学びたいというけれど
「君はうちのゼミじゃなくて、Mゼミの方が向いていると思う。
定員オーバーになって、面接になったら落ちるよ。」
と指導教官に言わしめたにもかかわらず、
そのゼミを選んでから6年が経つ。
しかも、指導教官の講義はCしか取ったことがない。
ついこの間、14期として12期と13期に迎え入れられ、
15期を迎え入れた新歓で指導教官が、
「5の倍数の期は節目の期なんだ」と挨拶していたと思っていたら、
16期を迎え入れて自分が卒業していた。
その16期も、17期も卒業して、
今年入ゼミした後輩は20期になるらしい。
たまたま出会った大学の後輩はうちのゼミの18期で、
大好きな先輩とも縁があるらしい。
わたしが学生としては関わっていないが、
ある後輩は団体の後輩でもあり、
うちのゼミの19期でもあるらしい。
うちの大学には、
いくつか「ガチゼミ」があるが、
うちの学部の誰もがガチゼミと知るゼミのゼミ生だった先輩が、
ゼミ選択の時候補に入れていたゼミが、
そのガチゼミとうちのゼミだったらしい。
わたしの学部の先輩でもあり、自身も研究者である知人が、
「S先生は本当にいい先生だよね。ほんとに尊敬できる方。」
と言っていたのが、
わたしの指導教官である。
東北出身で、学部が違ったわたしの同期に、
「S先生は東北ではめっちゃ有名なんだよ。
わたしがしふぉんちゃんと同じ学部だったら、Sゼミ選んでたな。」と言わしめ、
前述のガチゼミのゼミ生だった先輩に、
「大学生活をやり直せるならSゼミに入るね。」
と言わしめたのが、
わたしの指導教官であり、うちのゼミである。
うちのゼミも、本来であれば「ガチゼミ」である。
答えはいつも現場にある、と現場(地域)にどんどん出て、
演習(主に輪読)もしっかりやり、
学びに貪欲であるゼミである。
けれど、うちの期はそうではなかった。
調査もろくに行かずに卒論を書いてしまった。
4年生の演習が始まった時、指導教官に、
「調査も行かないなんて、社会科学の学生として、
やってはならないことをやってるんだぞ。」と
言わしめたことを後悔している。
わたしは、禁忌事項を犯してしまったと思っている。
わたしは、学部3年の前期の演習の輪読で読んでいた本の、
ある一文(何であったかは覚えていないが…)で、
社会教育・生涯学習の面白さを知った。
けれど、指導教官の講義でさえCしか取ったことがないわたしには、
そもそも理論がない。
調査もほとんどしていないので、実践もない。
つまり、ほとんど学びがない。
「教育」という言葉は、とてもよく聞く。
と同時に、「教育」という言葉で済まされて、
まるで羽根のように軽く使われているとも思う。
指定管理者制度による施設の運営や、
施設で働く職員の待遇にかんする課題についても、
演習でたくさん扱ったし、他の講義でも取り上げられていた。
なのに、それを唱えたツイートに、
「給料あげたいなら転職しろよ」と返しているリプを見ても、
わたしは何も言えなかった。
しかもそのツイート主は、
わたしが行ったことのあるお店の店主だった。
悔しかった。悲しかった。
教育って、軽い言葉じゃない。
専門性が担保されず、適切な対価が払われていない分野がある。
それを知っているのに、自分の言葉では何も語れない。
社会教育・生涯学習を学んだはずなのに、学びが何もない。
先輩方は、演習もしっかりやって、
調査も行って、現場(実践の場)にもたくさん出て、
学びにしてきた。
しなきゃないことにも、やりたいことにも、
何に対しても真摯で貪欲で誠実だった。
その姿勢で、13年かけて、うちのゼミらしさを作り上げていったのに、
うちの期がそれを壊してしまった。
悔しい。申し訳ない。
もっと学びたいし、忘れ物を取りに行きたい。
そんな想いが、年々強くなっている。
学部生の時から大学院進学を考えていた。
学びたいという気持ちは、それなりにある。
けれど、理論もなくて、実践もなくて、調査も行ってない人間が、
大学院に進学していいのだろうか。
そんな人間に、
大学院に進学する資格はあるのだろうか。
先取り貯金をして、
生活費を払うと、
大学院の学費どころか、
生活防衛費も貯まらない。
かけられるお金が少ないことが、悔しい。
行きたいけれど、叶うのだろうか。
叶えたいけれど、叶えていいのだろうか。