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見えるようにする(鈴木ちはね歌集『予言』)
鈴木ちはね歌集『予言』からは、何か抵抗の意思を感じた。その意思がどこから来たのか、思考を整理しながら、以下短くまとめてみた。(歌の引用元は特筆なき限り『予言』。括弧「」内は連作名。数字は掲載頁。)
1 子どもと大人
(1)子どもへの同情的な視線
子どもは大人たちに育てられる。育てるという行為は一種の強制を伴うものである。その賛否は別として。
スイミングスクール通わされていた夏の道路の明るさのこと
「スイミング・スクール」15
プラネタリウムで叫ぶのを止められない子がひかりのもとへ引きずり出される
「全体重」55
素手で送りバントさせられる夢を見た 笑い話にできるだろうか
「感情のために」83
生まれてくることのなかった子どもたちをはやく自由にしてやらなくては
「ぷよぷよ(仮)」138
これらの歌には、教育(強制)される子どもたちへの同情と共感の視線がある。歌集中に、少なくとも2名の死者を出している教育施設に取材した「戸塚ヨットスクール開校四十周年」という連作があるのも象徴的である。
(2)国家制度への冷めた視線
強制を課されるのは、何も子どもたちだけではない。大人たちもまた国家に様々な権利を保障され、その見返りに様々なことを強制されている。
たばこを買いに行くついでによく督促状で国民健康保険料払った
「スイミング・スクール」22
年金を納めてないとかかってくる電話のようになまぬるい風
「失業給付」113
ティファールでお湯を沸かしてガスを止められても身体を洗えた話
「感情のために」93
強制とまでいかなくても、国家に言及する歌も少なくない。
手を股に挟めばあたたかい自分東京五輪は即刻中止
「戸塚ヨットスクール開校四十周年」74
遠い日の誰かの日照権のためにななめに切りとられているビル
「感情のために」93
東京に住民票を置かないで住んでたころに見ていた川だ
「失業給付」115
これらの歌は、いずれも国家の制度を冷めた視線で見るものである。
(3)受動態と被害感情
これまでいくつか例歌を引いただけでも、受動態の歌が多いことがわかる。歌集中では、少なくとも18首の多きにわたる。
受動態は、「AがBをCする」の主語Aの部分を隠す機能を持つが、詩としては同時に聴き手・読み手にAを想像させAを肥大化させる効果を持つ。そして、日本語の受動態は被害の感情を伴うことがある。先に引用した「スイミングスクール通わされていた夏の道路の明るさのこと」には明らかに本人の意思に反しているニュアンスがある。
他にも例を紹介すると、以下のようなものがある。
メモ帳があってもメモを見ないなら意味ないねって怒られている
「仮の橋」41
満開の桜の下でうそくさい下の名前をいじられている
「戸塚ヨットスクール開校四十周年」59
そして、「られる」という形態上の受動態から、意味上の受動態に範囲を広げれば、以下のような歌も受動態的な歌として分類することが可能になるだろう。
不動産屋の前に立ち止まって見ていると不動産屋が中から見てくる
「スイミング・スクール」17
駅前にあった大きい花時計 無くなっていたでしょう 工事で
「失業給付」119
これらに共通するのは、被害のような感情である。
2 静かな抵抗と声高な抵抗
(1)制度の可視化
ある制度(システム)の内部に暮らす人々にとって、その制度は透明に限りなく近い。例えば、切手と呼ばれる小さな紙片を封筒に貼って、街角の赤い箱に入れると、その宛先に届くことを、多くの人は疑わない。
もちろん、そうした制度は、何も良いものだけでなく、時代遅れとなった婚姻制度や、貧富の格差を生んだと言われる非正規雇用制度など、留保を付けざるをえない制度もある。しかし、その制度の周縁にある人々は苦しめど、その制度の中で快適に生きる人々にとっては意識することすら稀なものである。
見えにくいからこそ、そうした制度の存在を指摘して可視化すること自体が、制度への抵抗・留保となる。例をいくつか挙げよう。
客引きのメイドと都知事候補並ぶ駅前を待ちあわせの場所に
「仮の橋」41
普通科の高校を出て僕たちは普通になれてお花見もする
「感情のために」97
鳩にエサを与えないでくださいの下で鳩と地面を見るお年寄り
「失業給付」132
雪なのに律儀にバスを待っている人たちの一員になるのだ
「河合塾の夜」146
これらの歌では、メイドカフェで働く女性と選挙資金のある都知事候補とが並ぶ不思議さ、普通であることへの、お年寄りには誰も餌をやらない違和感、極寒の中でバスを待つことへの違和感などが静かに歌われている。「静かな抵抗」と呼べるかもしれない。
(2)制度の批判
一方、同じ制度に言及するものでも、2016年8月8日の「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」に取材した力作である連作「感情のために」は、制度の指摘にとどまらない部分がある。ここまで連作ではなく一首一首の階層で読みを展開してきたが、この連作については少し書きたい。
この連作は、「おことば」を分解して散らして詞書にしている。詞書は歌内容の補足となるのが定石であるが、「感情のために」では詞書と歌がほぼ噛み合っていない。まるで天皇陛下の苦悩と、一般市民の苦悩が噛み合わないかのようで、この構造自体が比喩になっている点は見事である。
他方、同連作中に「天皇が象徴ならば犬や猫、鳥やうさぎでいいのではないか」という天皇制批判とも読める歌があるのは、やや直接的である。「声高な抵抗」とでも呼ぼうか。こうした歌が増えれば、短歌が定型プロパガンダになってしまうことが懸念される。
超うまいスキーの動画をずっと観てそのあと玉音放送を聴いた
「仮の橋」39
地下鉄の路線図の中で地下鉄がきれいに避けるみどりの楕円
「感情のために」106
天皇制の存在への違和感を間接的に示す、上のような歌の方が、短歌という器には合っているのではないかと、個人的には思う。この連作は更に議論されるべき熱量を持つものである。
(3)「感情のために」における本歌取り
ここで付言すると、「感情のために」には、以下のような10年代からの本歌取りが見られる。
今だから、宅間守 と言われてもいまはもういない宅間守
「感情のために」93
これは、斉藤斎藤『人の道、死ぬと町』(2016、短歌研究社)の60~69頁に収録されている連作「今だから、宅間守」に取材しているとみて間違いないと思われる。
八万円くれるというスパムメールその八万の春の土曜日
「感情のために」87
これは、永井祐『日本の中でたのしく暮らす』(2012、BookPark)29頁に収録されている歌「1千万円あったらみんな友達にくばるその僕のぼろぼろのカーディガン」を匂わせる構造となっている。
自殺者の多い踏切 踏切では切符がなくても自殺ができる
「感情のために」87
これは、山田航『さよならバグ・チルドレン』(2012、ふらんす堂)の「鉄道で自殺するにも改札を通る切符の代金は要る」の持つ絶望感をさらに強めたものとして解釈できる。
これらの本歌取りは「感情のために」の批評性を下支えする効果をもたらしている。これもこの連作の見事な点である。
3 まとめ
以上、『予言』で多くの歌が、子どもに対する強制を伴う教育、大人に対する課税など、強制の制度を可視化していることを確認した。そしてそうした制度を可視化すること自体が、制度への抵抗・留保(=静かな抵抗)となる。受動態の使われる歌、受動態的な歌も多くあり、そこからは被害のような感情が滲む。
これらの特徴を備えたものとして、鈴木には以下のような近作もあるので、紹介する。
月がでかくて写真を撮った 殴られずに育った人ともわかりあいたい
「tokyo2020」(133頁、「ねむらない樹 vol.5」(2020)書肆侃侃房)
殴られずに育つ人がいるという"教育制度"を可視化する、静かな抵抗がそこにはある。さらにこの歌の最後では、その制度の中とも「わかりあいたい」という願いを示すあたりに、大きな救いがある。あってほしい。
最後に、『予言』から好きな歌5首を挙げて、評を終えたい。
ザハ案のように水たまりの油膜 輝いていて見ていたくなる
「スイミング・スクール」12
狛犬は昔たくさん作られていまはほとんど作られてない
「仮の橋」39
コストコのでかいカート乗りまわしてそのまま春を迎えにいこう
「江の島2013」43
広い歩道が立派な道に木漏れ日が降ってきてマンションの広告みたいだ
「失業給付」133
まちがいさがしにおけるまちがい でもそれは まちがいさがしにおけるまちがい
「河合塾の夜」146
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