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[短編]まくら工場の秘密

 そのとき私は、まくら工場で働いていた。

 その工場は、陽あたりのよい丘の上にあった。そこで作られたまくらは、派手に宣伝をしているわけでもないのによく売れた。
「よいまくらは、存在を主張しません。そこにあることを忘れさせるのです」
 出勤初日、老年の工場長はそう言って私に検針の仕方を丁寧に教えた。
 仕事をする際は白い帽子に白いマスク、白衣を着用すること。ベルトコンベアで流れてくるまくらはやさしく静かに持ち上げること。まくらの表面に爪を立ててはいけないこと。指の腹で丁寧に隅々までまくらを撫でること。指先に異変を感じたらすぐに報告のベルを鳴らすこと。隣の人とは必要以上の会話をしないこと。
「以上の就業規則を遵守できない場合、すぐに辞めていただきます」
 工場長は穏やかに微笑み、静かに話を締め括った。

 この工場で作られるまくらは、たったひとつに限られる。雲のように白くふっくらとした、縦三十センチ、横五十センチほどの大きなものだ。
 初めてまくらを手に取ったとき、その軽さに驚いた。見回りに来た工場長に中身を尋ねると、工場長は曖昧に笑った。
「それは企業秘密です。検針の方々にも、教えることはできません」
「この工場でも、知っている人は少ないのですか」
「その通りです」
 私は無言で頷き、大人しく仕事へ戻った。

 検針の仕事場では皆が黙々とまくらを手に取り、愛おしそうにそれを撫でている。しかし、静寂な空間で規則正しく流れる白いまくらを眺め、単純な作業に従事していると、瞼が重くなるのは必然であるらしい。耐えることのできない睡魔に、否応なく仕事を辞める人も多いと聞いた。
「最短は一日。仕事を始めて一時間後には、ベルトコンベアに突っ伏して寝ていたわ」
 昼休み、勤続十年だと言う彼女はコッペパンを噛みしめながらそう話した。彼女がコッペパンを口に運ぶたび、目もとの皺が上下する。
「まくらに何が入っているのかご存知ですか」
 私はフランスパンを口に入れると、眠気を覚ますように何度も噛んだ。彼女はコッペパンを食べ終えて缶の紅茶を飲むと、ふうと一息ついた。
「知らないわ。でもそれを知らずにいて、不都合だったことはないわね」
 私は水筒から珈琲を注いだ。豊かな香りを含んだ湯気のおかげで、ようやく目が覚めた。
 それからは毎日、水筒に珈琲を詰めて出勤した。黒い珈琲の香りは白い睡魔を撃退し、眠気が覚めると、作業に密かな楽しみを見出だせるようになった。
 まくらを撫でる指先から、それを縫った縫製工の性格がわかる。たとえばあるカバーは、とてもきめの細かい丁寧な縫製がなされていた。一方で、飛び出た糸くずをこっそり隠した乱雑なものも稀にある。一見すると同じようでも、中身の詰め具合、糸の綴じ方、ひとつひとつに特徴があり、私はまくらのカバーから工員の性格を想像し、壁向こうで働く縫製工たちのことを思った。

 働き始めて三か月も経つと、私の指は吸いつくように、すっかりまくらに馴染むようになっていた。私の指は、まくらを撫でるためにある。そう思い始めた矢先、私はあることに気がついた。指先の薄い皮膚を通して、まくらに入っているものが少しずつわかるようになってきたのだ。
 それは生きものだった。大人しくしていても、時折ごそりと動く。柔らかく温もりがあり、怯えているのか、ひっそりと息をひそめている。たまに、怯えるあまり暴れたように動き回るものがいて、私はそうしたまくらを見つけると、すぐに報告のベルを鳴らした。すると奥から縫製工がやってきて、無言で頭を下げ、静かにそれを回収していった。
 私はまくらの僅かな異常も見逃さなかった。みるみる業績が上がり、その仕事ぶりが工場長の耳に届くと、彼はわざわざ私のもとへやってきた。
「これほど繊細な指先を持つ人は、十年にひとりの逸材です」
 工場長はそう私のことを褒めたが、私は「はあ」と気のない返事をした。どれほど業績を上げても、それが給料に反映されたわけではなかったからだ。
「あなたが長くこの仕事を続けてくれたら、また別の仕事も考えましょう」
 去り際、工場長はそう言った。私は首を傾げ、一応、頭を下げておいた。

 それから静かな工場でまくらを撫でる日が数か月続き、気がつくと、この工場で働くようになって一年が過ぎていた。
「あなたがここで働いて、今日で一年になります」
 いつもと変わらず、黙々と仕事をこなす私に声をかけてきた工場長は普段と違い、厳かな雰囲気をまとっていた。いつもは掛けていない、レンズの小さな老眼鏡をかけているせいかもしれない。
「あなたのような人に、いつまでも検針の仕事をさせるのは惜しい。あなたには、この工場で最も大事な仕事をして頂きます」
 工場長は私のことを、今まで立ち入ることのなかった工場の奥へと誘った。

 検針場の隣にある縫製場では、ミシンの音がけたたましく鳴り響いていた。壁一枚隔てて隣にある、検針場の静けさが嘘のようだ。
 縫製場の工員もまた、検針場の工員と同じように白衣を着て、白い帽子と白いマスクをつけていた。工員の半分はまだ何も入っていないまくらのカバーを縫い、もう半分は既に何かが詰められたまくらの口を縫っていた。縫いかけのまくらの口から中身が覗けはしないかと目を凝らしたが、ちらりと白いものが見えるだけで、それが何かはわからなかった。
「ミシンは得意ですか」
「いいえ」
「ご安心なさい。あなたの仕事は、これではありません」
 工場長はミシンをかけている工員ひとりひとりに「お疲れさま」と声をかけたが、工員はミシンから目を逸らさず、軽く頭を下げるだけだ。
「皆、一生懸命やってくれています」
 工場長は、満足そうに微笑んだ。

 縫製場を抜けて、長く静かな廊下を歩く。麗らかな陽射しがガラスを抜け、床に光の細波を作っている。工場長の歩みはとてもゆっくりしたもので、私たちは舵を無くした小舟のように波間に漂い、すこしも前に進まない。
「眠りとは何だと思いますか」
「天が人間に与えた、最初の幸福でしょうか」
「そうだとしたら、大変素晴らしい」
 工場長は僅かに微笑み、光の細波に泳ぐ鳥の影に視線を落とした。

 最奥の部屋へ辿り着くと、工場長は重い扉を静かに開いた。
 そこは検針場よりも静かな場所で、部屋には誰ひとりいなかった。機械も、ミシンも、ベルトコンベアもない。四方が白い真四角の部屋の中央に、ぽつんと小さなベッドだけがあった。
「あなたは、まくらに何が入っているのかご存知だ」
「推測に過ぎません」
「その推測をお聞かせ願えるかな」
 私は少し考えて、はっきりと答えることにした。
「おそらく、ひつじです」
 私は、指先のまくらの感触を思い出していた。ふわりとやわらかな心地に、怯えたように震える体温。強く押せば余計に怖がるので、私はいつも表面だけをさらりと撫でるようにして、まくらに負荷をかけないでいた。
 長い沈黙のあとに、工場長は目を閉じて深く頷いた。
「検針場でそのことに気がついたのは、あなたで三人目です。そしてあなたの新しい仕事は、そのひつじを捕まえてくること。彼らは、本来どこにでもいるのです。それが見える人間と、見えない人間がいるだけで」
「私には、ひつじが見えたことはありません。指先から感じるだけです」
「それで十分。いずれ目に見えるようになります」
 そして工場長は、私に新しい給料の額を提示した。そこには、検針の報酬と比べものにならないほど高い金額が書かれていた。
「捕えたひつじは、この部屋へ連れてきてください。ここは仕上げたまくらを実際に使い、そのひつじが本当にまくらに相応しいかどうか、寝心地を試す場所です。あなたは、うちのまくらを使ったことがありますか」
「いいえ、まだ」
「それでは一度ここで眠ってごらんなさい。好きに眠って、好きに帰って構いません。今日はそれで仕舞いにしましょう。私はこれで失礼します」
 そう言い残して、工場長は部屋から出て行った。
 私は作業着を脱ぎ、靴を脱いだ。裸足になると、白いベッドへもぐりこむ。マットレスはほどよい硬さで、掛け布団はやわらかい。頭をまくらに預けると、途端に瞼が下りてくる。耳元で何か囁く声がして、それが何かを考える間もなく眠りへ落ちた。

 私には工場のまくらがひとつ与えられ、翌日からひつじ探しが始まった。しかし私にはひつじが見えない。気配を感じることしかできず、それを捕えるのは容易ではなかった。
 夜ごと、まくらのなかで囁く声にも耳を澄ました。ところが聞こえてくる鳴き声はどうにも悲しげな様子で、聞けば聞くほど、遠い砂漠をひとりで歩いているような、心細い気分になるのだった。

 そうして数日を過ごすうち、ヒヤシンスの陰にある、ひつじの気配に気がついた。目を凝らしても見えないが、たしかに何かがそこにいる。それは十センチにも満たない小さな気配で、のんびりとくつろいでいる雰囲気だった。
 一日目はひつじに気がついていないふりをして、二日目はそっとヒヤシンスの枯れた葉を摘んで様子を窺った。そして三日目の朝、私は決心してそのひつじを捕えることにした。
 用意した虫籠を手にヒヤシンスへ近づくと、静かに眠る小さな気配を、そっと土ごとすくいあげる。掌の上には土しか見えないが、小さなひつじが目を覚まし、何事かと慌てる気配があった。
 ひつじが完全に覚醒する前に、私は籠へとそれを移す。籠の中の気配はおろおろと、自分が何をされたのか、まったくわからない様子だった。

 その夜のことだ。私は捕えたひつじをまくらもとに置き、私のまくらに頭を沈めた。明かりを消してしばらくすると、まくらからひつじの鳴く声が聞こえる。すると虫籠からも、同じようにひつじの鳴く声がした。
 どうやらまくらにいるひつじが、虫籠のひつじに何かを話して聞かせているらしい。虫籠から怯えたような、ひと際大きい鳴き声が聞こえてくると、彼らが何を話しているのか気になって、その夜は眠ることができなかった。

 翌日、例の四角い部屋で、私は捕えたひつじを工場長へ差し出した。
「立派なひつじです」
 工場長は満足げに虫籠のなかを眺めた。籠のひつじはすっかり諦めたように、じっと身をひそめて大人しくしている。
「さっそく、まくらに入れてみることにしましょう」
 工場長は羽毛と綿と僅かなそば殻が入った、ジッパーで開け閉めのできるまくらのなかに、籠から取り出したひつじを手際よく入れた。そのときひつじが悲鳴を上げたような気がしたが、工場長は構うことなく口を閉じた。
「試しに、眠ってごらんなさい」
 私はベッドへもぐりこみ、まくらに頭を沈めて目を閉じた。新しいひつじが入ったまくらは、申し分なく心地よい。ただ、微かに聞こえてくるひつじの鳴き声が、細い針となって私の心をつついた。
「最高でしょう」
 工場長には、何も聞こえていないらしい。私はそっと頷くと、静かにベットから這い出した。

 一度ひつじを捕えた私はコツを掴み、次々にひつじを捕えることができた。彼らはたしかに、どこにでもいる。その習性は総じて、何かの陰を好む。
 ひつじがいると思われる、感じのよい物陰というものがある。それは植物があり、ほどよく陽のあたる風通しのよい場所だ。彼らは大体そこでくつろぎ、たまに草を食んでいる。
 気配しか感じることはできないが、私はその気配を察知する感覚が格別に優れていたらしい。他のひつじを捕える工員よりも、ずっとたくさんのひつじを捕えることができた。
「私の目に狂いはありませんでした。あなたは十年、いや二十年にひとりの逸材です」
 工場長は皆の前で、私のことを特別に褒めた。そして、成果をきちんと報酬にも反映した。その年の賞与は、私の予想を遥かに超えた額だった。

 しかし順調にひつじを捕える生活を続けるうちに、それまで考えないようにしていたひとつの疑問が次第に大きく膨らんでいった。
 捕えられ、まくらに入れられたひつじはその後どうなるのか。私のまくらからは、相変わらず悲しげな鳴き声が聞こえてくる。
 それを工場長に尋ねると、工場長は涼しい顔で、ひつじはまくらが破かれない限り永遠に生き続けるのだと答えた。
「永遠に?あの、白いまくらのなかで?」
「そう、永遠に。彼らはそこでぐるぐると回りながら、自分を数え始めます。それが、人を眠りへと誘うのです」
 私はこの四角く白い部屋のなかで、ぐるぐると回りながら自分を数える想像をした。それは果てしなく、きりがなく、絶望にも近いような気分だった。
「彼らは畜生ですから。所詮、詰められるワタに過ぎない。気にすることはありません」
 私の虚ろな目を見た工場長は、明るく軽やかな声でそう答えた。

 まくらの秘密を知ってから、私は私のまくらで眠ることができなくなった。眠ろうと目を閉じても、まくらが気になって仕方がない。
 相変わらず、まくらからは切なげな鳴き声が聞こえてくる。それが私のまくらに入ったひつじの自分を数える声なのだと思うと、もういけない。
 私はベッドから飛び出すと、毛布を持ってリビングのソファにうずくまった。そこで舟を漕ぎながらも、完全な眠りに落ちることなく朝を迎えた。
 ひつじの気配を感じても、捕える気にはなれなかった。雰囲気のよい物陰は、そっとしておくのが常になった。給料は右肩下がりに落ち、以前とまるで違う私の働きに、工場長は憐れみの目で声をかけた。
「誰にでも、スランプというものがあります」
 私は曖昧に頷き、薄い賞与の袋を受け取った。

 昼も夜も、ぼんやりとしてはっきりと目の覚めない日が続いた。私は眠りの指針をなくして、常に眠いという状態に陥っていた。
 ある夜、私はベッドの上で膝を抱えてまくらを眺めた。白く大きなそのまくらを見ていると、ひとつの衝動が湧き上がった。
 ほこりをかぶった裁縫箱から古い裁ちばさみを取り出すと、ためらうことなくまくらを切り裂いた。布の破れる音とともに、なかから羽毛が飛び出してくる。羽毛と綿をかきわけて、その奥にあるひとつの気配を取り出した。
 気配は気配のままで、やはり私の目にひつじは見えなかった。しかし掌の皮膚を通して、そこにひつじがいるとわかる。それは久々に触れる外の空気に怯え、しばらくぶるぶると震えていた。
 私は検針場で働いていたときのことを思い出し、さらりとやさしく、指の腹でひつじを撫でた。しばらくそうして撫で続けると、ひつじは落ち着きを取り戻し、穏やかな鳴き声を上げた。それは今までに聞いたことのない、明るいひつじの鳴き声だった。
 ひつじを掌に載せたまま、窓を開けて夜空を見ると、くるみボタンのような満月がぽっかりと浮かんでいる。空気はとても澄んでいて、月明かりが遠くまで道を照らしていた。
 私は窓から腕を伸ばし、草むらのなかにひつじを下ろした。ひつじは何度もそこをうろうろしたかと思うと、思い出したように道の向こうへ駆け出した。  
 その途端、ひつじは私の掌に乗るほどだった大きさから、本来の大きさに戻ったようだった。私は窓辺で、揚々と夜のなかに走ってゆくぼんやりとした白い影を、見えなくなるまで眺めていた。

 それから数日後のよく晴れた朝、私は真新しく光る裁ちばさみを手に、工場の前に立っていた。出勤時間は過ぎていて、工場では既に仕事が始まっていた。
 深呼吸をすると、勢いよく工場の扉を開いた。
 
 私は裁ちばさみを滑らせて、検針場にあるまくらを片端から切り裂いた。
 ある者は悲鳴を上げ、ある者は工場から逃げ出した。切り裂いたまくらから羽毛と綿とそば殻が舞い上がり、検針場は、まるで嵐の雲に包まれたようだった。
 その嵐のなかで、私は初めてひつじの姿を見た。まくらから飛び出したもこもことした白い塊は、大きくなると群れをなし、嵐にまぎれて、開いた窓から、扉から、勢いよく外へ飛び出してゆく。
 ひつじが見えない工員たちは、私の気がふれたと思ったのだろう。誰も私に近づくことさえできず、青い顔をして様子を眺めていたが、やがて騒ぎを聞きつけた工場長が、検針場へとやってきた。
「あなたは自分が何をやっているか、わかっているのですか」
 私は微笑み、もちろんだと言った。
「あなたは、眠りは天が人間に最初に与えた幸福だと言ったのに。私たちは最上の幸福を提供しているんだ。それなのに、なぜ」
 工場長は雲をかきわけ、おそるおそる私のもとへ近づこうとしたが、私が裁ちばさみを振りかざすのを見て、それ以上寄って来ることはしなかった。
「何かの犠牲の上に成り立つものが、果たして幸福と呼べるのでしょうか」
「欺瞞だ。犠牲の上にしか、幸福は成り立たないのだよ」
 私はまくらを引き裂くことをやめない。
「いっそ殺して入れるのなら、まだ納得ができたのです」
 そのとき一匹のひつじが、私の足元にすり寄って来た。それは、私が初めて逃がしたあのひつじだった。工場まで、仲間を迎えに来たらしい。挨拶をするように一声鳴くと、私から離れ、群れに紛れて見えなくなった。
 私は指により一層の力を込めると、びりびりと布を引き裂いた。すると工場長は意を決したように、私のことを止めにかかった。それに気がついて再び裁ちばさみをふりかざすと、ためらうことなく工場長の胸元を切り裂いた。
 はさみは工場長の作業着を一枚切り裂いただけで、体を傷つけたわけではない。しかし工場長は悲鳴を上げることも忘れ、目を見開いて後ろに倒れたまま立ち上がることはなく、諦めたように呆然と、逃げるひつじを見つめていた。

 工場にあるすべてのまくらからひつじを逃がすと、私はその場に裁ちばさみを捨てた。嵐が去り、静まり返った工場から外に出てあたりを見回したが、既にひつじの姿はどこにもない。
 今夜はきっと、まくらを高くして眠れるだろう。私は丘を駆け下りて、爽やかな風を吸い込んだ。


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