くるりの「悪魔」試論
1 はじめに
人を傷つけた後悔で、自分は悪魔だと感じることはないだろうか。ここでさらに考える。人は悪魔になるのか、それとも悪魔が人の中に入ってくるのか、と。過ちを避けるには、悪魔が入ってこないようにすればよいのか。それとも自分が悪魔であったならどうすればよいのか。
そんなことをつらつら考えていたとき、くるりの「心のなかの悪魔」を聴いた。そういえば、くるりの歌には「悪魔」がよく出てくる印象がある。多くの歌で歌詞を手がける岸田繁は、どうも悪魔に関心があるようだ。
調べてみると、発表年代順に、ピアノガール(2000年)、ブルー・ラヴァー・ブルー(2007年)、ベーコン&エッグ(2007年)、Lv.45(2009年)、心のなかの悪魔(2020年)の歌詞で悪魔という単語を使っている。長文化回避のため本稿の対象からは外すが、すけべな女の子(2003年)には「夢魔」、丸顔(2009年)には「悪魔くん」という単語が出てくることからも、岸田が悪魔や悪魔のようなものに興味があることがわかる。
悪魔について一人で考えていて行き詰まっていたところだったので、上記5曲の歌詞に現れる岸田の悪魔観を分析しつつ、悪魔の正体に少しでも近づいてみたい。(以下、各曲とも岸田繁作詞。特に断りがない限り、歌詞は全文を引用)
2 ピアノガール
慣用表現で「悪魔に魂を売る」というけど、魂を買った悪魔は悪魔以外になれるのだろうか。2000年のアルバム「図鑑」に収録の「ピアノガール」には「悪魔に血を売った」人物が登場する。(歌詞引用元)
彼は悪魔に血を売ったんだ
歌姫にそそのかされて
こないだから戻らないんだ
胸が痛むんです
人だって平気でだますし
笑顔だって涙だってあふれるさ
何のやり方も全部知ってる
お願い私をだまさないで
彼は平然を装ってる
実は下着もつけてないのに
たぶん彼なら
誰でも快く受け入れるでしょう
人だって平気で剌すかも
頭も回れば体も回るし
何のやり方も全部知ってる
お願い私をだまして
「私」が、悪魔に血を売った「彼」について語る。彼が、「実は下着もつけてない」ことや「何のやり方も全部知ってる」ことを知っている「私」は、彼と深い仲であったことがわかる。そしてその彼は「私」のところへ「こないだから戻らない」という。なぜ戻らないのか。冒頭に注目したい。
彼は悪魔に血を売ったんだ
歌姫にそそのかされて
こないだから戻らないんだ
この「歌姫にそそのかされて」に関しては、以下の解釈が可能だ。
①歌姫がそそのかしたので、彼は悪魔に血を売った。そして彼はこの間から戻らない
②彼は悪魔に血を売った。歌姫にそそのかされたので、彼はこの間から戻らない
素直に歌詞だけを読めば、倒置法を使う解釈①ではなく、上から読み下す解釈②がより自然かもしれない。しかし曲を聴くと、「彼は悪魔に血を売ったんだ歌姫にそそのかされて」と「こないだから戻らないんだ」の間に大きな息継ぎがあり、①のような倒置法読みも生きてくる。
①か②かと法律解釈のように白黒つけるのではなく、これは芸術なので、①も②も両立可能であり、両者が渾然一体となった読みを採用したい。すると、歌姫は悪魔が混ざった存在に見えてくる。「悪魔」じみた「歌姫」に惹かれた彼が戻ってこないのだ。歌の悪魔的な才能に惹かれたのかもしれないし、姫の悪魔的な美しさ(肉体であれ魂であれ)に惹かれたのかもしれない。
ピアノガールにおける悪魔は、才能や美しさを備えて外からやってきて、「私」から何かを奪っていく存在だ。きっと「彼」は創作者で、一番大切なのは創作だったのだろうと想像する。「私」も、一度は「お願い私をだまさないで」と言えているのに最後には「お願い私をだまして」と懇願してしまうあたり、「私」もまた「彼」という悪魔に魅入られているのかもしれない。
3 ブルー・ラヴァー・ブルー BLUE LOVER BLUE
2007年のアルバム「ワルツを踊れ Tanz Walzer」初回限定盤に初収録。少し哀しいラブソング。以下、歌詞を一部抜粋する。(歌詞引用元)
悪魔の囁き
朝日が昇れば みな忘れるよ
君のその歌を
思い出せなくなる
夢の片隅で
なんだかおぼろげな
思い出のメロディー
君はこの歌を少しだけ歌う
涙目のまま 灯り落とすまで
踊り明かそう 甘いブルーラヴァーブルー
涙拭いて眠ろう
loverという言葉は不思議だ。paint(描く)に -er がつくとpainter(画家)になるのに、love(愛する)に -er がつくとlover(愛人)になってしまう。(もちろん恋人の意味での用法もあるし、music-loverのように複合語にすれば愛好家という意味も出てくるが)
この曲に出てくる「悪魔の囁き」は、慣用表現なので掘り下げるのには限界がある。自分の中にいる存在なのか、外から来るものかはわからない。
やや無理を承知でいうならば、ブルー・ラヴァー・ブルーにおける「悪魔」は、そのタイトルにあるように、ひと時を一緒に過ごす恋人か愛人に対する好意に添う存在であり、外部から来るというよりも心の内部にいるものだと言えるかもしれない。
4 ベーコン&エッグ BACON AND EGG
初出は2007年のアルバム「ワルツを踊れ Tanz Walzer」のiTunes Music Storeダウンロード限定予約特典。その後2010年のアルバム「僕の住んでいた街」初回盤に収録。ひたすらベーコン・エッグの美味しさを力説する歌。以下、歌詞を一部抜粋する。(歌詞引用元)
何にだってほりこんでやろうぜ
玉子の黄身 黄身 君
あれは太陽 塩味のベーコンが
こんがりと日焼けして
夏の恋はベーコン&エッグ
海辺にさんさんと照る太陽は玉子の黄身
きみもぼくも汗っかき したたる汗は塩辛い
邪な夏の悪魔は玉子を産み落とす
塩辛い口いっぱいに甘い ベーコン&エッグ
ベーコン&エッグにおける悪魔は、直接的にはフライパンへ卵を割って落とす「きみ」なのだろうが、「産」という字からは、子を産み落とす女性的なイメージも連想される。なお、くるりの歌詞では通常「君」の表記が使われるので、ここで「きみ」と平仮名になっているのは「黄身」と掛ける意図があるだろう。
5 Lv.45
2009年のアルバム「魂のゆくえ」に収録の「Lv.45」は、ゲームをモチーフにする。(歌詞引用元)
時は 遥か何千年もフューチャー
とりあえず 僕は砂漠で待ってる
水の替わりに トックリで呑んでる水銀は
遥か4000℃の世界を超えていく
今は 特大キャンプの中 生きてる
誰かれともなく 集まった末裔の叫び
いつか君の顔 奪ったモンスター
白々しくも 人間の顔してる
奴はなんせ 数千気圧までの真空をあやつり
僕らを殺すモンスター
急げ なぜか僕はここで転んだ
薬草は タダで貰った アレしかないや
夢はここらで 途切れそうだ
回線は 悪魔に切られそうだ
3秒のダイブは 未遂に終わった
3秒のダイブは 未遂に終わった
夢はここらで 途切れそうだ
回線は 悪魔に切られそうだ
一般論としてゲームの登場人物は最大Lv.100であることが多い。この歌の主人公「僕」は、「砂漠で待って」いたり、「水の替わりにトックリで」水銀を飲んでいたり、「タダで貰った」薬草しか手元になかったり、Lv.45の人物としては随分過酷な状況に身を置いている。
その「僕」の敵であるモンスターは、「数千気圧までの真空」を操るというので相当強い。しかも「君の顔」を奪って「白々しくも人間の顔してる」という。
「夢はここらで 途切れそうだ」というので一瞬いわゆる夢オチかと思った。しかし、悪魔が通信回線を切ってくるそうなので、ここでの「夢」は、あの眠っているときに見る不思議な映像を指すのではなく、魔王を倒すとかポケモンマスターになるとかの将来についての希望を指す「夢」らしい。
この曲を聴くと、岸田の歌声は「回線は悪魔に切られ…」でぶっつりと終わる。「僕」が「君」との通信に使っていた回線は、悪魔に切られてしまったようだ。
この「悪魔」が「モンスター」と同一かどうかは断定はできない。一方でそれは、「僕」からは独立していて、外からやってくるもので、少なくとも、回線を切ってくるような厄介な存在なのは確かだ。
6 心のなかの悪魔
2020年のアルバム「thaw」の一曲目に収録。録音自体は2009年。鳥飼茜作画によるMVが公開されている。曲名にもなっている「悪魔」と、鳥飼の絵が持つ美しい暴力性とがうまく調和している。(歌詞引用元)
僕の心のなかの悪魔は 凛と呟いた
どうせすぐに消えて無くなってしまうと
心の隙間に溜まった 塵は青空を隠し
曇った眼で 君を見つめている
街道を歩き疲れて 座る場所もなく
黒いすすで汚れた道標 あと何マイル
嗚呼 夢の中 嗚呼 溺れてく
翼で飛んでいた頃の 記憶を失って
夢見がちな僕のスピードは 赤黒く固まって誰かにすがることしか出来ませんでした
誰かにすがることしか出来ませんでした
僕の心のなかの悪魔は 凛と呟いた
あいつのなかの悪魔は お前を食いつぶすと
君は僕の悪魔と戦い 手負い 泣いていた
どうか少しでも青空が 見えますように
街に溢れる人々の それぞれの行方を
追うように悪魔は 泣いていた
嗚呼 夢の中 嗚呼 溺れてく
翼で飛んでいた頃の 記憶を失って
僕は願いを込めて悪魔を 屋上で解き放つ
こんな顔してたんだと お互い見つめ合った
君はどこか遠くのほうまで 出掛けてしまったな
歩いて行こう 朝が来る前に
曲名から明らかなようにここでの悪魔は心の中にいて、また、歌詞冒頭「僕の心のなかの悪魔は 凛と呟いた どうせすぐに消えて無くなってしまうと」のように、悪魔に人格が与えられている。ここでの悪魔は、慣用表現的に「囁く」のではなく、独り言のように「呟く」。悪魔の呟き。どうも積極的に道を踏み外させる邪悪な存在ではないようだ。
一方で、この悪魔は「君」と戦って傷を負わせてしまっている。また、そのことで「君はどこか遠くのほうまで出掛けて」しまう。岸田繁は、セルフライナーノーツの中で次のように語る。
ここで歌われている「悪魔」とは、誰かにとっての自分自身であり、誰かを知らず知らずのうちに傷つけてしまっていたことへの懺悔であり、あるいは自分自身を縛り付けていたトラウマや思い込みのことなのかもしれません。
「悪魔」とは単純に敵視するもの、ではありません。当然のごとく存在するもので、普段はその存在を隠蔽し、悪魔自身も、気付かれないようにじっとしています。
重要な局面において、人間は選択を迫られることがあります。それが正しい選択だったかどうかは、選択した本人ですら、知り得ることはないでしょう。そういう時にはきまって、悪魔は現れます。時に災難や病魔のかたちをして現れるものもあれば、人のかたちを借りて現れるものもあります。どんな場合も、人が自ら生み出したそれと、タイミングを見計らうことなく対峙することになります。
歌詞の最後、「僕」は悪魔を屋上で解き放って、見つめ合う。そして「僕」は「どこか遠くの方まで出掛けてしまった」君と仲直りをするため探しに行く。悪魔に囁かれたからといって全責任を悪魔に負わせるのではなく、自分の中の悪魔とも「君」とも向き合う「僕」は誠実だ。歌詞後半の、
街に溢れる人々の それぞれの行方を
追うように悪魔は 泣いていた
嗚呼 夢の中 嗚呼 溺れてく
翼で飛んでいた頃の 記憶を失って
僕は願いを込めて悪魔を 屋上で解き放つ
こんな顔してたんだと お互い見つめ合った
からは、悪魔への同情や親しみさえ感じさせる。岸田も「「悪魔」とは単純に敵視するもの、ではありません」と語っている。堕天使という言葉があるように、悪魔は、元々は神に仕える者であったが神に背いたために地上に堕とされた、という説もある。
「心のなかの悪魔」における悪魔は、決して完全に邪悪な存在ではなく、人のように傷つき、泣き、解放される存在として描かれている。
7 まとめ
各曲における悪魔像をまとめると以下となる。
(1)ピアノガール(2000年)における悪魔は、才能や美しさを備えて外からやってきて、「私」から何かを奪っていく存在。
(2)ブルー・ラヴァー・ブルー(2007年)における悪魔は、ひと時を一緒に過ごす恋人や愛人に対する好意に添う存在。心の内部にいる存在か。(3)ベーコン&エッグ(2007年)における悪魔は、フライパンへ卵を割って落とす君の比喩。子を産み落とす女性的なイメージも連想。
(4)Lv.45(2009年)における悪魔は、「僕」からは独立していて、回線を切ってくるような厄介な存在。
(5)心のなかの悪魔(2020年)における悪魔は、決して完全に邪悪な存在ではなく、人のように傷つき、解放される存在として描かれている。
これらの共通部分を見れば、岸田繁にとって悪魔とは、才能や独立した人格を持ち、必ずしも邪悪なものではなく、人の心を出入りする存在である、と言える。
なお、これは悪魔論にとどまらずくるり論となるが、歌詞で数年ごとに悪魔を扱っていた岸田が、2010年以降、悪魔に言及しなくなる(「心のなかの悪魔」発表は2020年だが録音は2009年)。これは、岸田が自分の心から悪魔を解き放つことができたからだと解釈できるかもしれない。一方、岸田が2011年の東日本大震災後、相馬を「soma」で、石巻を「石巻復興節」で歌うなど被災地に多大な関心を寄せていること、東京から京都へ拠点を移したことなども関係しているかもしれない。
本稿の問題意識に戻ろう。冒頭で「人は悪魔になるのだろうか、それとも悪魔が人の中に入ってくるのか」と問いかけたが、岸田によれば、どうやら後者のようだ。全てを悪魔のせいにするのではなく、心を出入りする悪魔とも、傷つけてしまった人とも向き合う態度が、きっと、大切なのだろう。人を傷つけることを繰り返さないためにも。
(2020年6月19日 波の聴こえる街にて)