ぐるぐる思考型のわたしだったからこそ瞑想が必要だった
三昧琴(ざんまいきん)の名前の由来である「三昧(ざんまい)」とは、「ひとつのことにとことん集中する」「無になって打ち込む」などの意味を含む仏教用語だそうだ。
自分で奏でながら、三昧琴の響きに聴き入っていると時間を忘れる。
気がつくと30分、1時間と1時間と経っていることもよくある。
だが、何か考えごとから離れられずに奏でると、その途端に響きは硬くなる。自分の内側がそのままアウトプットされていく楽器なのである。
もともとが、楽譜もメソッドも存在しない楽器なのだから、とことん自分と向き合っていくしかない。
昔、ある方から「せっかくなら、プロの音楽家の指導を受けてみては?」との助言をいただいたこともあったけど、(生意気ながら)それもちょっと違うな…と思って見送ったのであった。
実際に三昧琴と向き合いながら、自分で気づくしかない。そんな気がしていた。
20枚以上の三昧琴を持っているのだから、時々、「あ、このメロディ綺麗」と思うこともある。
しかし、再現しようとするとぎこちなくなる。そこはわたしがプロでなく、アマチュアゆえの技術力の無さゆえかもしれない。
でも、大切なことはそこではない、という思いもある。
目の前にある三昧琴だけに向かい合い、楽器と対話をするように奏でる。
ひとつの響きと、その余韻に耳をかたむける。
響きと響きが重なった時に生まれる新しい音の波を迎え入れて楽しむ。
外向きのことを考えるよりも、そういったわたしと、三昧琴だけの世界をとことん楽しんでみようとストンと心が落ち着いた頃から、「今、ここ」に近づけているような気がした。
三昧琴を奏でることは、わたしにとってはそのまま瞑想だ。
元々は、常に頭の中が忙しいタイプの人間だったわたしが、三昧琴と向き合うことでその時だけは音の波の世界に身を置くことができる。
大袈裟でなく、三昧琴は、神様からのわたしの人生へのプレゼントだと思っている。
Youtubeにはたくさんの動画をあげているけど、その時その時の自分が思い出されてそれはそれで面白い。
こんなこともありました。