子どもは水みたいなもの
もとから存在しなければ、それはそれだったと思うよ。言いたくなってしまうのは、価値観の押しつけに対する反抗心なのかな。
生じてしまったんだからしゃーないのであって、望んだわけじゃない。
育児はたいへんでしんどいこともあるけど、かといって自分の親の大変さがわかって感謝したことはない(そのほかに親に感謝してることはたくさんある)。むしろ、だいぶ楽しませてたんやなと、こちらに感謝してもらいたいくらい。
視点を生じる側から迎える側に移すと、新しい生命にはただそれだけでものすごい価値がある。私たちはそれを必要としている。
それは水みたいなものだ。
年々水分量を失っているわたしたちは、すみずみまで水がたっぷり、ぷるぷるの存在に触れて、生命力をもらう。
乾いた共同体に水が染み込んでいく。
春の新緑に胸が躍るように、新しくて水に満ちたものはそれだけで人を励ます、勇気づける、ワクワクさせる。
だから生じただけで、かつて子どもだっただけで、みんなすでに実は、社会に対しての恩返しは終えている。やることはやった。あなたがいただけで、迎えた側は潤った。
それは、個人の感情としてそのことをどれだけ実感できるかとは、また別の層にある。感情は環境や状況や思考の癖やとにかくいろんなものに左右される。だからその価値は、わたしが、あなたが、その人が、そう思えるかどうかは別のところに、でも厳然たるものとして、あること。
子どもを育てることがこんなに「与えられる」ことだなんて、全然知らなかったのだ。