[掌編]3月11日

 それは私がとても幼い頃の、春の日の話だ。

 芽吹き始めたふきのとうをしゃがみこんで見つめていると、突然、地面が大きな影に覆われた。驚いて顔を上げれば、町を飲み込むほど巨大な黒いクジラが悠々と空を通り過ぎている。
 クジラの皮膚は黒く、しっとりと湿り気を帯びていて、尾ひれが規則正しく上下する。その都度強い風が吹き、足元の乾いた砂を巻き上げた。
 これほど大きなクジラが通り過ぎたにも関わらず、町で騒ぎ立てる人はいなかった。私だけが呆然と、その黒い塊を見つめていた。
 悠然と空を泳ぐクジラは、やがて暗い灰色の雲へ吸い込まれていった。

 クジラが通り過ぎたあとの町は、それまでの町とはもう違う。クジラは何かを奪ってゆき、かわりに何かを残していった。たとえばそれは、抜け殻のような私の体。私の中身は、クジラがすべて持って行ってしまった。
 抜け殻になった私は、あらゆることに対し、何の感情も持てなくなった。喜び、怒り、悲しみ、楽しみ。いずれも人間には不可欠なもので、それを失った私は人間ではないのかもしれない。
 感情のない私に対し、周りの人たちは何度も幸福とは何かを語り、また不幸とは何かを語った。しかしそれは、いずれも遠い世界のおとぎ話のようで、少しも理解できなかった。私はいたずらに歳だけを重ね、気がつくと皺だらけの老人になっていた。

 その日は、あの日と同じ風が吹いていた。咲き始めたばかりのハルジオンを摘んでいると、地面に大きな影が広がった。それは間違いなく幼いころに見たクジラの影と同じもので、私は反射的に顔を上げた。
 空にはあの時と同じように巨大なクジラが悠々と泳ぎ、尾ひれを大きく動かすと、その度に強い風が巻き起こった。足元のハルジオンが何度もしなり、私は目を逸らすこともできず、口を開けたままクジラが通り過ぎるのを待った。
 するとクジラはゆっくりと体をうねらせて、私の顔を覗きこんだ。クジラの小さい目はじっと私のことを見据えていたが、やがて静かに一滴の涙をこぼした。水晶のようなその涙が私の口のなかに落ちると、クジラは再び泳ぎ出し、白く大きな雲へと消えた。
 クジラの涙は私の喉を通り過ぎ、抜け殻の体に染みこんでゆく。途端に、それまで霞んだようにぼんやりとしていた世界が鮮やかに色づき、手元のハルジオンさえ輝いて見える。
 それは、私が私に戻って来た瞬間だった。

 以来、クジラが町にやってきたことはない。私は静かに年老いて、色を取り戻した美しい世界を生きた。あのクジラはきっと今も、どこかの町の誰かの頭上で、何かを奪い、そして与えながら、悠々と泳いでいるのだろう。