気づけばなりたくなかった自分になりつつあるが
「お母さんね、ほんとは映画監督になりたかったの」なんて自分の子どもに言うような女にはなりたくない、と思っていた。
叶えられなかった夢を自分の子どもに未練たらたら語るようなつまんない人間ではなく、夢を叶えて人の心に残る作品を作りまくるぞと思っていた。
大学時代、映画を作った。
一本目はiPhoneで撮ったサイレント映画。
2本目はLGBTの人達を無邪気に差別する主人公の話。
3本目は不倫中の大学生の話。
2本目は題材のおかげか、ある賞に入選することができたり映画祭に呼ばれたり、色んなところから上映させてくれと言ってもらえたりした。
3本目はめちゃくちゃ力を入れた。大学を卒業したあとの、いわば人生の春休みをすべて注ぎ込んだ。大学の卒業製作展も、出展料を映画に回したかったので出さなかった。これで賞取れなかったら諦めるしかない!と言うほどだったが…箸にも棒にもかからなかった。
そのショックはなかなかにデカく、往生際悪く「まだ応募できる映画祭はある」などといつまでも調べたり、どいつもこいつも見る目がねえなと毒づいたりしていた。
でも気づいてしまった、自分にはそこまで映画愛がなかったんだということに。
歯を食いしばって辛い時を乗り越えるとか無理だったし、(資金づくりは歯を食いしばってがんばったが)
何度も何度も作品を自分で見返して、もっと良くできないかあくなき探究心を持ち合わせていたわけでもなかった。
一時期一緒に映画を作りかけた人がどんどん有名になっていく。わたしの好きなアーティストのMVを作ったりしている。雑誌でコラムを持っている。
はじめは悔しいーーなんて思っていたが、
ねえ、だってその人たちはわたしよりずっと長いこと映画を好きだったし、辛い時に歯を食いしばってたもんね……………。そりゃ結果出しますわ…。
気づけば一児の母になり、子どもがもう少し大きくなればうっかり「お母さんね昔は…」などとこぼしてしまいそうである。
気づけば、かつての自分がなりたくないと思っていた人間になりつつある。
でもそれは思ったよりダサいことでも嫌なことでもない気がする。
結果を出せなかったことがださい、映画を撮ってたなんて黒歴史だ、なんて思ってた時もあったけど、一生懸命やってたことをそこまで否定したらんでもいい気がしてきた。
というのも、
映画や漫画、人に影響を与える創作物を作るというのはかつて私が思っていたよりもずっとずっと、技術的なこと以外の部分、物の考え方というのが染み出してくるものだと最近になって痛感しているからだ。いろんなことを調べ、時に自分の嫌な部分と向き合い、自己をアップデートしていかないといけないものだ。
(プラス、カメラワークのことや役者さんやスタッフとのコミュニケーションもはからないといけないので監督やってる人は本当にすごい)
映画監督を目指していた頃は自己顕示欲ばかりでその辺りが全く分かっていなかったから、もしあの作品が評価されていたとしても、その後大した作品は作れなかっただろう
今は、映画は自分にとってあまり良い表現方法じゃないなと気づいたので絵やらデザインやら漫画などでなんかできないかなと下書きのノートにぐるぐる書いてばかりいるのであった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?