小夜と珈琲2

[短編]小夜と珈琲

 二年前から、ある地方銀行の保養所となっている小さな山小屋で働いている。

 小屋は春から秋の間だけ保養所として使われ、管理人は網野さんという初老のご夫婦が務めている。既に還暦を迎えている彼らに代わって買い出しで町に行くほかに、ほとんど山から出ることはない。常に何かに追われていたような町での暮らしに比べ、山の暮らしは穏やかだ。

 玄関を掃くために扉を開けると、涼しい風が吹いていた。下界はまだ暑い盛りであるにも関わらず、ここに吹く風は既に秋の気配で、アキアカネが空を覆いつくすように飛んでいた。

 山で暮らして二年も経つと、肌で気圧の変化がわかるようになる。町に住んでいたころに比べて五感が鋭くなり、頭で理解するより先に体が感じるのだ。しかし僕などまだまだで、管理人の雄一郎さんは頂上から空を眺めただけで、天気までぴたりと当ててしまう。

 よく晴れた気持ちのよい日に、雄一郎さんと頂上まで登ったことがある。青く澄んだ空に、白鳥が両翼を広げたような白い雲がよく映えていた。悠然とした雲の流れに見惚れていると、隣に立つ雄一郎さんがぽつりと呟いた。

「ん、今晩から荒れるな」

 思わず、え、と間抜けな返事をした。

「こんなにいい天気なのに、荒れますか」

「いい天気だからさ」

 それは理屈でなく、動物的な直感に近いものだと言う。本来は人間にも備わっていた能力で、人はそれを手放す代わりに、知識と技術を手に入れた。しかし長く野生に暮らすと、失われた能力が徐々に戻ってくるらしい。

 雄一郎さんの言っていた通り、その日の夜は嵐になった。

 八月も終わりにさしかかったころ、山小屋を一時閉鎖し、網野夫妻が一週間遅れの盆休みを取る事になった。その間、あなたも下山したらと勧められたが断った。

「五日間だけでしょう。何とかなりますよ」

「でもねえ。やっぱり朔くんひとりじゃ心配よ」

 奥さんの菊代さんは、細い眉を寄せて顔をしかめた。

「大丈夫です。ここでの仕事はひと通りこなせるようになりました」

「そうじゃなくて、私が言っているのは精神的なことよ。山のなかで誰にも会わず、ひとりで暮らすってことはね、たった五日でも相当な精神の変化をもたらすことがあるの」

 菊代さんが言わんとしていることの意味はすぐにわかったが、笑って首を振った。

「それほど弱い人間でもありません。それに、ここに住んで二年になります」

 隣で会話を聞いていた雄一郎さんも、麦茶を飲みながら頷いた。

「朔なら大丈夫だろ。案外、いい加減な奴だし。山でひとりになっておかしくなるのは、大抵、大真面目な奴だから」

「まあ、ねえ」

「菊代さんも、僕のことをいい加減な奴だと思ってたんですね」

 雄一郎さんはともかく、人当たりのよい菊代さんからもそう思われていたことは残念だったが、結局二人から不真面目を認定されて、五日間の留守を任された。誰もいない山小屋にたったひとり。それは、密かに憧れていたことでもあった。

 ところが網野さんたちが山を下り、さあ自由だと思ったその日のうちに訪問者があった。呼び出しのベルにしぶしぶ扉を開け、久しぶりに見る馴染みの顔にぎょっとした。

「お久しぶりです、ヤマさん。でも今日から五日間、ここは閉鎖中ですよ」

「じゃあなんでお前がいるんだ。しかし、全然山男にならないな」

 ヤマさんは以前勤めていた会社の先輩で、僕が山に登るきっかけを作った人だった。その会社は大学や研究機関へ書籍を卸す文系向けの営業職が中心だったというのに、見た目も思考も完全に体育会系のヤマさんが何故その仕事に就こうと思ったのかは未だに謎だ。

 もともと色黒なヤマさんの肌は、より一層黒光りしていた。この夏も、散々山に登ったのだろう。皆からヤマさんと呼ばれる彼の名は、実に山谷登《やまたにのぼる》と言った。

「こんな名前を付けられて、山に登らずにいられるか」

 常々そう言っては健康そうな若者を山へ誘うのだが、ヤマさんほどの山好きに付き合うような体力と根性のある者は少なく、僕も最初は及び腰だった。

 しかし、強引に連れて行かれた初めての登山で絶景を見た。

 それまで山とは無縁だったにも関わらず、強引に山頂まで連れて行かれた。

 頂上に着いたときは倒れ込みそうなほどくたくたで、息もうまく吸えなかった。大量に吹き出す汗をそのままに、膝に手をつき肩で息をしていたが、ふと視界が明るく開けたような気がして顔を上げた。

 空を覆っていた雲の切れ間から太陽の光が零れて、向こうに見える山脈をきらきらと照らした。雲間から射す光は神々しいほどに美しく、それまでの人生で、最も空に近づいた瞬間だった。あのときほど、空と、雲と、太陽を身近に感じたことはない。無意識のうちに、空へ手を伸ばしていた。

「何を掴もうとしてるの」

 隣にいた葵は、まったく疲れた様子もなく僕のことを笑った。


「二年も山に籠れば、風貌も変わるかと思った。もっと筋肉が付いて、体もでかくなって、体毛も濃くなって」

「そんなことあるわけないでしょう」

「本当になあ。優男のままで残念だよ。網野さんたちはどうした」

「一週間遅れの盆休みです。お孫さんにも会いたいんだそうで」

 淡々と返事をしながらダイニングへ案内して腰かけるよう勧めると、薬缶を火にかけ、珈琲を淹れようとした。

「ちょっと待て、今日はうまい珈琲を持ってきたんだ。ミル貸してくれ」

 そう言われ、銀色に光るステンレスのミルを渡した。ヤマさんはそれを受け取ると、手際良く豆を入れてハンドルを回す。

 ヤマさんは山好きであるとともに、無類の珈琲好きでもあった。山頂で、挽きたての豆で淹れた珈琲を飲むことに命を賭けている。そのためヤマさんが組むパーティで最も若い男だった僕は、ミル、ドリッパー、ステンレスの珈琲ケトルという余計な荷物を背負わされて山に登る羽目になった。

 理不尽なリュックの重みに耐え兼ね、何故インスタントや簡易ドリップではいけないのかとヤマさんに尋ねたことがある。すると、ヤマさんはふふんと鼻を鳴らした。

「俺がお前くらいのころの話だ。山頂に着いてインスタント珈琲を飲んでいたらだな、どこからともなく素晴らしい珈琲の香りが漂ってくるじゃないか。香りの出所を辿って行くと、岩を隔ててすぐ隣にいたパーティが、なんとドリップで珈琲を淹れていた。ちゃんとドリッパーを使って、珈琲用のケトルで湯を注いで。正直たまげた。山に登るときは、いかに荷物を減らすかってことが重要だろ。それをあんな余計なもの一式担いで登るなんてな。でもそれがたまらなく羨ましくて、悔しかった。最高の場所で飲むものがインスタントじゃなあ」

「気持ちは分からなくもないですが、簡易ドリップじゃ駄目ですか。ヤマさんが若い頃はまだそれほどいいものも無かったでしょうが、今はだいぶ凄いですよ」

「馬鹿だなあ。山の上で、ミルで豆を挽くのがいいんじゃないか」

 この話をしていたとき、隣で聞いていた葵も深く頷いていた。

 ヤマさんが淹れた珈琲を飲みながら、そんなことを思い出していた。

「うまいですね。こんなにうまいのは久しぶりに飲みます」

「だろ。お得意さんに歴史学者がいるんだが、妹さんが焙煎士と結婚して定期的に豆を送ってくれるんだそうだ。それを研究室でご馳走になったんだが、これがびっくりするほどうまくてな。褒めちぎって分けてもらったんだ。俺も好きで随分いろんなとこの珈琲を飲んだが、世の中には隠れた名店ってのがまだまだあるんだろうな」

 ヤマさんはごくごくと珈琲を飲み干すと、カップにもう一杯を注いだ。これがヤマさんの特徴的なところで、珈琲なのだからもう少し味わって飲めばよいものを、ジュースのように飲み干してしまうのが何ともおかしい。

「この一袋はお前にやるよ。今度はちゃんと店の名前も聞いて、買いに行こうと思ってる」

「ありがとうございます。店の名前がわかったら僕にも教えてください」

 豆が入った袋には店名らしきものが見当たらず、片隅に小さなアルファベットの判が押されたシールが貼られているだけだった。

 すっかり珈琲を飲んでしまうと、ヤマさんは神妙な顔をして大人しくなった。普段からおしゃべりなヤマさんが静かになると、かなり不気味だ。

「どうかしました?」

「どうって?」

「突然黙るなんてヤマさんらしくないし、気味が悪かったんで」

 すると、ヤマさんはにやりと笑った。

「お前は相変わらずクールだな。今日はお前とゆっくり話をしようと思って来たんだ。網野さんたちがいないのはちょうどよかったよ。それでまあ、人と話をするときは、何かを飲みながら話すのがいい。だからこれを持ってきたわけだが、話す前に飲んじまった」

「じゃ、もう一回淹れましょうか。次は僕が淹れますよ」

「そうしてくれ」


 僕の淹れた珈琲は、ヤマさんが淹れたものより少し薄かった。ヤマさんはめずらしく香りを確かめるように時間をかけて飲み、ふうとため息をつくと、僕に向き合った。

「朔。お前、いつまで山に籠ってるつもりだ」

 僕は、ヤマさんから少し目を逸らした。

「いつまでと言われても、困ります」

「葵ちゃんが下りてくるのを待ってるのか」

 前触れもなく核心を突かれて息をのんだが、ヤマさんは気付かなかった。

「まさか。葵が山で行方不明になって、もう三年になります」

 三年前の夏、葵はこの山で消息を絶った。

 葵はヤマさんの山仲間の娘で、ヤマさんに引けを取らないほど山好きだった。登山好きの一家に生まれて幼い頃から山に登り、僕より五つ年下だったにも関わらず、ベテランたちから請われてパーティのサブリーダーに抜擢されることも度々だった。

 当時の葵は週末になると、必ずどこかのパーティに参加しては山に登っていた。故に彼女が「今日はちょっとひとりで山に登って来る、陽が沈む前には帰って来る」と言ったとき、誰も止める者はいなかった。本来なら、若い女性がひとりで山に登るなどあり得ないことだ。しかし彼女なら大丈夫だろう。葵の家族も友人も、そして僕も、周囲の誰もがそう判断した。

 ところが、葵はそれきり山から下りて来なかったのだ。

 葵は普段から冗談めかして、もし自分が山で遭難するようなことがあっても捜索隊は出してくれるな、一生の恥だということを言っていたが、実際に事が起こればそんなことは通用しない。

 葵の家族はすぐに山岳救助隊へ捜索を要請し、僕やヤマさんを始めとする山仲間も続々と山に捜しに行った。そのほか葵を良く知り心配する人々が次々と山へ入り、最終的にはヘリまで出動したが、葵はおろか所持品のひとつさえ見つかることはなかった。

 葵が消息を経って一年後、家族は死亡届を出した。暑い日に行われた葬式で、祭壇の前に立ったとき、遺体は無くとも棺は必要なのだと思ったことを覚えている。空の棺には皆が山でこっそり摘んできた、葵の好きな高山植物の草花がびっしりと敷き詰められていた。

「あれから三年も経ったなんて信じられんよ。しかしそろそろ、現実として受け入れないといかん。きっと葵ちゃんはこの山の女神になったんだ」

 僕は苦笑いした。葵が聞いたら嫌がるに違いない。

「お前も、葵ちゃんがまだ山で生きてるとは思ってないだろう?」

「当たり前でしょう」

 その言葉の半分は嘘だ。未だ遺体の見つからないことが、今でも心に引っかかっている。山で遭難したのではなく、何かの事件に巻き込まれた可能性もある。あるいはとうに下山していて、どこか遠い町で何事もなく暮らしているのかもしれない。葵が消えてから様々なことを想像したが、それを誰かに話すつもりはなかった。

「それならいいけどな。いや、俺は少しも気づかなかったが、お前、葵ちゃんのこと好きだったんだな。二年前に仕事を辞めてここで働くって聞いたとき、そう思ったんだ」

 言われて冷静に自分を振り返る。僕は、葵のことが好きだったのか。

「それは違います。葵のことは、好きと言うより……」

 それを言葉にするのは難しい。彼女に惹かれていたことは確かだが、愛や恋とは少し違う。偶然相手が異性だったというだけで、「好きだったのだろう」と片付けられるような感情ではなかった。しかしその複雑な違いを説明できるほど、頭も口も回らない。

 僕の言葉がそれ以上続かないことに、ヤマさんは「まあまあ、照れるな」と言った。これ以上の否定は肯定の意味として受け取られると悟り、無言で珈琲を啜った。

「確かに好きな女が山で消息を絶ったら、相当ショックだっただろう。でもお前はまだ若いんだし、これからを生きていかなきゃいけないんじゃないか」

 ヤマさんはごくりと喉を鳴らして珈琲を飲むと、僕の目を見据えた。

「実は今、人手が足りない。お前と入れ替わりに入ってきた新人が、最近急に辞めちまった。やっと仕事ができるようになってきたってところだったのにな。これからまた新人を取って教えてってことをやる時間も、コストも、正直今の会社にはないんだ。即戦力が欲しい」

 ヤマさんの目は、これまで見たことがないほど真剣だった。

「朔、戻って来ないか。お得意さん方も、まだお前のこと覚えてるよ。今は山に籠って修行してますって言うと、笑うんだ。そりゃ、でかくなって帰って来るに違いないって」

 出入りしていた図書館や研究室は大らかな人が多く、仕事を辞める際、とても残念がってくれる人もいた。彼らが今でも自分を覚えていてくれるのはとてもありがたく、素直にうれしいと思ったが、今すぐ戻る気にはなれなかった。断りの言葉を伝えるために口を開こうとすると、ヤマさんがごつごつとした大きな手で制した。

「返事は今でなくていい。ゆっくり考えてくれていいんだ。朔、こういうときは三日、いや、一週間くらい考えていいんだぞ。時間が経てば経つほど、冷静になれる」

 先手を打たれて口を噤む。曖昧に笑って頷くと、すっかり冷めた珈琲を飲み干した。

 ヤマさんが帰ったあとも、小屋には珈琲の香りが漂っていた。その香りには、雑然とした町の気配が混ざっているような気がした。

 二年も山に籠っていた。テレビはあっても、それは菊代さんが連続ドラマを見るためだけの専用機に近く、ほとんど視聴していない。ラジオは専ら天気予報しか聞かず、流行歌も知らない。パソコンを使うのはメールで必要最低限のことをやりとりするときだけで、自分の携帯電話もここへ来る前に解約してしまった。

 つまり、外の世界とはほとんど無縁で過ごしてきたのだ。そのような人間が以前働いていたというだけで、目まぐるしい営業の仕事に戻れるものだろうか。ヤマさんは即戦力が欲しいと言っていた。今の自分に、すぐ戦える力があるとも思えなかった。

 延々と断る理由を考えながら、夕食のためにポトフを作ることにした。本来は別のものを作ろうとしていたはずなのに、余計なことを考えながら野菜を切るうち、とんでもない量になっていた。おまけに何を作るつもりだったのかをすっかり忘れ、山のような野菜を一度に調理するために、大鍋でポトフを煮るよりほかなかった。

 コンロの前で佇んだまま、キャベツや玉葱や人参がくつくつと煮えるのを待った。鍋の蓋を開けるたび、えらい量になってしまったと後悔する。明日も三食ポトフを食べるしかない。そう思いながら皿に盛り付けようとしたところで呼び出しのベルが鳴り、心臓が跳ねた。

 扉を開けると、あたりはすっかり暗くなっていた。外に立っていたのは初老の上品な男女で、疲れ切った顔をしている。二人は僕を見ると、途端に安堵した表情になった。

「ああ、よかった。あの、こちらは今晩泊まることは可能でしょうか」

「私は後藤一郎と申します。こちらは妻のかず江です。陽が沈む前に下山するつもりだったのですが、予定より随分遅くなってしまって……」

「そういうことでしたらもちろんです。どうぞ」

 閉鎖中とは言え、緊急時は別対応だ。利用申込書を記入してもらい、荷物を預かってダイニングへ案内すると、すぐにポトフのことを思い出した。

 二人は目の前に出されたポトフを見るなり、すぐスプーンを手に取った。体はすっかり冷えきって、空腹も度を越えていたらしい。

「いやいや、ありがたい」

「お野菜が柔らかくて、おいしいわあ」

 彼らはポトフを食べながら、久しぶりに山へ来たのだと話した。

「昔は随分この山に登ったんです。久々に登ってみたくなりまして」

「知っている山だったから油断したのよね。若いころとは違うのに」

「いや、しかしよかった」

「本当によかったわ。温かいご飯まで頂けるなんて」

 夫妻は何度も「よかった」を繰り返した。その様子に、不穏な思いが胸をよぎった。

「あの、もしかして……」

 僕の言葉を最後まで待つことなく、一郎さんは深く頷いて苦い顔をした。

「ええ、ええ、迷いました。おかしな話ですねえ。それほど複雑な山でもないのに」

「どんなに歩いても、同じところへ出てしまうの。どんどん暗くなって、コンパスも見え辛くなるし。いいえ、コンパスが指し示す方向さえ信じられなくなるほどだった。私たちもいろいろな山に登ったけれど、こんな思いをしたのは初めて」

「それは本当に、ご無事で何よりです」

 どれほど山に慣れている人でも、稀にそうしたことが起こってしまう。葵はそれを、山の妖精に気に入られるのだと言っていた。妖精は方向感覚を狂わせる粉を持っていて、気に入った登山者を見つけると、頭上にその粉を撒く。粉を撒かれた登山者は正しい道を選ぶことができず、誰かが迎えに来るまで永遠に山をさまようことになるらしい。夫妻にその話をすると、二人は目を丸くした。

「確かにねえ。自分たちの方向感覚がおかしくなったとしか思えなかったわ。山の地形が変わるはずないもの」

「私たちも、お迎えがなければ危うかった」

 一郎さんの言葉に、今度は僕が目を丸くする番だった。

「お迎え、とは?」

 すると、二人は顔を見合わせてから肩を竦めた。

「いえ。よくある話ですよ」

「そう。よくある話。しかしいざ自分の身に起こってみると、とても不思議なものです」

 それから夫妻は淡々と、この小屋まで辿り着いた経緯を話した。

 頂上まで登るつもりはなく、運動のつもりで登ろうと思ったのだという。夏の山の空気を吸うだけでも十分、ほどよいところで引き返し、日暮れまでには山を下りればよい。その軽い気持ちがいけなかったのだろうと、一郎さんは酷く後悔していた。

「この山は久しぶりでしたが、若いころに何度も登った。知った山だと、甘く見ていた」

 下山の途中、一本道を間違えた気がした。もう随分下った後で、引き返すことをためらった。道は続いているし、方向的にも間違ってはいない。少し脇に逸れてしまっただけで、このまま下りれば本来の道に合流できるだろう。

 ところがそうはならなかった。一向にもとの道に戻らないばかりか、何度も同じ場所に出てしまう。その間にも陽は傾き、闇が迫るほど、気持ちばかりが急いていく。これは大変なことになったかもしれない。手元のコンパスが懐中電灯の明かりなしでは見られないほどあたりが暗くなったとき、夫妻は既に諦めの境地だったそうだ。

「二人ともぐったりしてしまって、もう明るくなるまで動かないほうがよいだろうと思ったときです。木陰から、ひょっこり女の子が現れた。いえ、女の子と言っても登山者です。最初に姿を見たときは、少女かと思うくらい小柄な子でしたが」

 すると、かず江さんが少し興奮した様子で続きを話した。

「『迷いましたか』と声を掛けられました。話してみると、見た目と違ってしっかりした子でねえ。これこれこういうわけで途方に暮れていた。あなたはどうしたのと話すと、『私はこれからすぐ下にある山小屋へ行くところだから、よければ案内しましょう』と言って何の迷いもなく歩き出して。私たちは慌ててその後を追いました。何しろ速足なの」

「そうそう。こっちは年寄りなのに、振り返ることもなくずんずん歩く。必死にその小さな背中を追いかけていたら、明かりが点いたこの小屋が見えた。彼女は『あれです』と指をさして、この小道を下ればすぐだと言って私たちをそこから下ろした。いやあ、心の底から安心したよ。思わず妻と手を取り合って喜んで」

「そうそう。そして私たちが喜んでいるほんの僅かな間に」

「いなくなっちゃったんだよね。その子」

 二人は揃ってため息をつき、未だ夢から醒めきれないような余韻を引き摺っているように見えた。

「こういう話は、わりと聞きますよね。外国の山とかでも、たまにあるらしい。そうした話を否定もしていませんでしたが、まさか自分の身に起こるとは思いもよらなかった。あの子はやっぱり、この山で亡くなった方なのかな。どうでしょう、この山でそういう話はありませんでしたか。女の子がひとり、山から下りて来なかったとか」

 あまりのことに、言葉が詰まる。しかし、二人は僕の目に動揺の光を捉えたらしい。答えを急かすこともなく、静かに返事を待っていた。

「その女の子、赤いヤッケに、緑のリュックを背負っていませんでしたか」

 ようやく絞り出した声は掠れていた。一郎さんは神妙な顔で「ううむ」と言って首を捻り、かず江さんは何かを思い出そうとするように目を閉じた。

「もう、暗かったからなあ。リュックは何色だったか」

「ええ。でもヤッケは赤かったような気がするわ。たぶん」

 葵がこの山小屋に二人を案内したことは、少なからず衝撃だった。

 彼女は僕がここにいることを知っている。それにも関わらず、僕のところまで会いに来てはくれない。葵には、確かにそういうところがあった。人懐こいと思わせておいて、冷やかに突き離すことがある。他人とは常に一定の距離を置き、離れはしないが、近づいてくることもない。

 そうした人間と話すためには、こちらから積極的に動くしかないだろう。

 後藤夫妻を麓まで見送った日の夕暮れ、カンテラを手に小屋を出た。扉に鍵をかけるとき、善き登山者は夜の山歩きをしない、という鉄の掟を破ることを、心のうちでそっと網野さんたちに謝った。

 どうしても、夜でなければ駄目だ。誂えたように、今宵は新月。月の光さえない暗闇のなかであれば、葵も出て来やすいだろう。

 あたりが暗くなるにつれ、カンテラの光が鮮やかさを増した。薄暗闇が迫るころ、頭上に宵の明星が見えた。今夜は晴れるらしい。

 暗闇に目が慣れるほど登ったところで腰を下ろすと、リュックから珈琲豆とミルを取り出し、カンテラの明かりを頼りに二杯分の豆を挽いた。あたり一帯に珈琲の香りが漂い、それは闇に溶けてどこまでも広がっていく。ストーヴに火を点け、ケトルに湯を沸かした。顔を上げれば、降るような星空が見える。

 ケトルからしゅんしゅんと湯気が出て、そろそろ頃合いと思われたときだ。ふと、自分の五感が妙に研ぎ澄まされているような気がした。暗闇でもくっきりと見える景色、遠くで生き物が蠢く音、踏みしめている土のにおい。

 すべてが冴え冴えとして、これが雄一郎さんの言っていた動物的な何かかと思った瞬間、足元から風が吹き上げ、草木をざわざわと鳴らした。その風が遠くに去り、夜の静けさが戻ったとき、ひとつの懐かしい気配を感じた。

 そのまま息を殺してじっとしていると、後ろからざくざくと土を踏む音が聞こえてきた。その軽やかな足音を聞くのは久しぶりで、思わず振り向いて声を掛けそうになる。しかし葵の性格を考えると、ここで諸手を上げて「会いたかった、待っていた」と言って歓迎するのは好ましくない。こういうときは努めて冷静に、さり気なく言うのがよいだろう。

「久しぶり。おいしい珈琲があるんだけど、どうかな」

「やあ、久しぶり。それじゃあ、ご馳走になろうかしら」

 三年前と少しも変わらぬ姿で、そう言った。


 足もあれば、向こうが透けて見えるわけでもない。どこから見ても普通の人間であることに拍子抜けした僕をよそに、葵は向かいに腰を下ろした。

「何をぼうっとしてるの。湯が沸いてるよ」

「ああ、うん」

 指摘されてストーヴの火を切ると、ドリッパーに細く湯を注いだ。細かな泡のドームができて、新鮮な珈琲の香りが立ち上る。葵は下ろしたリュックをごそごそとあさり、赤い琺瑯のカップを僕に渡した。カップも間違いなく葵のものだ。いつも並々と珈琲を注ぎ、小さな掌で包むように持って飲んでいた。

「なにこれ、おいしい」

 葵は珈琲を一口飲んだ途端、目を見開いた。

「こんなにおいしいのは初めて。どこの?」

「さあ。ヤマさんが持ってきてくれたんだ。店の名前は調べておくって言ってたけど」

「袋に何か書いてあるよ。あ、でもこれは、ブレンド名かな」

 葵は珈琲豆の袋にカンテラをかざし、判で押した小さいアルファベットを読みあげた。

「『Little night』だって。カップのなかの珈琲は、小さな夜ってことかな。なかなかロマンチックなブレンド名を付けるね」

 それはまさに、今宵のことのような気がした。僕たちはきっと、夜を注いだ珈琲カップの底にいる。

「この三年、どうしていたんだ」

 葵は僕に一瞥もくれず、そのまま珈琲を飲みながら話した。

「ずっと山にいたよ。君こそどうして、あの山小屋にずっといるの」

「知ってたのか」

「あの小屋に来た日からね」

 そう言ってようやく僕を見たが、その目は冷ややかだった。

「一体いつまで、あそこにいるつもりなのかと思ってた」

「別に、いつまでいたっていいじゃないか。ここでの暮らしは楽しいよ。時間を使うんじゃなく、時間に使われるような町の暮らしにはいい加減うんざりしてたんだ」

「このままずっと山で暮らして、仙人にでもなるつもり?」

「仙人か。それもいいね」

 葵は眉をひそめ、少し怒っているようだった。

「冗談で言ってるんじゃないの。ずっと山で暮らしてると、本当にそうなるよ。町の空気を忘れて、二度と下界に住めなくなる」

「それを言ったら、網野さんたちはどうなるんだ」

「あの人たちはいいんだよ。人生半分以上終わってるんだから」

 酷い言い方に、僕は苦笑いをした。しかし、これが葵だ。目の前にいるのが紛れもなく葵だということに、うれしさと戸惑いを感じている自分がいる。葵はため息をついて珈琲を飲むと、僕の目をじっと見つめた。吸い込まれるような葵の瞳に魅入られてはいけないと、背筋を伸ばして体を引いた。

「君のコンパスはどうしたの」

 そう言われ、ヤッケの胸ポケットから小さなコンパスを取り出した。

「持ってるよ。ほら、昔から使ってるやつ」

「そうじゃなくて、君自身のなかにあるコンパスは、一体どっちを向いているの」

 僕が怪訝な顔をしたことに、葵は再びため息をついた。

「君は自分のなかに、どんなときでも周りに惑わされることのない完璧なコンパスを持ってた。君はいつだって、自分を見失うことなく生きてきたじゃない」

「そうだったかな」

「そうだったよ」
 
 そして葵は、昔を思い出すように遠くを見つめた。

「昔、雪山に登ったことがあったよね。ヤマさんとじゃなく、若い山仲間ばっかりで。案の定無茶をして、遭難しかけたことを覚えてる?」

「ああ、そんなこともあった」

 そのことならよく覚えている。後にも先にも、もう駄目かもしれないと思ったのはあのときだけだった。

 最初は小降りだった雪が徐々に激しさを増し、あっという間に視界が真っ白になった。雪が降り出した段階で引き返せばよかったのだが、誰かが、せっかくだからもう少し先まで行ってみようと言ったのだ。

「あのとき先に進もうと言ったのは誰だったかしら」

「さあ、僕も覚えてないな。でも誰も反対しなかったんだから、その人のせいじゃないよ」

 葵は僕の顔をまじまじと眺め、深く頷いた。

「私は、あのときほど山が怖いと思ったことはなかった。山では人間なんて虫けらみたいなものなんだと思い知った。自分は山の何を知った気でいたのかと、とても打ちのめされた気分だったよ。ひとつも身動きできなくなって、私もいよいよ初遭難、いや、下手をすれば死ぬかもしれないと覚悟を決めてた。あの場にいた全員がそう思ってたよ」

 吹き荒ぶ雪は容赦なく体温を下げ、熱を奪われた体は思うように動かない。体の自由がきかなくなると、人はいろいろなことを諦めてしまう。誰かひとりが立ち止まると、途端に皆、そこから動かなくなってしまったのだ。

「でも、君だけが諦めてなかった。四方が真っ白で何も見えない絶望的な状況のなかで、君だけが掌のコンパスを必死に眺めて、こっちだと言った。それでも私たちが右往左往していると、助けを呼んでくると言って、ひとりで歩いて行ったよね」

 そこで葵は微笑んだ。手元のカップをゆらりと回し、僕から目を逸らした。

「正直、惚れたよ。あの迷いのない背中には」

 突然そう言われて、どんな顔をすればいいのかわからない。葵はにやにやして僕を見ると、声を上げて笑った。

「私だけじゃない。その場にいた女は皆君に惚れたよ。何だかんだで君の後を付いて行った私たちは、全員無事に山を下ることができたんだもの」

「運が良かったんだ。今思えば、もっと悪くなる可能性もあった」

「それでもあの絶望的な状況でひとり歩き出した君は、格好良かったよ」

 初めて聞く話だった。葵が僕をそのように思っていたなど、考えたこともなかった。

「それが君のコンパス。状況や周りの人間に左右されることなく、自分で自分の道を歩いていく。だから誰かのせいにすることもしない。山を下りてから、誰々のせいで遭難しかけた、とか陰口を叩いてた奴もいたんだよ」

「そんな奴いたの?」

「それを言ったのが誰だったのかも忘れちゃったけどね」

 葵はそこで、ふと真顔になった。

「君にはしっかりとした生きる軸があった。私はそこに惚れたの」

 真面目に言われると戸惑うばかりだ。しかし、本当にそう思っていてくれたのなら。

「どうしてあのとき言ってくれなかったんだ」

「言えるわけがないよ。君とそういう関係になりたくなかったし、君も望んでなかったよね」

 葵の言う通りだった。僕の葵に対する感情は、色恋の類と少し違うのかもしれない。

「あの一件のあと、マユさんが君に告白したでしょ。君はその場でにべもなく断ったらしいけど」

「ああ、うん」

 マユさんは僕よりひとつ年下で、いつも身綺麗にして可愛い子だとは思っていたが、それ以上の感情は起きない、ただの山仲間だった。

「君にはもったいないくらいの美人だったし、マユさんのことを好きな人も多かったのに。マユさんも、普段は地味な君に自分が振られるとは思ってなかったんだろうね。君がいかにクールだったか、泣きながら私に話した」

「本当に? そんなことで泣くような子には見えなかったけど」

「君にとってはそんなことでも、彼女にとっては大事なことだったの。とにかくそのせいで、私はますます君に惚れたと言い辛くなってしまった。結局マユさんは君を避けるようになって、それきり疎遠になってしまったでしょ。告白しなければ、ずっと良き友でいられたかもしれないのに。でもこういう話をすると、男女の間に友情なんてあり得ない、絶対に下心があるとか言い出す人がいるんだよね。本当にそうかなあ。私にはわからないよ」

 葵はごくごくと珈琲を飲み干した。つられて僕も、カップに口を付ける。

「今にして思えば、私が君に抱いていたのは恋心じゃなくて尊敬の念だよ。私は常に自分の軸をしっかり持っている君のようになりたかった。そこに性別は関係ない。君が女性だったとしても、きっと同じことを思ったよ」

 葵はさらりとそう言ったが、これほどの褒め言葉をもらえることが、残りの人生にあと何回あるだろう。単に好きだと言われるよりも、格段にうれしかった。

「買い被り過ぎだ。僕は、それほどたいした人間じゃない」

「ええ、私の勘違いだったようね。君のコンパスは、いつからか狂いっぱなしだもの」

 うれしさを隠すための謙遜だったために、僕はがっくりと肩を落とした。

「誰のせいだと思っているんだ。そもそも君が、山でいなくなったりしなければ……」

 言いかけて、口をつぐんだ。僕がそれを言う資格はないだろう。僕も葵に、最後まで好意的な言葉を伝えることができなかったのだから。

「いや、すまない。それは君と関係のないことだ。僕は、僕の意志でここへ来た」

「ほら、いかにも君らしい。君は絶対に、誰かのせいにしない」

 葵は笑って、今度は自分が豆を挽きたいと言い出した。葵ががりがりと豆を挽く音を聞きながら夜空を見ると、星がいくらか移動していた。夜も随分、更けてきたのだろう。

 僕は葵を見つめると、重い口を開いた。

「本当は、山で何があったんだ。妖精にでも気に入られてしまったのか?」

 葵は少し笑っただけで、ハンドルを回す手を止めない。僕は小さくため息をついて、湯を沸かすためにストーヴへ火を点けた。

「自ら命を断った人は、本当に死にたいと思っていたのかしら?」

 唐突な問いに対し、咄嗟に返事ができなかった。しかし葵は最初から僕の言葉など待っていないようで、構うことなく続けた。

「別に死ぬつもりはなかった。でも、気がついたら死んでいた。そういうこともあるんじゃないかな。たとえば駅のホームに電車が入ってくる瞬間、思わず線路に飛び出したくなる衝動。あるいは車を運転しているとき、ハンドルをガードレールの方にきりたくなる衝動。それらは別に、理由なく反射的に行なってしまうのかもしれない」
 
 しゅうしゅうとガスが火に変わる音がする。カンテラの僅かな明かりに浮かぶ葵の顔は虚ろで、僕はようやく、彼女が既にこの世のものではないことを悟った。

「死に魅入られる、ほんの僅かな瞬間だよ。大抵の人はやり過ごせる。でも私は、やり過ごすことができなかった。山脈を見下ろすために立った断崖で、心を奪われた。足を踏み出せばどうなるかわかっていたのに、踏み出してしまったの。それは君が山頂で、空に手を伸ばした感覚に似てるかもしれない。無意識のうちに、体が動いた」

 その感覚は僕にも覚えがあり、理解はできるが、感情が追いつかない。葵が今もこの山のどこかで静かに横たわっているのだとしたら、すぐにでも迎えに行きたかった。

「それは、どこなんだ」

 自分でも驚くほど思い詰めた声だった。葵は首を横に振ると、「いいの」と言った。

「そっとしておいて。このまま山の一部になれるのなら、お墓に入るよりずっといい。皆に迷惑をかけて申し訳なかったけど、体が見つからなくて本当によかったと思ってるの。きっと皆はまだ若いのにって思っただろうけど、私は人生に十分満足していたよ」

 葵はケトルを持ち上げると、細く丁寧にドリッパーへ湯を注ぐ。珈琲豆は魔法をかけられたように、僕が淹れたときよりもずっと大きな泡のドームになって膨らんだ。

「と、思っていたはずなのに、やっぱり心残りがあったみたいね。体はすっかり朽ちてしまったのに、いつまでも山のなかをぐるぐるとして、なかなか空へ上がれない。そうこうしているうちに、コンパスの壊れた君がこの山へやって来た」

 カップに珈琲を注ぎ、僕へ渡した。受け取りながら、言い訳を考えていた。

「僕も心残りだったんだ。あのとき君がひとりで登ると聞いて、ほんの少し不安だった。でも、君なら大丈夫だろうと思ってしまったんだ」

 葵が山から下りてこないと連絡を受けたときの虚脱感を覚えている。胸のなかにじわじわと苦いものが広がって、体から力が抜けた。

「思い上がるなと言われるかもしれないが、あのとき僕が一緒に登れば、結果は変わっていたのかもしれない。この三年の間に、何度もそう思った」

「君に責任はないよ」

「わかってるさ。でも考えるんだ」

 少しずつ感情的になっていることが自分でもわかる。気持ちを落ち着かせるために珈琲を飲むと、それは僕が淹れたものより遥かにおいしかった。

「僕も、君のことを尊敬していた。皆が疲れたころに励ましながら先頭を歩くのは、いつも君だった。絶対に弱音を吐かないし、誰より華奢なのに人の分まで荷物を担いで。山の人たちは皆、君のことを慕っていたよ。でもそうやっていつも人に囲まれて楽しそうにしていながら、たまにその輪から外れて静かに山を眺めていたことも知ってる。そのときの君は孤独そのもので、本当は皆が思うほど、明るい人間ではないのかもしれないと思った。そうだとすれば、いつも明るいふりをして生きるのは辛くないか。自分の暗いところを見せずに生きることは立派だけど、もっと楽に生きてもいいんじゃないか。そう思ったこともある」

 僕は葵の心の底にあるものに、遂に触れることができなかった。話す機会はいくらでもあったはずなのに、近づき過ぎることを恐れていたのは、きっと僕のほうだった。

 葵はやさしい顔をすると、照れたように微笑んだ。

「それこそ買い被り過ぎだよ。でも、君からそう思われていたことはうれしいな。本当に、君とはもっといろいろな話をしておくべきだったね。今更後悔しても、遅いけど。会いに来てくれてうれしかった。ありがとう、朔。そこまで自分を理解してくれていた人がいただけで、私の生きた価値はある」

「待て。君のなかだけで満足されても困る。僕のなかでは、何も解決されていない」

「謎や疑問のすべてが解決できるものだなんて思わないほうがいい。とくに人間の心は、永遠に解き明かされることなんてない。それに私は、終わった人間なの。そんな人間にいつまでも構わないで。君はもう、山を下りなさい」

「終わった人間? 死んだ人間が生きている人間に影響を与えないとでも思っているのか? 一方的にそんなことを言われても困る」

「君がそんなに感情的な人間だったとは知らなかったよ」

 自分でもそう思う。僕は葵がそろそろ消えてしまうことを察し、どうにか時間を引き延ばそうと、駄々をこねているだけだ。葵もそれをわかっているようで、困ったように笑った。

「町の空気を忘れると戻れなくなるって言ったけど、あれは本当だよ。私がそうだった。山にいるときは自由なのに、町では不自由で仕方ないの。君の言う通り、私は大勢よりひとりでいることのほうが好きだった。あのとき崖から足を踏み出したのも、町に戻りたくなかったからかもしれない」

 不意に葵の目が潤んだ。それを自分でも気にしたのか、葵は目を閉じた。

「でも、君にはそんなことになってほしくない。何事も、突き詰めて考えたらいけない。いくら山が好きでも、それはほどほどにしておいたほうがいい。そうでないと本当に、君は一生をこの山で、たったひとりで暮らすことになる。本当のことを言うと、私は後悔してるよ。山で一生を終える前に、もっといろんなことを経験しておくべきだった」

 葵はそこで目を開けた。開けた目は、もう潤んではいなかった。

「ひとりでもいいとか、このままでいいとか言わないで。君はこれからもたくさんの人に出会って、話をして、もしかしたら結婚して、子供が生まれるかもしれない。その子と一緒にこの山に登ることだってあるかもしれない。それはとても尊いことだよ。君はとても魅力的な人間なんだから、誰かと幸せに生きてくれたら私はうれしい」

 そう言ってくれる葵に、何もしてあげられないことが苦しかった。

「僕は、もう君に何もできないのに」

「こうして小さな星空の下で、一緒に珈琲を飲んでくれただけで十分だよ」

「それだけで?」

「そうね、後は、私がうまく天に昇れるように祈ってくれるかな」

 その言葉が鋭く胸に刺さる。葵はもう、この世に留まるべき存在ではないのだ。

 それでもまだ、少しでもそばにいて欲しいと思う自分が情けない。僕はそこで初めて、自分がとてもエゴイスティックな人間だったことに気がついた。この二年間はすべて、自分のための二年間だったのだ。葵がいなくなった喪失感から、自分が立ち直るためだけの。そのことに思い至るなり愕然として、思わずうなだれたが、すぐに顔を上げた。こんな姿のまま葵を見送るのは、あまりにも情けない。

「わかった。君が滞りなく天まで昇れるように」

 そう言って、僕がヤマさんのように珈琲をごくごく飲むと、葵も残りをすっかり飲み干して立ち上がった。

「じゃあ、そろそろ行ってみるね。やっと星になれそうな気がするよ」

「ああ、流れ星には気をつけて」

 葵は微笑んで頷くと、来たときと同じように木々の間へ分け入って行った。そのとき大切なことを言い忘れたことに気がついて、後ろ姿に声をかけた。

「葵、ありがとう。僕も、会えてうれしかったよ」

 闇の向こうで、葵は大きく手を振っていた。

 遠くにほうほうと梟が鳴く声を聞きながら、暗闇の細い道を下った。あたりは静寂に包まれ、幸い、友好的でない動物とは遭遇せずに帰れそうだった。

 明日になったら、ヤマさんに電話をしよう。網野さんたちは驚くかもしれない。もしかすると何もかもお見通しで、まったく驚かないかもしれない。どちらにしても、この山のように大らかな人たちだ。きっと笑顔で見送ってくれるに違いない。

 小屋の近くで視界の開けた場所に出ると、広くなった夜空を眺めた。星はどんどん巡り、登ったときとはすっかり違う。ペガスス座が西に向かって駈け出すように見え、山頂を振り返ると、その頂から夜空に向かって小さな青白い光が昇ってゆくのが見えた。

 光はまっすぐ天に昇り、ペガススの横を通り過ぎると静かに消えた。