Kyotographie 片山真理「Home again」

片山真理の展示を見てきた。

人とは違う身体は気になる。見てはいけないと思いつつ、興味を持つべきではないと思いつつ、見てしまう。サーカスを見るみたいな興味があったことは否めない。

嶋臺ギャラリーに入ると、体にグリッターを塗りつけて、いろいろな部分を写真に収めた大きなパネルが何枚も並んでいる。置いてあったリーフレットによれば、肌に症状が出る持病があるらしいので、肌の赤らみもそのせいだろうか。手術跡か、傷跡のくぼみにたまったグリッターもくっきりと見えて、肌のきめも見えて、生々しいが、見慣れた自分の体と形が違うので、何か別の生き物かオブジェを写したようにも見える。

娘が自分のありのままの体を受け止めていることによって、作品作りへの姿勢も変化したという。子のありのままを受け止めることは、親には難しい。自分の姿もありのままに受け入れられず、誰かの視線を意識するし、子供なら、人生をつつがなく生きてほしいと思うあまりに、多少の違うも気になって矯正しようとすらしてしまう。子供も、大きくなるにつれて、誰かの目線を取り込んでしまうのだろう。

作者が自分の体と向き合う過程を見て、それを子供に見せて生き抜くよすがにしてほしい、とも思ったけど、それも親の押し付けに過ぎない。生きていくのは私ではない。

写真を見ているうちに、涙が出そうになり、のどが締め付けられるように感じた。

写真は、写真という作品自体はもちろんだけど、どういうコンセプトで撮るのか、どう展示するのか、何を文章にまとめるのか、という部分が私が今まで触れてきたものよりも大きいように思った。それは、いわゆる絵画もさまざまな歴史的文脈、批評に基づいているのが、私にはなじみがなくて知らないから、絵を見てきれいだなーで終わっているだけなのもあるとは思うが。写真だけでは成立しえず、文章もあって初めて成立する空間、さらに言えば、写真家本人との交流を経て、初めて成立するのかもしれない。写真展もっと行ってみたい。

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