水泡に帰す水泡
仕事から帰ると、パン・メーカーから景品のコップが届いていた。毎日食べているパンについているシールを50枚地道に集めた成果だ。
懸賞には確実に当たるものしか応募しない、と決めている。確実に手に入るものにしか興味を持たないことにしている、と言った方がいいかもしれない。
シャツのボタンを外し、居間のソファに腰を落ち着ける。
箱を開けると、ガラスのコップに自分が小学生の頃に人気だったキャラクターの顔が描いてある。
当時は彼が出ているアニメを毎週見ていた。毒舌を帯びた鋭いツッコミで、よく笑わせてもらったのを思い出した。
そうだ。
冷蔵庫に一本だけ貰いモノのクラフト・ビールがあったはずだ。
コップの横にビールを置きながら、適当にタブレットでザッピングをして観る動画を決定。缶を開けてビールを注ぐ。
ガラスの透明感がビールの黄金の輝きを引き立てていた。
もう無理。我慢できない。
コップを持ち上げ口元に寄せていく。
その時だった。
不意に聞き覚えのない声が聞こえてきた。
最初はタブレットから流れている動画から聞こえてくるのかと思ったが、どうやら発信源が違う気がする。
「ほんま美味いな、このビール。あんさん、いつもこんなええもん飲んどるんか?」
コップを目線の高さまで持っていくと、ガラスに描いてあるキャラの顔が表情豊かに動いている、ように見えた。
状況に対する違和感に意識が支配される。
視線を上、右、下、左、と素早く送る。眼科の診察時にやらされるアレだ。いつものルーティンのおかげで少しだけ状況を分析する冷静さが戻ってきた。
目前の絵は流暢に話しているのだ。それなら会話も通じるかもしれない。
キャラクターの絵に話しかける抵抗を振り払い、口まわりの筋肉をコマンドして動かす。
「あのーーもしかして、私に話かけているのでしょうか」
「当たり前やないか! あんさん以外にこの部屋に誰もおらんやないか! 自分、仕事から今帰ってきたとこやろ? 仕事してる時もぼさっとしてそうやな」
初対面なのにひどい言われようだ。やはりあのキャラなのかもしれない。
状況は不可解極まりない。とはいえ、ひとまず目前の問題を解決せねばなるまい。
「今、美味しいビールを飲もうとしているんです。香りや味に集中したいので、ちょっと静かにしていていただけますか」
「えらいこと言わんといてや。わしはしゃべってないと、すぐに元気がなくなってしまうんよ。堪忍してや」
心なしか声のトーンが落ちていたので、強く言いにくくなった。
どうしようか。
不測の事態による精神的負荷を必死に制御し次の行動を思案する。
視野の端に動き。
何かが彼の口から流れていた。正体に気付く。絶望。
黄金の輝きと純白の泡ーークラフト・ビールが彼の口から流れ出ていた。
どうやら彼が口を開くたびに、口からコップの中身が出てくるようだ。
メカニズムには全く当たりがつかないが、現実の問題である以上、対処するしかない。
僕はコップをつかんで歩き出した。
負債だ。僕にとってこのコップは負債だ。僕の飲みもの、という資産を台無しにする負債なのだ。
「あんさん、まさかーー」
声が恐怖に震えているが、惑わされてはいけない。
こうしている間にもクラフト・ビールは滴一滴と失われていく。
「せっかくテレビ画面からシャバに出れたのに、そんな殺生なーー!」
結局僕がクラフト・ビールを口にすることはなかった。一滴たりとも。