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地獄と閻魔さま(仏説十王経)

あの世もこの世も見えるという
特殊能力のある方のセミナーで
「地獄や閻魔さんは実在するのか」と
受講生のお一人から質問があった。

結論から言うと、あると思う人にはある、
と言うことだった。

だから、あると思って亡くなる
仏教信仰の長い日本の集合意識的なものが
作り出している世界に
彷徨ってしまうことは有りうると言うことだ。

この、地獄や閻魔さんが描かれている書物を
「仏説十王経」という。

冥界に旅立った亡者の不沈は
追善供養の有る無しによるという信仰は
この物語が元になっている。

生前、さも親しく交情を続けながら
ひとたび黄泉の客となった家族を
思い出しもせず、弔うこともないというのは
決して正しい人の道では無いと教えている。

七日七日の中陰仏事、百か日、
一周忌、三周忌などの追善仏事が
冥界へ旅立った故人の助けになるという教えだ。

中国には先祖を大々的に弔う文化で、
そこに出家第一主義であるインド仏教が入ってきた。

出家などしたら家が続かない、
派手な弔いで先祖が祀れない。
そういう先祖崇拝のある中国の文化で
中和された仏教が日本に入ってきて、
更に日本風の教えになる。

十王経に描かれる地獄の恐ろしい責苦は
中国の民間信仰や道教も集合されているそうだ。

日本では平安時代に発展し
鎌倉時代には本地(閻魔の本地は地蔵菩薩など)が加えられ
教義としても発展し
先祖供養の文化がしっかり根付いてきた。

「十王経」がどういうものか知らずとも
大体の家庭では追善供養して
亡くなった家族の冥土の旅を助けている。

簡単に説明すると

冥土には10人の王がいて死後の人々の捌きをつける。
この王達の本来の姿(本地)は菩薩 だが、
生死解脱の道が開かれるため、
柔和忍辱の姿を極悪憤怒の姿を仮に現している。

これは日本独自で発展した考えで
大陸では本地は菩薩だと言う教えはない。

魂が肉体を去る時というのは
奈落のどん底に落ちるようであるが
酷い責苦を負いながらただ1人、広い野原を彷徨い行く。
これを「中有の旅」という

ちなみに極善人は直ちに成仏し、
極悪人は直ちに地獄に落ちるので中有の旅はない

初七日  泰広王(不動明王)
二七日目 初江王(釈迦如来)
三七日目 宋帝王(文珠師利菩薩)
四七日目 五官王(普賢菩薩)
五七日目 閻魔大王(地蔵菩薩)
六七日目 変成王(弥勒菩薩)
七七日目 泰山王(薬師如来)
百か日  平等王(観世音菩薩)
一周忌  都弔王(勢至菩薩)
三周忌 五道輪轉王(阿弥陀如来)

これら十王の裁きが行われるのが
地獄というわけで
これを信じて亡くなり
その世界で彷徨っている霊を弔うのが供養で

以前、並木良和さんに聞いた話では
霊界でも天界へ送り出すための働き
(気づかせてあげる働きかけ)があり
もう彷徨っている霊は
ほとんど居なくなっているということだった。

地獄や閻魔さんを信じない人にとっても
供養は遺族のためでもあるので
故人を想う大切な行事であることに
変わりはない。




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千咲/習慣美人研究家
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