーに跨った黒服はノーヘルでぐんぐんと香西課長の運転するコペンに近づいてきた。
「香西課長!もっとスピード出してください!」
長谷部はそう叫びながら、狭い車内を見渡した。使えそうなものは何かないのか。
「ベタ踏みだぞ!?ダメだ、3人も乗ってるからな・・。あれが言ってた黒服・・・。」
香西課長の声は微かに震えていた。
「あー、もう、コペンなんか買うからいけねえんだよ!こんなおもちゃ・・スポーツカーのくせに何やってんだよ!」
三谷は香西課長ご自慢の愛車に対してこんな時に暴言を浴びせた。香西課長の背中がまた小さくなった気がした。そうこうしているうちに、黒服は真後ろに付いていた、まずい、このままだと車ごと何されるかわかったもんじゃない。長谷部は、そんな黒服とサングラス越しに目が合った気がして、身震いがした。やはりこいつは只者ではない。
「ほらよ!これ!」
三谷はシートベルトを外し、長谷部に、助手席に積んであった発煙筒を手渡した。すでに煙は出始めているが・・。煙は黒服の顔に微かに当たってはいたが、全くの無駄。
「こんなものしかないのか、くそっ。」
長谷部は発煙筒をそのまま黒服に投げつけた。こんな適当なもの当たるわけもなく、いよいよ黒服は完全に追いつき、三谷の真横に付こうとしていた。長谷部はただでさえ落ちそうなポジションにいたので、時速100km超ではもうなにもできなかった。風で顔が吹っ飛びそうだ。
「この野郎!」
黒服のハーレーにぴったり横に付かれた三谷は、豪快にドアを開け放った。助手席のドア―は勢いよく黒服にぶつかり、黒服はハーレーもろとも転倒する・・・はずだったのだが・・。黒服はドアに当たり、よろけたと思ったら距離を取り、全開になったドアに最接近。後ろから開いたドアにハーレーで突っ込み、なんと信じられないことに、コペン助手席のドアを、剥がしてしまったのだ。
「おいおいおいおいおいー!」
三谷はガードがなくなった左側部から黒服に腕を掴まれ、今にも引きずり出されそうだった。シートベルトを外したのが完全に凶と出ている・・。そのときだ、
「俺の愛車がーー!キエーーー!!」
香西課長が大きく吠えた。と共にサイドブレーキを引き、駅前のスクランブル交差点で完璧なドリフトをかましてみせたのである。三谷はもう半分車から外に出ていたのだが、左に大きくカーブしたことにより遠心力で車内に引き戻された、黒服と共に。黒服のハーレーはコペンに激しく接触して、転倒。黒服だけが三谷の腕にくっついたまま、車は下り坂へ入り、速度を上げた。
「腕が、もげる、くっ!」
三谷の腕にぶら下がった黒服の体重は何キロなのだろうか。考えただけでも恐ろしい。黒服の左足はもうすでに道路と接しており、摩擦で火花を散らしていたのであった。
「離せ!」
長谷部は勇気を出して後ろから黒服の顔面に靴の裏で蹴りを入れた。無茶な体勢の割には確かな手ごたえ・・のはずだったのだが、やはり相手は黒服、地球を蹴ってる気分になるほど堅いのだ。
「ぐおおお!」
しかし流石の黒服もこれは効いたらしい。サングラスは折れ曲がり、唸り声をあげた。
「うぐああぁぁ。」
それでも今度は三谷の腕を掴んでいた手を離し、長谷部の足を掴もうとしてきたではないか。この男、不死身なのか?
「ちくしょう、だめだ、やられる・・。」
長谷部は香西と三谷の肩を掴んで必死に耐えようとしていたが、もう握力は尽き、黒服もろとも、道路に転げ落ちそうになっていた。迫る地面、足はもう半分外に出ている。体が宙に浮く感覚、内臓が口から飛び出そうな、そんな一瞬だった。
ドンッ!
鈍い音がしたような気がした。しかし、長谷部はまたも助かった。目を閉じていたのでわからなかったが、体は三谷にがっちりと固定され、まだ車に残ったままである。
「どうしたんだ!?」
黒服がもう隣にはいない。振り返ると、遠くで黒い塊が、電柱の下敷きになっているのが微かに見えた。
「香西課長ナイス!」
三谷は歓声をあげ、興奮していた。どうやら、香西課長のドライビングテクニックによって、車に当たるかスレスレのところで黒服だけを電柱に叩きつけたみたいだ。
「危なかった・・ああ、奇跡だ・・・。」
香西課長はひやひやしているようだった、しかしこの課長、見かけによらず運転自体は確かな技術を持っている。それにしても、だ。あの黒服がぶつかって電柱が倒れるって・・・。いやはや全くもって規格外のモンスターだった、と後の長谷部は振り返るのであった。今度こそじゃあな、黒服、といった気分である。
気づけば遠くに来たものだ。満月に照らされた田園風景が広がる中、左のドアを無くしたボロボロのコペンは、妙なエンジン音を立てながら、未だに走っていた。
「どうなってんだよ・・もう俺の人生・・・。」
香西課長が独り言のように呟いた。それを聞いた三谷がニヤリと笑みを浮かべる。
「なに言ってんだよ。楽しかったろ?」
おいおい、そんなわけあるかい・・。長谷部はそう口にしようとした、が、香西は前を向いたまま、無言で、小さく頷いた。
「大脱走って映画知ってるか?」
「えっ?」
「小学生のころ淡路のリバイバルで見たんだ…スティーブン・マクウィーンがかっこよくてな。」
はじめは何を言っているのか分からなかったが、ようやく理解できた。
今この瞬間、香西課長は人生の主人公になれたのだ。
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