右と左の言葉の用法について

 「リベラル/左派」と「保守/右派」とは、言葉の用法が決定的に違うんですよね。リベラル/左派はマンスプレイニング、トーンポリシングといった主には外来語のキータームを多用し、キータームから社会を捉えようとする。他方保守/右派は実感や経験から社会を捉えようとするのでキータームをあまり使いません。これは今にはじまった話ではなく、歴史的な左右の区分であり、リベラル/左派の普遍的な性格に規定されています。
 普遍的とはそれこそフランス革命に端を発するような、人間を国や民族による個別的な存在ではなく全体性で捉えようとすること。他方保守派・右派はフランス革命を批判したイギリスの思想家エドモンド・バークのように、個別的経験にもとづく伝統重視の立場から社会を捉えようとする。
 もっとも、こうした区分はそう単純ではなく、どちらかといえばリベラル派に区分されるハンナ・アレントは著書『革命について』においてロベスピエールを「弱者に対するcompassion(共感)こそが大粛清をもたらしたと非難しているし、カルチュアルスタディの元祖であるイギリスのマルクス主義者レイモンド・ウィリアムスは著書『文化と社会』のなかで、エドモンド・バークのある側面を評価したりもしている。国や民族を超えた世界共通(グローバル)の概念や言葉をつくりだしてきたのはリベラル/左派の側だから、社会科学や自然科学の基本概念はイデオロギー的にもリベラル/左派が軸になっている。他方で世界共通(グローバル)な経済と文化をつくりあげたのは資本主義なわけだから、われわれがいま生きるグローバリズムの時代は、言語領域においてはリベラル/左派が、経済領域においては保守/右派とより親和性が高い資本主義が支配するという関係になっているわけです。左派の概念を駆使しながら資本主義を解剖した19世紀の思想家マルクスが今でも言及されるのはそれゆえなのです。
 でもわれわれが生きている現実世界は、このリベラル/左派的なものと、保守/右派的なものが「同居」しています。われわれはリベラル/左派から提供された言説や概念を使いつつ、保守/右派が主に提供する経験や実感にもとづいて暮らしを営んでいるからです。たとえばオリンピックで自国の選手を応援するのはリベラル/左派の言葉ならば「ナショナリズム」であり、保守/右派言葉ならば「自然な感情」ということになります。前者は分析的、後者は体験的なものですが、現実世界では僕のように理念は左派でも自国の選手を応援する人はたくさんいるはずです。このように現実世界は2つの理念が同居して構成されているのです。
 ところが近年のリベラル/左派と保守/右派はこの同居ができなくなっているのです。リベラル/左派はますます主に外来語の言葉に依存し、保守/右派はますます実感に依存しています。こうなるとどちらの理念も生活世界から乖離し、極端なイデオロギーとみなされてしまいます。ウォーク左派・右派、限界左派・右派はまさにこの生活世界から理念が乖離したところから発生したといえます。
 ですから僕は、ふたたびこの「同居」を回復しなければならないと思っています。生活の実感のなかから言葉の普遍性を回復していく作業がいま必要です。それは「中道」を目指すのではなく、言葉と実感が結びついたときはじめて大衆的な民主主義が生まれた――かつての左翼は、労働者の言葉、母の言葉、農民の言葉を大切にし、それ普遍的な言語にしようとしていました――からです。与野党問わず、いまのリベラル/左派、保守/右派を問わず言葉の貧困さ、生活実感のなさは極みに達しています。それがポピュリストが庶民の心をつかむ原因をつくりだしていることにこそ、注意がむけられるべきではないでしょうか。

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