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力への意志

 キャンパス内の庭園で、待ち合わせの相手を探す。照り映える芝生の青に春を感じる。
 髪をさらう風が冷たくなってきた。もう陽射しが傾いているのだろう。学生同士のお喋りもあまり聞こえてこない。
 レジャーシートに座っている人物が、こちらに気づき手を上げていた。
「フアン!」
 紺色のジャケットとスラックスの上下に白の襟付きシャツ。そつのない彼らしい。
「ヒロ、久しぶり」
 ブーツを脱ぎ、彼の隣に座る。
「どう、新しい学校には馴染めてる?」
「茶化してるでしょ。
 同じ大学の同じ研究室で、B4からM1に上がっただけ。環境はほとんど同じ。私の状況に対する認識の正確性を疑わざるを得ないよ」
「心配なんだよ。慣れない異国の地で寂しい想いをしているんじゃないかってさ」
「私の方が約半年東京生活長いはずじゃなかった? 今は近代国家として統合されていると言っても北海道と東京は文化的にも言語的にも別の国と呼んで差し支えない隔たりがある」
「相変わらず論旨に隙が少ないなあ。
 あえて瑕疵を指摘するなら、北海道は日本の他の地域にルーツがある人たちが開拓していった土地だし、東京も江戸時代は参勤交代で来ている武家の関係者が人口の過半を占めていて、実は言語的な差異はさほど大きくないのではないかと思うけどね。少なくとも北海道も東京も数百年以上前からある土着の言語を住民の多くが使い続けている、という土地柄ではない」
 彼が上体を後ろに傾け、両腕で支えながら足を投げ出す。彼が緊張をほぐしたい時に、よく選ぶ姿勢だ。
 草のほのかな香りがした。
「ヒロは最近どうなの? 1年の院生の経験から、何が役に立ちそうなアドバイスがもらえれば有難い」
「そうだな。
 周りが優秀でしんどいとは感じてる。いや、客観性が高いわけではなくてそう見えているだけもしれない、とは頭の片隅で考えてはいても、しんどいね。首席はそういう思い、してるの」
「そんな昔の、正解の範囲が狭い世界での成果に、今は興味ない」
「結果が出たの、2カ月前でしょ。前だけ見過ぎ」
 彼が両掌を上に向けて、肩をすくめる。
「そうね。質問に答えるなら、確かに周りが優秀でしんどい、という感覚はある。アカデミアの世界では、正確さと新奇さが求められているけれど、本来、正確さと新奇さは両立する難易度が高い。両方とも高水準に保って成果を出し続ける人たちを見続けると、他の研究者に必要とされるいかなる資質も、私には足りている気がしなくなってくる。博士に進んだり、研究職に就くことへのためらいが大きくなってきているのは間違いない」
「自分については、主観を信用するってこと? 周りの評価はどうなの?」
「分からない。褒められることはあるけど、社交辞令と区別する手段がないから」
「まあ、フアンも情緒で動く人間みたいで良かったよ」
「最近、痛感する。厳格な規則の中で、パフォーマンスを高めることばかりしてきたんだって。スポーツ選手にでもなれば良かったかもね」
「工夫して成果を出す能力は証明できているわけじゃん。あまり卑下するなよ」
「工夫ね。たいしたことはしていないつもりだけど」
「才能のあるやつは、自覚なくやりがちだからそう言うんだよな」
「才能、あったのかな。私が小さい頃、住んでいたのは小さな町だった。小さい頃から周りの大人には『私たちのようになりたくないなら知識分子になれ』と言われて続けてきた。
 日本語を受験科目に選んだのも、受験に有利だったからってだけ。それでも私は母国の全国試験で満足いく結果を出せなかった」
「それで日本語が出来るようになってしまえば、日本の大学受験は子ども遊びだった、と」
「そこまで言ってなかったはず。大げさに言わないで」
 沈黙。講堂が目に入った。この大学のシンボルとして、よく資料やウェブサイトに登場する。入学式以来、足を踏み入れていないことを思い出した。
「そういえば、前から気になっていたんだけど」
 彼の瞳が私を見据える。表情の変化も、声色の変化も見透かされている気がしてしまう。
「なんで最初に私に話しかけたの」
「いやあ、覚えてないな」
「入学したばかりの頃は、化粧もしてなかったし、髪も手入れしきれてなかった。今、思い返しても恥ずかしい」
「だからこそ、かな。話してることも髪の毛の色も着ている服も、見ているだけでまぶしく人には話しかけづらかったのかも」
 元々早口の彼が、さらにまくし立てる。私のわずかな表情の変化に感づいたのだろう。
「見渡す限り田んぼと山で、仕事は家の農業を継ぐか役所と農協と友達のお父さんのやっている会社くらいしか選択肢がない世界で生きてきんだよ。都会の高校から来ている学生がまぶしく見えるのも仕方ないよ。話にもついていけなかったし」
「私がそもそも日本に来たのは、私にとって敗者復活戦。日本に来てからも、修士までは学費の安い日本にいて、博士課程はアメリカかイギリスに行くつもりだった。踏み台にするつもりだった」
「今は?」
「分からない」
 何かに頼ろうとしているような気がした。彼は私の方を見ず、正面を見据えていた。
「自分の感性で判断した経験が乏しいからかもね」
 小さな声だったはずが、やけにはっきりと聞こえた。
「そろそろ行かないと」
 二人そろって立ち上がり、靴を履き直した。彼がレジャーシートを片付けているのを眺めている間も、頭はさっきの彼の言葉の意味を少しでも理解しようとしていた。しなければいけないような気がした。
「じゃあ、また」
 彼が私を見据えて手を上げる。視線を外し、歩き出した。
「ヒロ」
 考える先よりも先に声が出ていた。全ての行動を緻密に組み立てている私には、珍しいことだ。
 彼は私の方に向き直る。やっぱり律義だ。
「レジャーシートの色、ほとんど芝生と同じ」
「そうだね」
「見つけづらいでしょ。少しは探す相手のことも考えてよ」
 彼がおどけた表情をつくる。
「今のは感性から来た発言?」
「そうかもね」
 彼は私を一瞥することもなく歩み去っていった。
 再会するのが当然であるかのように。



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