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国境を越えないという選択 (須田悦弘「此レハ飲水ニ非ズ」)

 道中の暑さに生命の危機を覚えながら、来2021年1月に閉館する原美術館(東京・品川)に行ってきた。特別展は「メルセデス・ベンツ アート・スコープ 2018-2020」(9/6迄)。朗読からの想像と実際の空間を混合させる小泉明朗の作品からは、聴覚が他の視覚や嗅覚に干渉してくる恐怖を感じた。

 そして、特別展からは外れるが、記憶に強く残ったのは、常設の、須田悦弘のインスタレーション「此レハ飲水ニ非ズ」(2001年)だった。撮影禁止だったため記憶から再現すると概ねこのようなものだったと思う。(白椿だったかもしれない。画力不足で何か裁判のスケッチのようになっているのはご容赦を)

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 黒タイル貼りの古いトイレのような部屋の奥に、錆びた2本の配管が天井へ伸びており、そのうち1本の折れた途中からは本物のような椿が生えている。枝についている椿の花と、床に落ちた椿の花。水の気配は全くない。

 「これは飲み水にあらず」と告げられた鑑賞者は、かつて水が流れていた過去を想像する。その過去においては配水管に水が流れ、かすかな水の音すらし、椿も活き活きとしている。一方で、現実として目の前にある、ひたすらに乾いた沈黙と、床に落ちている椿の首からは、死の匂いすら漂ってくる。みずみずしい過去と乾いた現在の落差に、鑑賞者は激しい喪失感を味わう。

 僕はこの暗い部屋を覗きながら、たしか椿は日本原産だった気がする、この作品は日本以外で育った鑑賞者にも同じ届き方をするだろうか、などと考えていた。例えば日本にはこういう俳句がある。

赤い椿白い椿と落ちにけり /河東碧梧桐

 たとえこの句を知らなくても、日本に育った者であれば、椿が打ち首のようにぼたぼたと落ちて、地上で茶色くなっている風景を見たことがあるだろう。椿は華やかな花の一つであるが、同時に、死も派手な花の一つでもある。その椿のイメージを共有しているかしていないかで、この「此レハ飲水ニ非ズ」の鑑賞もきっと変わってくる。

 詩歌を書く者として、ずっと美術を羨やんできた。詩歌は外国語に翻訳すると韻律が失われるのに、美術は簡単に国境を超えるから。しかし今回、美術には国境を超えないという選択肢もあるのだと気がついた。そして、国境を超えないことを選んだ「此レハ飲水ニ非ズ」は、日本人の心に鋭く刺さる。その鋭さは日本の詩歌のようである。

 もっと鋭いものを書かねば、と帰り道の凶暴な暑さを歩きながら思った。

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