6|猪を捌く-1 生きてることの全体
栗拾いをさせてくれた大家さんは、猪の解体もする。地域の農家さんが畑の被害を抑える方策の一つとして罠を設置するのだが、自分で解体するのはなかなか、というところで、猪をくれる人が何人かいるらしい。
機会があればぜひ同行したいと伝えた翌日に、ちょうど猪がかかった。
山の中の細い道をぐんぐん上がっていく。車を降りると、森の気持ちの良い匂いがする。海も見える。
猪がいたのは、畑の脇に置いてある檻のような箱型の罠。見えるところまで近づくと、動物の、だけど穀物の香ばしさも感じるような、強い匂いがする。一匹からこんなに臭うんだ。私はほんとうに、まるで何にも知らない。
私を見て、猪はガンガンと檻に突進して、檻を破壊しようとした。みぞおちあたりにぞくっとくる、身の危険を感じる怖さ。「罠が壊れるから」と言われて、猪から見えない場所に戻った。(実際、このせいで檻が曲がって、迷惑をかけてしまった。)野生動物は強い、何もしなければこちらが侵される、なぜ罠を置くのか感覚的に理解する。
大家さんに解体の段取りなどを聞いていると、蛍光色のベストを纏った、市の鳥獣被害対策実施隊の人が来た。絶命させるのは、狩猟免許のある人でないとできない。他にも1人農家さんなのか?おじさんが来ていた。
「あんた、くにはどこなん」
「? 今はとなりの市に住んでます」
「はん、珍しそうにみとるから」
「(あ、くにって国じゃなくて故郷か)あの、神奈川です」
「神奈川もむかしっからシシ食べるとこよ」
そうですよね、とか、今回のは大きいなとか、世間話を少ししてから、鳥獣被害対策実施隊の人がライフルで猪の頭を撃ち抜いた。
あっという間だった。生命力に溢れて、ここから出せと全身で訴えてた猪が倒れて、しんと静かになった。
ガンガン大きな音をたてて動くものから、静かで全く動かないものへ。
この動物から静物への転換に、何より衝撃を受けた。動物が一瞬で物になってしまった。変化が圧倒的だった。ライフルは耳を覆いたくなるほどの大きな破裂音がして、一瞬だったけど、重い一瞬だった。
ここの部分に関しては、言葉で整理することが難しい。何を感じたのか、自分でもよくわからない。
感謝、という感覚とも違って、というのはこの罠の設置は、私たちが食べるためという、正統性のある真正面からの理由ではなかったからだろうか。罠を設置しないといけない。かかったならば、食べる。食べものがそこにあるから。そもそもが、倒錯してしまっているのかもしれない。私は何をどうすればいいのか、どうして猪が害獣になってしまうのか、知っていくこと、だろうか。
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その後は森の中の川に移動して、内臓をとる作業に進んだ。何はさておき、内臓をとらないといけない。猪は絶えたけれど、内臓の中ではたくさんの微生物が生きて熱を発しているから、そのままにしておくとその熱で肉がヤケるという。内臓を傷つけて中の微生物が肉につかないように、慎重になる工程だ。
体長約135cm、体重は100キロを超える巨体。私は運ぶのを手伝うくらいしかできなくて、それもなんとか引きずるくらいで、ほとんど何の役にも立たず(この大きさではいくら技に習熟しても1人では無理だと思う)大家さんが段取りをこなしていくのを見ていた。
お腹が切られて、でろんと一続きの内臓が出てくる。おう、とはなるけれども、産後の自分の胎盤がずるっと引きずり出されたのを思い出して、動物ってこういうものを体内に持ってるんだよねって思う。大きくて毛が生えて湯気がたっているけれども、腹を割って内臓を出すのは、魚と同じといえば、同じである。
気持ちが良いどんどんやりたいってことでもないが、魚だって捌くときには、うわん。となるものはあって、大きいものほど迫力は増すし、小さくても、たとえばアジフライをつくるとき、シンクに内臓と頭がどんどん溜まっていくのは、うわん。となる光景ではある。そのことと、同じだと思った。
同行したいとは言ったものの、いざ現場で固まってしまったらどうしようと思っていたのだが、大丈夫だった。その場でわたしが感じたことよりも、この文章のほうが、うわん。とくるものがあると思う。
断片で差し出されると、辛さやグロさといったものが多く生じるのかもしれない。実際に全体を通じて感じたのは、意外にもさらりとした日常の一部という感覚だった。私は解体を特別視しすぎていた気がした。
罠にかかったら、捌くまでは一続きの行為で(自家消費しない場合は、焼却か、1m以上の穴を掘って石灰と一緒に埋めないといけないらしい。1mの穴を掘るってけっこう無理だと思う。売るには獣肉処理施設での処理など必要な手続きが多く、そもそも市内にそうした施設がなかったりと、またハードルが高い)、ほっておいたら腐ってしまう肉を前にやることは決まっていて、やるしかない、感情の差し挟まる余地がない。それまでに抱いていた、なかば神事のようなイメージが覆って、ごく自然なことに感じられたのだった(といってもやっぱり触発されて、ものすごく色々なことを考えた)。
山の中の環境も大きい。これが今住んでる集合住宅だったら、かなり違和感が出てくる。庭はないし、台所のシンクには入らない大きさだからお風呂場でになるが、床も壁も白い風呂場に猪が運び込まれて、血を流水で流しながら、というのはなかなか凄惨な現場だろうし、野生動物はたくさんのウィルスや菌とも共生しているから、お風呂場の消毒…と考えると、違和感どころか、この家では無理である。
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命を奪うのは、心に負担のあることだ。でもほぼ毎日、肉を食べてる。植物だって生きている。食べることは基本的に、他のいきものの命をいただくことで、生きることの基本は食べることだから、生きることは奪うことともいえる。奪う部分を「誰かがやってくれている」から、気づかないだけで。
誰かがやってくれてることだって、知識としてうっすら持ってはいても、ほとんど知らない。一端に触れることで、やっと、知らないことに気づく。
それくらい、生きてることの一部しか知らなくて、それが当たり前になっている。知らずのうちにそうなってしまったところもあれば、意図的に遠ざけていることもあると思う。
たとえば、魚を捌くのは面倒臭い。私は内臓と頭の取ってある魚をよく買う。というか、富山だから丸ごとの魚も普通に売ってるけど、場所によっては切り身しか置いてないかもしれない。個々の選択として切り身を選ぶことは、何ら悪いことじゃない。楽に、便利に、効率よく。それはそれで道理に沿った人間の欲求で、私も楽で便利なことを選んで生活している。
でも、ひとつひとつは問題なくても、無自覚に日常が既成のもので構成されて、効率化や合理化された一部しか手にできなくなると、今度は生きている実感が薄くなる。そして、便利だからやり始めたことのはずなのに、仕組みがどんどん複雑化して、仕組みのために動かなければいけなくなっている。
全体を知っていること、いや、そんなのは無理なんだけど、生きていることの全体感を感じることは、大事なことだ。一部しか知らないことすら知らないくらい、それで当たり前になっていることと、生きづらく感じている人が多いことは、関係している。
手間をかけないといけない、自分でやらないといけない。「ねばならない」の規範になるとまた息苦しいが(なぜ何でもすぐに規範化してしまうんだろう?)、やりたいと思って手間をかけたり、自分でやってみること、そうして物事を理解することは、本質的な満足をくれる。既成があたりまえと思っていたものが、自分でできるようになると、自信もつく。
猪の解体を手伝って、生きてることの全体の、一端に触れた気がした。欠けてたパーツを一つ取り戻したような。それは、欠けてると思ってはいなくて、でも取り戻したことで、欠けてたことに気づいたものだった。そうして、なんだか、力が湧いてくるのだった。
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