限界の足音

「Twitterのフォロワーがひとり減って、あれ、と思ったらインスタもひとり減ってて、2日前のLINEも既読にならなくて、あ、切られたって思ったの」
アイスココアをストローでぐるぐるとかき混ぜながら彼女は言う。「切られた」と私がつぶやくと、「うん。音信不通」と射抜くような目でこちらを見た。


よく陽の当たるテラス席だった。友人は彼氏が1年間の交際のなかで一度も怒ったことのない温厚な人だったこと、学生時代のバイト先の先輩であったこと、激務で鬱病を患ってからも変わらずに優しかったこと、ある日の電話を境に連絡がつかなくなったこと--をひとしきり話し終えたあと、通りに目をやって「きょう日差しやばいね。椅子すごい熱い」と笑った。



消えてしまう人、というのはどこにでもいる。
そのころの私は駆け出しのライターで、所属していた小さな会社の社長に指示されるたび、右も左もわからないまま取材先に出向いていた。

ある日訪問した企業の広報担当者は穏やかな若い男性で、会社とそのサービスと自分自身についてケーキを等分するみたいに適切な説明をし、30分のあいだ、私の拙いインタビューに微笑みながら相槌を打ち続けた。
帰り際に「明日には初稿をお送りします」と言うと、彼は目を丸くして「ゆっくりでいいですよ。私が好き勝手喋っちゃったから編集するの大変でしょう。ゆっくり書いてください。僕もゆっくり読みます」と笑った。

会社に戻る電車のなかでボイスレコーダーを聴く。質問、相槌、1/3に切り分けられた適切な回答。質問、相槌、ふたたび1/3の回答(時おり笑い声)、質問、相槌……。
彼は「僕もゆっくり読みます」と最後の台詞を言う瞬間にだけ、それまで「私」だった一人称を崩し、すこしだけプライベートな声色を出した。

再生を止める。鳥肌が立っていた。彼のコミュニケーションの完璧さは明らかに常人のそれではなく、有能で素敵な人に会ったという感覚はすぐに消えた。私の手元に残ったのは、妙な居心地の悪さだけだった。


だから、数ヶ月後に彼の会社の新しい担当者が菓子折りを持って「担当者が音信不通になった」と謝罪しに来たとき、ホッとした。引き継ぎだとか、原稿確認が終わっていないとか、瑣末なことはどうでもよかった。
あんな100点満点の、道徳の教科書みたいな対応を永久に続けていたら、いつか壊れてしまう。彼は自分に限界が訪れる前に、ちゃんとそれから逃げたのだ、と思った。



その広報担当者の話を聞いた友人は、「無責任だね」と言った。
だって仕事でしょう。あとに残された人がぜんぶ彼の尻拭いをするんでしょ。100点の対応って言うけど、別にそんなの必要ないじゃん。60点の対応でも仕事できるじゃん。いくら完璧でいても、それが期間限定だったらなんの意味もないじゃん。
おおよそそんな意味のことを言って、彼女は「なんでとつぜん消えるの。なんで先に言ってくれないの」と顔を覆った。



穂村弘のエッセイにこんな話がある。
あるOLがいて、彼女は数年勤めた会社のなかで窮屈な上下関係と必然性のない仕事と短い睡眠時間に疲弊しきっている。嫌だ、けれど頑張ろう、もうすこしだけ頑張ろう、あとすこしだけ、を繰り返しながら日々、通勤電車に揺られる。

意味もなくコンビニに寄ってから家に帰ることが増え、無意味に買い物をするのがささやかな救いになりつつあることに気づいている。つまりは、そのくらい八方塞がりであるということに。
そして、「その日」はやってくる。

「或る晩、会社から帰ってきたとき」と彼女は云った。「『このゴミは分別が不完全なので収集できません』という張り紙と一緒にぽつんと残された『私のゴミ』をみた瞬間、涙が溢れて、もう何もやる気が起きなくなっちゃった」

彼女の心のコップの水を溢れさせた最後の一滴は、ゴミの貼り紙だった。
これを読んだとき、かつて何度か、自分のブレーカーが完全に落ちてしまったことがあったのを思い出した。会社を辞めたこと。何人かの人たちとの連絡を絶ったこと。誰にもLINEを返さずに眠るだけの日々を過ごしたこと。
「ゴミの貼り紙」という表現には「親の小言」や「上司の理不尽な要求」や「周囲の無神経なひと言」を、簡単に代入できた。



消えてしまう人、というのはどこにでもいる。けれど人は、とつぜん消えたりしない。
「限界」はひたひたと忍び寄ってきて、ある地点で人を後ろからウワッと捕まえる。その瞬間は確かにとつぜんだけれど、気配だけは常に影となってその人を纏っている。

「限界」なるものの足音は小さい。とても小さくて、自分の後ろにいるものならまだしも、他人のそれにはなかなか気づけない。
けれどせめて、誰かの後ろに「限界」の影が見えたなら、足音を聞き逃さないくらいには近くにいてほしいと思う。

そういう人は大抵、八方美人で、必要以上に人当たりがよくて、傷ついたときほど笑ってごまかす。その笑みが明るければ明るいほど、彼らの後ろにはしんしんと影が落ちてゆく。


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